第十一話 変化

〔11〕


 遠くで名前を呼ばれている気がする……俺は何とか返事をしつつ、身体を包むブランケットの柔らかい感触に抗えずに寝返りを打つ。

「……ラウ、ほら、起きろ」

 軽く肩を揺すられて、重い目蓋を何とか上げる。見慣れない天井や電灯に、一瞬ここが何処か分からなくなる。

「あ、れ……ここ、どこ」

 寝ぼけ眼で呟けば、ベッドの端に腰を下ろしていたチャンが苦笑しつつ、俺の髪を混ぜるようにする。

「忘れたか? 尖沙咀チムサーチョイの新しい家だ」

 俺は一気に目が覚めて辺りを見回す。そうだった。昨晩はバーを後にして、そのまま九龍城砦を出た後に住む高層アパートに案内されたのだった。

 広々として清潔な部屋に感動したのは、夢じゃなかったらしい。チャンはあらかじめ置いてあったらしいワイシャツとスラックスに着替えていた。

「俺は、九龍城砦の事務所に一度戻ってから、ボスの元に報告に行く予定だが……ラウ、お前はどうする?」

「ワン老師の稽古に行かなきゃ……」

 しょぼつく目を擦りつつ言うと、チャンが少し呆れたように笑い、俺の頭に手を乗せる。

「じゃあ、シャワーを浴びて目を覚まさないとな」

 こっくりと頷いて、手渡された肌触りの良いシルクのナイトガウンの袖に腕を通して、浴室へと向かう。

 シャワーを浴びているうちに完全に目が覚める。浴室を出て、改めて九龍城砦とは違う雰囲気の部屋に感心してしまった。一ヶ月後には、ここに自分がチャンと住むなんて……夢を見ているようだ。

 カウンターキッチンから淹れたての珈琲の香りが漂い、俺は濡れた髪をタオルで拭きつつ彼の元に向かう。

 チャンが珈琲の注がれたカップを差し出し、「ありがと」と、それを受け取りつつ、ふと昨晩の事が過る。

「昨日、デーモンスカルと闘って、何か気がついた?」

「おそらく身長は5.6英尺フィート(170センチ)程度だろうな。八卦刀の扱いにはかなり慣れている様子だった」

「黒いローブのデーモンスカルは、5.9英尺フィート(180センチ)くらいで、かなりの八卦掌の遣い手だと思う。そして……多分、奴はマックスではないと思う」

 チャンがカップを傾けつつ、片方の眉を吊り上げた。

「しかし、あの男が奴らの仲間ではないという確証はない。仲間ではなかったとしても、身元を偽り、何かを企んでいた事は確かだ」

「……分かってる」

 哀しいが、チャンの言う通りだ。思わず肩を落としつつ、カップに注がれた珈琲を見つめる。

「もう、あの男の事は忘れろ」

 そうチャンが俺の濡れた髪から耳、首筋を撫でる。俺は僅かに頷いて、彼を見つめる。

「……チャン達は、彼を追っているの?」

「行方を探っているが、棲み処も引き払っていたし、すでに香港にいない可能性もある。九龍城砦で見かけたら、無論、捕らえる事になると思うが」

「そっか……」

 チャンがふと手首の金時計に目を落とし、カップを置いた。

「そろそろ出かける支度をしよう」

 促されて俺は急いでスツールから腰を上げる。チャンが思い出したように、こちらを振り向いた。

「ラウの服もクローゼットに用意してある」

 クローゼットを開ければ、そこには仕立ての良いシャツやスーツが吊るされており、驚いて彼を見やる。

「このスーツ、俺の?」

「ああ。何かの時に必要になる事もあるだろう。ラフな服もある」

 ハンガーに掛けられたシャツやスラックスも確かにカジュアルなデザインではあるが、仕立ての良さから高価なものだと一目で分かった。

 俺は少し気おくれしながら、ネクタイを選んでいるチャンに言う。

「あ、あの……こんなの俺には勿体ないよ」

「今日のスーツには、どっちがいいと思う?」

 チャンがグレーの細いストライプのネクタイと、ネイビーの小さなドットのものを手にしていた。

 ドットのものを指差そうとして、ベッドに置かれた紺地の細いピンストライプの背広とスーツベストが目に入る。俺はネクタイハンガーにあった紺と水色が斜めに太く縞模様になっているものを手に取る。

