第二話 転機
〔2〕
少しでも張りつめた空気を和らげようと、俺はいつもより丁寧に
ソファーに腰を下ろす彼の元にグラスを運び、俺はチャンの隣に腰を下ろす。
「体調は、どう?」
グラスを傾けつつ、チャンが軽く頷いた。
「ああ。昨日よりは、大分ましになった」
「良かった。あの、さっきの刀のことなんだけど……」
「ラウ」
チャンがこちらに身体を向け、その真剣な面持ちに少し緊張しつつ頷く。
「俺の所属する
「勿論、知っているよ」
真面目に相槌を打てば、チャンは俺を真っ直ぐ見つめて言う。
「今まで俺は、
俺は微かに口を開けて、チャンを見つめ返す。
「凄い……! それって出世したってこと?」
「まあ、そういうことだな」
おそらく彼が目指しているのは、
「おめでとう……でいいんだよね?」
「勿論だ。役職が変わるにあたって、
「それって……」
チャンが九龍城砦から出ていくということ……? 俺は目を瞠って、彼を見つめる。
「そこで、訊いておきたい。ラウ、お前はこれからも、九龍城砦に居たいか?」
俺は言葉を失ってしまった。九龍城砦にずっと居たいも何も……俺のホームタウンはここなわけで……彼が何を謂わんとしているのか解せずに、困惑する。
「端的に言えば、俺と一緒に九龍城砦を出る気はあるか? と訊いているんだ」
「九龍城砦を……」
出ていく……俺は、信じられずにぼんやりと呟く。チャンは、宥めるように俺の頭をそっと撫でる。
「今すぐに答えは出さなくていい」
目顔で問う俺に、チャンは微かに目を細めて俺の横髪を梳くようにする。
「ずっと考えていた。俺は、ラウの事を男娼としてしか見ていなかったのかもしれない、と。あの時、お前に言われて初めて気づいた」
俺の頬を掌で囲み「あれは中々、いい平手打ちだったな」と、苦くチャンが笑みを浮かべる。
「ワン老師の言う通りだ。俺達は似ている。生い立ちや境遇……そして、お前の何ものにも染まらずに、どこかもがいているような瞳……初めて見た時から、そこに魅かれていたのかもしれない」
自分の頬がじわじわと熱を帯び始めているのを感じる。だって、そうだろう。いつも冷酷で、およそ人らしい感情など捨ててしまったかのような彼が、こんな風に熱っぽく俺に言葉を紡ぐなんて……!
茫然と声を失っていた俺に、チャンが小さく笑う。
「どうした、顔が赤いぞ。知恵熱か?」
「ち、違うよ!」
勢いよく首を横に振ると、チャンは宥めるように「冗談だ」と、俺の頭を撫でる。
「ともかく、お前は男娼をやりたくてやっているわけじゃないのだろう? ここを出て、何かしたいことは無いか考えておくといい。もし、お前がここに残りたいというのなら、俺はそれを尊重する」
俺は未だに混乱しつつ、それでも必死に彼に伝えようと喘ぐように声を絞り出す。
「お、俺……ここを出たい。だけど……怖いんだ。だって、俺には何もない……どうやって生きて行けばいいのか、分からないんだよ……俺だって身体なんか売りたくない。だけど、じゃあ他に何が出来るんだろう……」
「俺が囲って、何もせずに贅沢でもしていればいいとも思うが、それはただの独占欲だな」
チャンが自嘲気味に唇の端を上げる。
「いつ……九龍城砦を出るの?」
「俺の代わりに今度はホンが九龍城砦を取り仕切る。その引き継ぎもあるが、来月には出る予定だ」
きっと以前のチャンなら、こちらの意思など関係なく、有無をいわさずに
それはとても嬉しい……だけど、本当にそれでいいのだろうか?
戸惑い、言葉を探していると、宥めるように俺の肩に手を置く。
「まあ、すぐに答えは出ないだろう。ともかく、考えておいてくれ」
「……分かった」
こっくりと頷くと、チャンが切り変えるように表情を引き締める。
「さて、さっき言っていた刀の話だが」
つられて俺も思わず背筋を伸ばして彼に言う。
「あれは、八卦刀だったよね?」
レオンはローブで身を包んでいたので刀の長さが分からず、刺さっていたのはてっきり
八卦刀は、だいたい
そして、八卦刀というのは、八卦掌に伝えられているものなのだ。
「レオンを殺したのは、八卦掌の遣い手だと思う?」
「刺さっていたのは、4
「そうだよね……わざわざ使い慣れない八卦刀なんて選ばない。きっと、レオンを殺したのは八卦掌の遣い手だ」
「あの豚野郎は、レオンというのか」
チャンの呟きに、俺はハッと息を呑んで顔を上げる。しまったと慌てる俺に、チャンは片方の眉を上げてみせる。
「あの男……マックスとお前は、どこまで調べ上げているんだ?」
そうチャンが、まるで尋問するような目つきで僅かに身を乗り出す。その妙な迫力に、俺は諦めの吐息を漏らした。
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