第三話 惑い
〔3〕
ぼんやりと、
昨日のチャンとの会話を反芻しながら、機械的にスプーンを動かしていると、目の前に大きな手の平が翳される。
「……ラウ?」
我に返って向かいに座る彼を見つめる。マックスは、微苦笑を滲ませて俺のグラスを指差す。
「どうしたの、ぼうっとして。それに、ちょっと潰しすぎじゃない?」
手元のグラスをはっと見て「ああっ!?」と間抜けな声が出る。レモンが殆ど潰れて酸味が強くなった
「……酸っぱい」
「だろうね。大丈夫かい?」
「大丈夫……じゃないかも……」
俺は脱力して、レオンの死体写真が広がったテーブルに突っ伏す。
「俺……何がしたいんだろう?」
情けない声を上げると、マックスがいよいよ慌てたように「ど、どうしたんだい!?」と俺を覗き込む。
俺はノロノロと顔を上げて、チャンが出世して九龍城砦を出る事、一緒に来ないかと言われた事などを話す。当然、マックスは目を丸くしてみせた。そりゃあ、驚くだろう。あのチャンが、俺の意思を尊重し、待つとまで言ったのだから。
「なんというか……きみの平手打ちがよっぽど効いたのかな?」
「揶揄わないでよね。これでも真剣に悩んでいるんだから」
思わず、むうと口がへの字になり、マックスが慌てたように両手を上げる。
「揶揄ってなんかいないさ! 正直、驚いたよ。九龍城砦を出るなんて突然の話だし、そりゃあ悩むよね」
「俺、未来なんか考えた事なかった。だって、いつだって期待や希望は持っても、それが叶わないのは当たり前で、我に返った時に余計に虚しくなる。だからこそ、淡い期待なんかは持たないようにしていたんだ」
「でも、状況は変わった」
マックスが優しく目を細め、俺はこっくりと頷く。
「考えても考えても、結局、自分には何もないって答えに行きつくんだ。俺なんかが九龍城砦を出たところで、結局は何も出来ないんじゃないかって怖くなる……それにチャンへの気持ちも正直、分からないんだ……」
「ねえ、ラウ。チャンとの関係はとりあえず置いておいて、きみが得意な事、好きな事をまず考えてみたら?」
「どういうこと?」
俺は小首を傾げて彼を見やる。マックスは笑みを浮かべてこちらに身を乗り出す。
「例えば、
そう声を潜めてマックスが軽く片目を瞑ってみせ、俺は目を瞬かせる。
「それだけじゃない。きみの部屋にお邪魔した時に、手料理をご馳走になったけど、とても美味いと思ったよ。きみも言っていただろう? 小さいころから自炊は得意だって。それだけじゃない、詠春拳はどうだろう? 護身術として身に付けたって言うけれど、素人から見てもきみの武術は凄いと思う。それに子供の頃から今まで続けているのも、詠春拳が好きだからだろう? 何かを続けられるって凄いことだと思うよ」
マックスの言葉に面食らって、微かに口を開けてしまう。料理に詠春拳……今まで、それらが好きかどうかなんて考えた事はなかった。
「でも、そんなの誰だって出来るし……」
「ノー、ノー! そこで否定しないで、ラウ自身が好きかどうかを考えてみて。そして、それらがもし好きなら、それを活かす道を考えてみるのはどうかな?」
マックスの言葉に、今まで胸の中に広がっていた靄が晴れて視界が開けた気がした。
「料理や詠春拳が得意かどうかなんて考えた事、なかったよ」
「ラウ、もっときみは自分に自信をもってもいいと思うな」
そうマックスが微笑み、それは以前、ワン老師にも言われた事があるのを思い出す。俺は感動して彼に言う。
「マックス……あんた、まるでセラピストみたいだ」
「ただの年の功だよ」
彼が朗らかに相好を崩し、俺もつられて笑う。
「あっ、でも……もう一つ、重要な事を忘れていた」
俺は、チャンにどこまで調べているのかを問い詰められた事をマックスに打ち明ける。
「でも、実は井戸の八卦図の事は話していないんだ」
「どうして?」
「上手くいえないけれど、この謎はマックスと突き止めたくて……本当は話した方が良かったかもしれないけれど」
そうマックスを見やれば、彼は少し嬉しそうに肩を竦める。
「打ち明けるべき時が来たら、話せばいいさ。それに正直、チャンからは一切、この事に関わるなと言われたかと思ったよ」
「俺もそこは少し驚きだったよ」
観念してチェリーの太腿の刺青の事や、レオンの事を打ち明けると、チャンは少し呆れたように吐息を漏らした。
「そこまで調べていたとはな」
それから、少し何か考えを巡らせていたが、改めてこちらを真っ直ぐ見つめる。
「どうせ、止めてもレオン殺しの件などを調べるつもりだろう?」
まさに図星で、俺は動揺を悟られないようにしつつ、軽く頷いた。チャンは「だろうな」と、淡く笑みを浮かべた。
「俺も九龍城砦を出る前にこの件に関しては、カタをつけたい。当然、こちらも動くが情報や人手は多い方がいい」
「それって……」
「好きにしろ、ということだ。しかし、相手は殺人鬼で八卦掌の遣い手の可能性もある。絶対に無理はするな」
そう真っ直ぐ向けられた瞳に、俺は深く頷き返す。
「あと、もう一つ。何か分かったら、必ず……」
「必ず報告する。約束するよ」
勢い込んで言う俺に、チャンは何とも微妙な面持ちになったが、とりあえず納得したように相槌を打つ。思わずほっとしていると、チャンはふとその端正な面を引き締めて「しかし、あのマックスという男は……」と低く呟く。
もしや、まだ俺達の事で何か誤解をしているだろうか? 目顔で問えば、チャンは溜息交じりに「まあ、いい……」と、軽く首を横に振った。
そんな事を思い出しながら、俺はマックスを見やる。彼は、最近ハマっている
その口の端にパンくずが付いているのに気づいて「子供みたいだ」と、思わず小さく笑いながらそれをとってやる。
俺の好きなこと……マックスの言葉に背中を押されるようにキッチンに立っていた。チャンが帰ってくる頃合いを見計らって出来立ての料理を食卓に並べる。
「美味しそうだ。でも……作りすぎたかな?」
もし、食べきれないようならば、アパートの前を警護する手下達にも手伝ってもらおう。その時、玄関のドアが開く気配がして、俺は少し緊張しながら部屋に入ってきたチャンを見やる。
「……良い匂いだな」
「おかえり」
チャンが食卓に並ぶ皿に、少し驚いたように目を瞬かせる。
「今日は、祝い事でもあったか?」
「違うってば。俺の得意を確認したかったんだ」
チャンはこちらの謂わんとすることが解せずに訝し気だったが、俺はスプーンに掬った雲呑麺のスープを「味見してみて」と、彼の口元に持っていく。
「……どう?」
「いつも通り、美味いぞ」
「本当に?」
真剣な目を向ける俺に、チャンも「嘘をついてどうする」と真面目な顔で頷き、彼の様子にほっとなって笑みが零れる。
「しかし、これは二人で食べきれるか?」
「やっぱり、そう思う? 良かったら、外を見回っているチャンの部下にも……」
言い掛けた時、呼び鈴が鳴った。間髪入れずにドアをノックする音がして俺達は、その慌ただしさに顔を見合わせる。
チャンがドアを開ければ、そこには血相を変えたマーとホーがおり、何かあったのだと一目で分かった。
「あ、兄貴……また妙な死体が見つかりました……!」
その言葉に、俺とチャンの視線が絡んだ。
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