「その二つもいいけど、こっちのネクタイでも合うと思うな」

 チャンは俺が選んだネクタイに「趣味が良いな」と目を細めて、それを首に掛ける。

「勿体ないなんて、自分で自分の価値を安く見積もることは無い。俺のチョイスが趣味に合わなければ、着なくてもいいが」

「そんなことないよ……! 全部、素敵だと思う」

「じゃあ、遠慮せずに着ればいい」

 彼がミラーを覗き込み、ネクタイが曲がっていないか確認しながら言い、俺は頷きながらも、とりあえずラフな紺のストライプ地のリネンシャツと、ジーパンに手を伸ばす。

 互いに身支度を整えて、ふとチャンとミラー越しに目が合う。俺の姿を見て、彼は揶揄うように唇の端を上げてみせる。

「似合っているぞ。おまけに、ペアルックみたいだ」

 言われてみて気づいた。自分の頬に血が昇る様子が鏡に映り、俺は狼狽してチャンを振り返る。

「わ、わざとじゃないよ、偶然だ!」

 チャンはくつくつと笑いながら、宥めるように俺の肩に手を置く。

「分かっているさ」

 俺はなんだか新鮮な気分で、彼を見つめる。応竜インロンで手下達を統べる時は、あまり表情も変わらず、冷酷で時に獰猛な顔しか見せない彼が、こんなにも表情豊かだなんて。チャンの笑みに、思わず俺もつられて頬が緩んだ。


 彼の運転する車で九龍城砦に戻り、車を降りつつ、はたと思い出す。

「ねえ、チャン。今日の夜でいいから、少し時間はある?」

「勿論、大丈夫だが……どうした?」

「色々と調べて分かった事があって……話しておきたいんだ」

「あの男が冰室カフェに残していった写真やノートに関係があるのか?」

「実は、そうなんだ」

 チャンが「分かった」と頷く。

 ホンを先頭に手下達がチャンを迎えるために姿を見せ、俺はワン老師の待つ公園に続く路地へと向かった。

 いつものようにワン老師が鳩に豆をやっている間、木人椿もくじんとう膀手ボンサオ攤手タンサオ伏手フォクサオの練習をしていく。

 ふと、マックスが左右逆さの包拳礼をしていたことを思い出してしまい、その手が止まる。

「……マックス……」

 ぼんやりと呟くと、いつの間にかワン老師が傍らにいた。

「なにか気がかりなことでもあったのかな?」

「え、ええ……実は……」

 胸の内に仕舞っておいては集中力が欠け、きっと稽古に支障が出るだろう。俺は、ワン老師にマックス・バトラーというカメラマンは存在しないこと、そしてチャンやその手下達との闘いぶりを話す。

 ワン老師は、静かな面持ちで俺の話に耳を傾けていたが、ゆっくりと頷く。

「そうだったのか。しかし……わたしから見た彼は、悪人には思えなかったがね」

 ワン老師の言葉に、俺は思わずほうっと深く溜息をつく。

「俺もそう思います。そんなに長い間、彼と過ごしたわけじゃないけれど……彼は誰かを殺めたりするような男には思えなくて……」

「ならば、自分の直感とその目で見た彼自身を信じてあげたらどうかな?」

 胸につかえていたものが、ワン老師の言葉によって徐々に溶けていくのを感じる。

「はい。そうします」

 真っ直ぐ、ワン老師を見つめ返すと、彼は優しく微笑んだ。

「では、稽古をはじめようか」

 そうこちらに差し出されたものを見て、俺は少し緊張しながらそれを手に取る。


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