第五話 悪魔

〔5〕


「久方ぶりのまともな飯だ……」

 泣きそうな顔でウォン先生が蝦米腸粉干しえび入り腸粉をぱくつきながら呟き、俺は思わず小さく笑ってしまう。

「腰を痛めちゃうし、連続して猟奇的な死体を検死したり、色々と先生も大変だったよね」

 ウォン先生から話を聞きたかったので、俺は診療所に作った料理を差し入れる事にした。マックスも誘ったのだが、新聞社で仕事が残っているとのことで写真を撮り終えると「きみの手料理を食べられないのは残念だよ」と、慌ただしく九龍城砦を出て行った。

 事務所に一旦戻っていたチャンもやって来て、すっかりご機嫌がなおったウォン先生がチャンに笑う。

「こんなに美味い飯が毎日食えるなんて、お前さん、ラウに感謝しないとな」

「そうだな」

 チャンが薄く笑みながら席につき、俺は内心驚きつつ彼を見やる。なんだか不思議でしょうがない。目の前にいるチャンは本物だろうか? まるで人が変わってしまったような気がする。

 いや、違うな……俺が彼の事を知ろうともしなかっただけなのかもしれない。

 ふと目が合い、なんだかこそばゆさに思わず目を逸らしながら、お茶を飲んでそれを誤魔化す。箸を持ったチャンが、にこにこと食事するウォン先生を見た。

「食事中にする話ではないかもしれないが、さっきの死体はどうだった?」

「やはり、お前さんの見立て通り、刀や剣の類いで身体を切り離されていた。切り口もかなり鮮やかだったぞ」

「八卦刀の可能性はあるかな?」

 ウォン先生は、水餃子を上機嫌で咀嚼しながら俺に頷く。

「大いにあるな。八卦刀は刃渡りが非常に長いし、遣い手ともなれば身体をああやって一太刀で真っ二つにするのは造作もないだろうな」

「犯人はやはり八卦掌の遣い手か……」

 チャンが吐息まじりに呟き、俺は小皿に取り分けた清炒菜心油菜の塩炒めなどを彼に渡しながら訊く。

「チャンは彼の事を知っているの?」

「あの男は、応竜インロンが使っている情報屋のサミーだ」

「情報屋か……ギャングや他の秘密結社とごたついて殺された可能性もあるかな」

 ウォン先生が短い顎鬚を撫でつつ独り言のように呟くが、チャンがゆるく首を横に振る。

「いや、それにしても殺し方が妙に手が込んでいるだろう」

 チャンの言葉に俺も頷く。

「俺もそう思う。切り離した上半身を磔刑のように見立てて、おまけに下半身はご丁寧に箪笥の中に隠すなんて……豚人間ピッグマンレオンとは、また違う何かの目的があるんじゃないかな」

「ラウの言う通りだな。それに、あの頭上に書かれた赤い文字『From Hell』という言葉も気になる」

「そういえば、マックスがあの文字を見て切り裂きジャックだ、と言っていた……」

 そう呟けば、チャンが訝るように片方の眉を上げてみせ、ウォン先生が「そうか!」と膝を打った。

「確かに、切り裂きジャックだぞ!」

「どういうこと?」

 思わずチャンと同時に身を乗り出すと、ウォン先生はちょっとだけ得意げな顔をして、講義を始めるようにゴホンと一つ咳払いをする。

「そもそも、切り裂きジャックというのは、1888年八月から十一月の約二ヶ月間に、ロンドンの売春婦五人をバラバラに切り裂いた殺人鬼で、未だにその犯人は誰か分かっていない。劇場型犯罪の元祖ともされているぞ。奴は、署名入りの犯行予告を新聞社等に送りつけたんだ。1888年九月から十月に掛けて、切り裂きジャックを名乗る人物からセントラル・ニューズ・エイジェンシーという新聞社に手紙が届きはじめるんだ。手紙は全部で、三通。最後のものは小包だった。ホワイト・チャペル自警団代表ジョージ・ラスクに届いたんだ。そこには「From Hell(地獄より)」の書き出しで始まっており、しかも、アルコール保存された人間の女性の腎臓まで同封されていたんだ」

