第九話 マックス

〔9〕


 夕日が照らす東頭村道トン・タウ・ツェン通りのビル壁に寄りかかり、俺はぼんやりと往来を眺めていた。

 マックスは新聞社に所属するカメラマンではなかった……それに、その名前も偽名の可能性がある。チャンから訊いた話を反芻しながら、俺は未だに衝撃から立ち直れずにいた。

 ――ラウ! すまない……!

 屋上でのマックスの哀しげな面持ちが浮かぶ。マックス、あんた、一体何に対してすまないと言ったの? 俺を騙していたこと? それとも身元を偽っていたこと……?

「どうしてだよ……」

 やるせなさを噛みしめながら、くしゃりと前髪をかき上げる。

「あの……」

 ふと人の気配がし、俺は顔を上げる。そこには、見覚えのない一人の女性が立っていた。小首を傾げれば、彼女は少し不安そうに「光明街クゥオン・ミン通りに行きたいんですけれど」と言う。

 俺はぎょっとして彼女を見つめる。素朴な……悪く言えば、ちょっと田舎っぽい出で立ちで、俺と同じくらいの年の女の子だ。

光明街クゥオン・ミン通りって……女の子が一人で?」

「ええ……実は、面接なの」

 娼婦の面接ということか……もしや、借金でも作ってしまったのだろうか? おおよそ、娼婦らしさの欠片もない彼女に、少し気の毒になってしまった。

「あの辺りは物騒だから、俺が一緒に傍まで行ってあげるよ」

「ありがとう……!」

 彼女がほっとしたように微笑み、俺は光明街クゥオン・ミン通りへと向かう。彼女は物珍しそうに排水が漏れた路地を見回している。

「慣れないうちは迷いやすいから、気を付けて。あと、夜も一人歩きをしていると、ギャング連中や麻薬中毒者に襲われる事もあるから、用心してね」

「大丈夫、護身用に武器は持っているの」

 そう彼女が余裕の表情で微笑む。意外とこういう娘が大化けして、一番の売れっ子になったりするのかもしれない。

「面接って、13Kサップサンケイ……いや応竜インロンの事務所でやるの?」

「ええ。その予定なの。どの建物かしら?」

 俺がいつもチャン達のいる事務所が入っているビルを指差すと、彼女は「ここで大丈夫」とにっこりと笑う。

「本当に、一人で平気?」

「ええ。勿論! ありがとう。助かったわ」

 そう彼女は軽くこちらに手を振り、ビルへと駆けていく。その後ろ姿を見送り、東頭村道トン・タウ・ツェン通りに踵を返そうとした時「そこのお兄さん、俺とデートしないか?」と声を掛けられる。

 うんざりと振り返れば、そこにはチャンがおり、信じられず目を丸くする。

「チャン……?」

「他に誰が居る。急に居なくなるから探したぞ」

 そうチャンが淡く笑み、俺は弱く唇の端を上げる。

「……色々、考えたかったから……まだ、マックスの件が信じられなくて」

「ならば、確認しに行くか?」

 目顔で問う俺に、チャンが俺の肩に軽く手を置いて、東頭村道トン・タウ・ツェン通りに繋がる路地に促す。

 そのまま停めてあった車に乗せられ、チャンの運転でネオンが輝き始めた香港の街へと出る。

「……チャンが運転できるなんて知らなかった」

 ハンドルを握ったチャンが前に顔を向けたまま肩を竦める。

「下っ端の頃は、ボスの専属の運転手をしていた。最近じゃ、自分でハンドルを握る事も殆どないがな」

「そうなんだね」

 外の景色が見覚えのあるものなのに気づき、ハッとチャンを見やる。ここは、油尖旺区ヤウチムウォンキョイだ。視線の先にはマックスが住んでいる低層アパート、唐楼トンラウが見え始めた。

「もしかして……マックスの家に行くの?」

「ああ。その目で確認したほうがいい」

 そう彼が唐楼トンラウの前に車を停め、俺は僅かに緊張しながらチャンの後に続いて、マックスの部屋へと向かう。

 チャンが迷いなく玄関のドアノブに手を掛け、無施錠のドアが開く。促されて室内に踏み込み、目の前の光景に唖然とする。

 室内はがらんどうだったのだ。あの妙に寝心地のよいソファーも、あの夜、マックスの手料理が並んだ食卓も……まるで全ては夢のように消え去っていたのだ。

 言葉を失う俺の隣に立ったチャンが重く呟く。

「三日ほど前から空部屋になったそうだ」

「そんな……どうして……」

「自分の正体が、俺達にバレそうなのを勘付いたのかもしれないな」

 俺は半ば呆けたように一切合財が無くなった室内を見回す。

「いつからマックスを怪しいと思っていたの?」

「ボスからマックスを撮影の為に案内しろと言われたころから、怪しいとは思っていた。奴がかなりの金を払って撮影許可を得たと聞いて余計にな」

「マックスは何をしたかったんだろう……」

 チャンは、ネオンの輝く窓の風景を見つめながら軽く首を横に振る。

「そもそもあの男は、妙にタイミングがいいと思わないか?」

「え?」

「最初にチェリーの死体を見つけたのはあの男だった。チェリーを殺めたのはお前の客だったユアンだった。しかし、その刺青の部分を削いだのは誰なのか? あの男は、豚人間ピッグマンレオンの死体発見にも立ち会っているし、あげくに情報屋サミーの時も奴が現れた」

「そ、そんな……彼が殺したって言いたいの?」

 動揺する俺を宥めるように、チャンが俺の肩を撫でる。

「そうも考えられるという事だ」

「で、でも……そうなると、デーモンスカルがマックスという事になる……」

 屋上に佇んでいたデーモンスカルの体格を思い出そうとするが、フード付きの漆黒のローブで隠されていたし、地上から見上げていたのでその背丈は分からなかった。

「しかし、マックスくらいの戦闘能力があれば、八卦掌の遣い手のふりをして八卦刀を扱う事も簡単だろう。あの身のこなしは、どこかで訓練を受けた可能性もある」

 そんな事、信じたくないがチャンの言う通りだった。マックスのあの慣れた闘いぶりは、一朝一夕で身に付くものじゃない。それに、死体を発見した時にいつも彼はいた。

 それだけじゃない、あの手書きの地図だって、かなり詳細なものだった。あれは、九龍城砦を知り尽くしていないと書けないはず……あれは、人気のない路地や死体を放置するための場所の為に調べていたのではないか?

 一つ一つの事象が、彼をどんどん九龍城砦を跋扈する切り裂きジャックだという答えに導いてゆく。

 悄然とする俺を慰めるように、チャンがそっと髪を混ぜるように撫でる。

「もう一ヶ所、付き合ってくれ」

 どこに? 小さく首を傾げる俺にチャンが片方の眉を上げる。

「さっきも誘っただろう? デートだ」

 ぽかんとする俺に、チャンが淡く微笑んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る