第二話 転機

〔2〕


 少しでも張りつめた空気を和らげようと、俺はいつもより丁寧に鴛鴦奶茶えんおうだいちゃを淹れる。チャンに直接訊いたことはないけれど、俺の淹れるそれは彼の口にも合っているようなのだ。

 ソファーに腰を下ろす彼の元にグラスを運び、俺はチャンの隣に腰を下ろす。

「体調は、どう?」

 グラスを傾けつつ、チャンが軽く頷いた。

「ああ。昨日よりは、大分ましになった」

「良かった。あの、さっきの刀のことなんだけど……」

「ラウ」

 チャンがこちらに身体を向け、その真剣な面持ちに少し緊張しつつ頷く。

「俺の所属する13Kサップサンケイショイ(グループ)である『応竜インロン』が、この一帯、九龍地区を縄張りにしているのは知っているか?」

「勿論、知っているよ」

 真面目に相槌を打てば、チャンは俺を真っ直ぐ見つめて言う。

「今まで俺は、紅棍フンクワンという戦闘部隊にあたる役職だった。だが、今度、それが変わって白紙扇パクツーシンになる事が決まった」

 俺は微かに口を開けて、チャンを見つめ返す。白紙扇パクツーシン……つまりは軍師役ということだ。当然、頭が切れる者でなければならず、そう簡単になれるものではない。

「凄い……! それって出世したってこと?」

「まあ、そういうことだな」

 紅棍フンクワンは体力のある若い者でないと続かないと聞いたことがある。チャンだって、まだ若いし体力も十二分にあるが、きっと先を見据えて色々と動いていたのだろう。

 おそらく彼が目指しているのは、応竜インロン香主ジャンシュ(トップ)いや、もっと上の龍頭ドラゴンヘッドなのかもしれない。

「おめでとう……でいいんだよね?」

「勿論だ。役職が変わるにあたって、尖沙咀チムサーチョイの事務所に異動することになった」

「それって……」

 チャンが九龍城砦から出ていくということ……? 俺は目を瞠って、彼を見つめる。

「そこで、訊いておきたい。ラウ、お前はこれからも、九龍城砦に居たいか?」

 俺は言葉を失ってしまった。九龍城砦にずっと居たいも何も……俺のホームタウンはここなわけで……彼が何を謂わんとしているのか解せずに、困惑する。

「端的に言えば、俺と一緒に九龍城砦を出る気はあるか? と訊いているんだ」

「九龍城砦を……」

 出ていく……俺は、信じられずにぼんやりと呟く。チャンは、宥めるように俺の頭をそっと撫でる。

「今すぐに答えは出さなくていい」

 目顔で問う俺に、チャンは微かに目を細めて俺の横髪を梳くようにする。

「ずっと考えていた。俺は、ラウの事を男娼としてしか見ていなかったのかもしれない、と。あの時、お前に言われて初めて気づいた」

 俺の頬を掌で囲み「あれは中々、いい平手打ちだったな」と、苦くチャンが笑みを浮かべる。

「ワン老師の言う通りだ。俺達は似ている。生い立ちや境遇……そして、お前の何ものにも染まらずに、どこかもがいているような瞳……初めて見た時から、そこに魅かれていたのかもしれない」

 自分の頬がじわじわと熱を帯び始めているのを感じる。だって、そうだろう。いつも冷酷で、およそ人らしい感情など捨ててしまったかのような彼が、こんな風に熱っぽく俺に言葉を紡ぐなんて……!

 茫然と声を失っていた俺に、チャンが小さく笑う。

「どうした、顔が赤いぞ。知恵熱か?」

「ち、違うよ!」

 勢いよく首を横に振ると、チャンは宥めるように「冗談だ」と、俺の頭を撫でる。

「ともかく、お前は男娼をやりたくてやっているわけじゃないのだろう? ここを出て、何かしたいことは無いか考えておくといい。もし、お前がここに残りたいというのなら、俺はそれを尊重する」

 俺は未だに混乱しつつ、それでも必死に彼に伝えようと喘ぐように声を絞り出す。

「お、俺……ここを出たい。だけど……怖いんだ。だって、俺には何もない……どうやって生きて行けばいいのか、分からないんだよ……俺だって身体なんか売りたくない。だけど、じゃあ他に何が出来るんだろう……」

「俺が囲って、何もせずに贅沢でもしていればいいとも思うが、それはただの独占欲だな」

 チャンが自嘲気味に唇の端を上げる。

「いつ……九龍城砦を出るの?」

「俺の代わりに今度はホンが九龍城砦を取り仕切る。その引き継ぎもあるが、来月には出る予定だ」

 きっと以前のチャンなら、こちらの意思など関係なく、有無をいわさずに尖沙咀チムサーチョイに連れ出していたと思う。だが、彼は俺を一人の人間として尊重してくれようとしている。

 それはとても嬉しい……だけど、本当にそれでいいのだろうか?

 戸惑い、言葉を探していると、宥めるように俺の肩に手を置く。

「まあ、すぐに答えは出ないだろう。ともかく、考えておいてくれ」

「……分かった」

 こっくりと頷くと、チャンが切り変えるように表情を引き締める。

「さて、さっき言っていた刀の話だが」

 つられて俺も思わず背筋を伸ばして彼に言う。

「あれは、八卦刀だったよね?」

 レオンはローブで身を包んでいたので刀の長さが分からず、刺さっていたのはてっきり柳葉刀りゅうようとうだと思い込んでいた。しかし、引き抜かれたものを見れば、それは八卦刀だった。

 八卦刀は、だいたい柳葉刀りゅうようとうより1.5倍ほど長いのだ。大きいものだと、だいたい6.5英尺フィート(200センチ)ほどにもなる。

 そして、八卦刀というのは、八卦掌に伝えられているものなのだ。

「レオンを殺したのは、八卦掌の遣い手だと思う?」

「刺さっていたのは、4英尺フィート(120センチ)ほどの八卦刀だったが、あれは、通常の刀や剣より長さも重量もある。簡単に使いこなせるものじゃない」

「そうだよね……わざわざ使い慣れない八卦刀なんて選ばない。きっと、レオンを殺したのは八卦掌の遣い手だ」

「あの豚野郎は、レオンというのか」

 チャンの呟きに、俺はハッと息を呑んで顔を上げる。しまったと慌てる俺に、チャンは片方の眉を上げてみせる。

「あの男……マックスとお前は、どこまで調べ上げているんだ?」

 そうチャンが、まるで尋問するような目つきで僅かに身を乗り出す。その妙な迫力に、俺は諦めの吐息を漏らした。


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