 俺とチャンは感心して同時に相槌を打ってしまった。

「先生、妙に詳しいんだな」

「実は、ミステリー好きでな。一時期、昔の未解決事件に興味があって、色々と書籍を漁っていたんだ」

「凄いね、ウォン先生! ほら、どんどん食べて!」

 そう俺が皿を彼の前に勧めると、ウォン先生は嬉しそうに相好を崩して箸を持った手を伸ばす。

「ウォン先生の話を聞く限り、自分こそが九龍城砦の切り裂きジャックだって、宣言する意味があったのかな?」

「まあ、単純にあの死体が『地獄からのもの』だという意味合いもあるかもしれないが……あと、豚人間ピッグマン、レオンに突き刺さっていた八卦刀はチェリーのものだと確認がとれた」

 チャンの言葉に、思わず「チェリー!?」と驚きの声を上げてしまう。

「チェリーって、八卦掌の遣い手だったの?」

 思わず膝を乗り出すと、チャンが軽く肩を竦める。

「子供時代に習っていたそうだが……部屋に八卦刀が飾ってあったのを思い出して、ホンに無くなっていないか、確かめさせていた」

「そうしたら、紛失していたというわけか」

 ウォン先生の言葉に、チャンが頷いた。

「九龍城砦に、八卦掌を教えてくれる人っていたっけ?」

「確か……美容室をやっていた婆さんで、一人いたぞ。たまにここに治療で来ていたが、数年前に老衰で死んじまったな」

 ウォン先生が記憶を辿るように呟き、俺は思わず肩を落とす。

「そこから、新たな切り裂きジャックの手がかりが掴めればいいと思っていたけど、亡くなってしまったんじゃ、無理だね」

「一応、元弟子が九龍城砦にいないか、ホン達に調べさせてはいるが……あまり期待は出来ないかもな」

 思わず低く唸ってしまい、気を取り直して食事を進める。その後、ウォン先生からレオンと、情報屋のサミーの解剖結果を確認し、俺達は診療所を出た。

 すっかり夜も更け、チャンと肩を並べてアパートへと向かう。龍津通ロン・チュン通りは、不気味な死体が見つかったせいか、今夜は輪をかけて人の気配がなかった。

「そういえば、もう一度、沈香の十字架からも辿る必要があるかも。明日、アンディのところを訪ねてみるよ」

 ふと思いついてチャンに言うと、彼は俺の手から料理を盛りつけていた容器の入った藤のバスケットを自然な仕草で取る。少し驚きながらも「ありがと」と囁けば、チャンは軽く頷いた。

「何か分かったら教えてくれ」

「うん。ねえ、チャンもサミーから頻繁に情報を収集していたの?」

「まあ、あいつは金にはがめつかったが、持ってくる情報は確かだったからな……」

 チャンが言葉を区切り、俺もハッと息を呑む。刹那、闇を切り裂くように頭上から銀色の何かが鋭く反射する。

 俺は咄嗟にチャンの腕を掴んで自分の方に引っ張る。チャンが歩いていた側のコンクリートの壁に甲高い金属音と共に八卦刀が突き刺さった。

 間髪いれずに、4英尺フィート(120センチ)ほどの八卦刀がこちらに向かって飛んできた。同時に事態を把握していたチャンが、俺を庇うように腕の中に引き寄せて、くるりと身を翻して刀の襲撃を躱していく。

 二本目の八卦刀が壁に突き刺さり、俺達は凶器が飛んできた方向の建物の屋上を見上げる。そこには、冴え冴えとした満月に照らされたシルエットが浮かんでいる。

 中世の修道士のようなフード付きの漆黒のローブに身を包み、骸骨をモチーフにした捻じれた角のある禍々しい仮面で顔を覆った人物がいた。

 全身から立ちのぼる不気味な妖気のようなものに、俺は身動きが取れずにいた。しかし、チャンは「貴様、誰だ!?」と鋭く怒声を発した。次の瞬間、奴はすっと後退りして、そのまま姿を消した。

 きっと隣接した建物に飛び移って逃げたに違いない。悪魔のようなそいつを追いかけようとするチャンの腕を反射的に掴んで引き留める。

「深追いしちゃ駄目だ!」

 思わず叫んだ俺に、チャンがはっとしたようにこちらを見る。

「お願いだから……」

 足元から這い上る死の予感に、俺は戦慄しながら喘ぐように言う。

「分かった。もう、奴の気配はない……大丈夫だ」

 強張りが解けずに、ぎゅっとチャンのスーツの袖を掴んでしまい、そんな俺を宥めるように、彼の手がそっと背中を撫でた。

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