第八話 龍脈

〔8〕


「龍脈というのは、地中の気の流れのことだよ。その流れが龍のように見えることから龍脈と呼ばれるんだ」

「風水の用語なんだね?」

 俺は頷いて井戸の中の八卦図に目を落とす。

「風水上、この龍脈の気が噴き上がるポイントを龍穴りゅうけつっていってね。その位置を特定して、そこに住めば繁栄できると考えられているよ」

 マックスが感心したように頷き、俺は「そうか……」と小さく呟く。

「この八卦図が龍脈……レイラインを特定するものだとすれば、この天辺の『☴』ソンは、方位を示している事になる」

「どういうことだい?」

「八卦図の『☰』ケン、『☱』、『☲』、『☳』シン、『☴』ソン、『☵』カン、『☶』ゴン、『☷』コン三爻さんこうには、それぞれ方位が当てはめられているんだ」

 マックスが何かを思い出したように鞄から一冊のノートを取り出す。

「実は、九龍城砦の簡単な地図を描いていたんだ」

 そう彼が広げたページには、九龍城砦の全体の詳細な地図が描かれており、俺は感心して彼を見やる。

「凄いよ、マックス!通りの名前も全て記載されているんだね」

「備忘録もかねて、何かに役立つかなと思ってね。えっと、光明街クゥオン・ミン通りの井戸、閉じられた龍の瞳はここだよ」

 そう彼が指し示し、俺は地図を確認しながら言う。

「だけど、この方位は先天八卦と、後天八卦では割り当てられている方位が変わってくるんだ」

 チャンの金時計の裏蓋を思い出す。あの八卦図の下には小さく『Chase the Dragon龍を追う』と刻印されていた。そして、金時計の八卦図は先天八卦だった。

「そう、これはきっと先天八卦の方角で考えるんだ。そうなるとこの『☴』ソンは、南西のはず」

 俺は地図の井戸から南西の方向をまっすぐ指で辿る。龍の瞳が見つめる先、そこにあるのは……俺達は息を呑んで、互いの顔を見合わせる。

「礼拝所……」

 やはり、あの礼拝所には何かがあるのだ。その時、店内が少しざわつき、俺達は入り口に顔を向ける。そこには手下を引き連れたチャンがいたのだ。

 彼らの醸す雰囲気が物騒なのに気づいて、俺達は反射的に席を立つ。店内にいた客達がそそくさと外に避難していき、厨房のカウンターからシャムがぎょっとしたように顔を出した。

「チャン……一体、どうし……」

 言い掛けるがチャンは真っ直ぐマックスを見つめ、そのまま傍らにあった木製の丸椅子に蹴りを入れる。まるでサッカーボールのように椅子が真っ直ぐマックスに向けて飛んで行く。

「危ない!」

 咄嗟にそれを裏拳で払おうとしたのと、マックスがそれを避けたのは同時だった。その反射神経に驚いていると、彼は慣れた様子でファイティングポーズをとった。

 唖然としていると、チャンがにやりとして大きく踏み込む震脚しんきゃくを繰り出す。

 マズい! 頂肘ちょうちゅうをくらわせるつもりだ……! 咄嗟にマックスを庇おうとしたのと同時に、彼が目の前の丸テーブルの端を蹴る。

 マックスが蹴ったテーブルが、弾丸のような速さでチャンに向かって滑っていく。チャンは迫ってきたテーブルに身軽に飛び乗り、そのまま空中で身体を回転させてマックスの前に着地すると、鋭い肘撃ちゅうげきを繰り出す。

 二人の間に入って、チャンの肘撃ちゅうげきを受けるべく肘での防御、攤拍手タンパクサオを繰り出そうとした刹那、マックスが素早く攻撃を受け流した。

「どういうこと……?」

 俺は目の前の光景が信じられず、息を呑む。チャンが獰猛な笑みを浮かべて言う。

「近接格闘技が得意なようだな。一体、お前は何者だ?」

 チャンが殺気を漲らせながら三尖相照さんせんそうしょうで構え、マックスは俺に一瞬だけ視線をやり、そのまま裏口のある厨房へと走る。

「追え!」

 チャンが怒声を発し、ホンを先頭に武術に特化した紅棍フンクワンの手下達がマックスを追いかける。

「屋上に逃げたぞ!」

 ホンの叫ぶ声が響き、チャンが屋上に続く階段へと消えていく。一瞬だけ遅れをとった俺もハッとなってその後を追った。

 屋上に辿りつくと、マックスが手下に囲まれていた。

「マックス!」

 俺が名を呼んだ瞬間、一斉に手下達三人が飛びかかる。しかしマックスは、殴り掛かった一人の腕を払って、彼の後頭部に肘打ちをくらわせ、同時に右足を軸にして左足の蹴りでもう一人の胴を押すようにする。すぐさま体勢を整え、残りの一人の腕を掴んで、背負い投げの要領で投げ飛ばしてしまった。

 目の前の光景が信じられず、俺は言葉を失ってその様子を見つめる。あっという間に地面に沈んだ部下の様子を無表情で見つめていたホンが踏み出し、マックスに踊り掛かる。

 しかもその手には、鉤爪のような形状の三枚刃のクローナイフが光っており、マックスの顔面を抉るように弧を描きながら鋭い刃が光る。

 危ない……! 咄嗟に駆けだそうとしたところを横から制するように腕が伸ばされ、俺はチャンを睨む。

「マックスを助けないと!」

「その必要はない」

 マックスは鋭い刃が握られたホンの腕を払い、そのまま彼の手首を捩じるようにして、凶器を地面に落とす。

 バランスを崩したホンだったが、流れるように地面に両手をついて鋭い蹴りを繰り出そうとした瞬間、マックスが屋上の縁からジャンプした。

「……マックス!」

 隣の建物に移動したマックスがこちらを振り返る。

「ラウ! すまない……!」

 そうマックスが空色の瞳に悲しげな光を浮かべ、そのまま俺達に背中を向けると、隣のビルに向かって走り去って行く。

「チャンさん……追いますか?」

 ホンが振り向き、チャンが「いや、いい」と遠のくマックスの姿を睨みながら言う。

「どういうこと……?」

 今起きた事が全て信じられず、俺は呆然と呟くと、チャンが僅かに眉間に皺を寄せながらこちらを見つめる。

「マックス・バトラーという男は、新聞社にはいなかった」

「……嘘……」

 そんな、まさか……ショックを受けて声を失う俺に、チャンは微かに気遣わしげな瞳を向け、俺の背中に手を添える。

「行こう、ラウ」

 ぼんやりとした状態で、俺は促されるままに屋上を後にした。

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