第十一話 祈り

〔11〕


 何度も先生に「忘れずに毎日、服用するように」と念を押されて、吸入薬や胸の貼薬を処方してもらい、俺は久しぶりにチャンと生活していた家に戻った。

 豚野郎がまた襲撃してくる恐れもあるので、診療所やアパート周辺は手下達が巡回することになった。

 チャンは先生の言いつけを守って、慣れた手つきで吸入補助器具を使って、発作予防の薬剤を吸い込む。隣でその様子を物珍しく見守っていると、チャンが片方の眉を上げる。

「なんだ? そんなに吸入薬が珍しいか?」

「ううん、使い慣れているから、もしかして子供の頃から使っていたのかな、って思って」

「ガキの頃の方が真面目に服用していたかもな。持ち歩くのが面倒くさくて、ここ数年は使ってなかっただけだ」

「ホンに持ってもらったら? いつも、チャンのシガレットケースとライターを持っているでしょう?」

 真面目に言ったつもりだが、驚いたことにチャンが小さく笑い、思わず目を瞠る。

「禁煙しないといけないし、それもいいかもな。あいつの事だから、真面目な顔して懐から出すだろう」

 無表情のホンが、素早くスーツの内ポケットから吸入器を差し出す様子が容易に想像できて、俺も思わず吹き出す。

 今ままでこんな風に二人で笑った事などなかった。笑い合う二人の視線が絡み、妙な照れくささに、互いに視線を逸らす。

「あの男……マックスは、いいのか?」

「あっ! 忘れてた……!」

 チャンの言葉に、ハッと彼に何も言わずに礼拝所を離れてしまった事を思い出す。しかし、彼の事だから、手下達から状況を聞いて、把握しているはずだ。

 診療所には来なかったのは、きっとチャンとのこともあって気を遣ったのだろう。

「大丈夫だよ。きっと彼なら分かっていると思う」

 チャンが少し難しい顔をし、そういう事を訊いているわけではないのだと気付く。俺は彼に身体を向けて、真っ直ぐ見つめる。

「彼は、俺の友人だよ」

 チャンは「そうか……」と吐息交じりに呟き、そっと掌で頬を囲むようにする。

「どうして戻ってきた?」

「……それは……」

 思わず口籠ってしまう。正直、分からなかった。もし、あるとすれば、それは……

「母さんと同じようになってほしくなかったんだ……」

 俺が十六歳の時、アヘン中毒だった母さんは、過剰摂取が原因で一人きりで部屋で冷たくなっていたのだ。その頃、俺はワン老師の元で稽古をつけてもらったり、時にお茶や菓子をご馳走になっていたのだ。その日も、ワン老師の元にいて、家に帰ったら母さんは死んでいたのだ。

 もし、俺がその時に家にいたら、異常に気付いて死なずに済んだかもしれない……時たまそう考える事があった。

 その事を話すと、チャンは緩く頭を横に振る。

「それは、お前のせいじゃない。俺の母親もアヘンが原因で死んだ。子供が中毒の依存から断ち切らせる事は出来なかったはずだ。遅かれ早かれ、死んでいただろう」

「……そう、だね」

 チャンが、ふいに俯く俺の顎を掬い上げるようにし、互いの視線が合う。チャンの瞳は、見たことがないくらい穏やかで、内心、狼狽してしまう。

 ふと、俺の頬に触れるその手の熱さに、ぎょっとなって彼の額にぺたりと掌をあてた。

「やっぱり、まだ熱がある! ちゃんと寝ないと……!」

 アスピリンが喘息の発作を引き起こしてしまうため、彼は絶対に服用できない。きちんと休んで自力で熱を下げなくてはいけないのだ。

 真面目な顔して言う俺に、チャンが深い溜息をついてみせる。

「……お前、それは、わざとなのか?」

「どういうこと?」

 瞠目する俺に、チャンは「こんなに野暮なのに、どうして売上ナンバーワンなんだ?」と呆れたように呟きつつ、ソファーから立ち上がる。

「少し早いが、先に休む」

 そう彼は俺の頭をくしゃりと撫で、寝室へと向かう。小首を傾げつつ、彼の後ろ姿を見送り、チャンの言葉を反芻する。

 そこでようやく「……あっ!」と、間抜けな声が漏れる。

 チャンの謂わんとする事が分かり、俺はじわじわと頬を火照らせながら、一人ソファーに突っ伏した。


 朝、五時。

 少し早く目が覚め、俺は眠っているチャンを起こさないように、ベッドを出た。やはり本調子ではないらしく、いつもは微かな物音でも目を覚ます彼が珍しく深く眠っているようだった。

 朝食は消化の良い粥がいいだろうと、外帯持ち帰りできる屋台に向かう為、取っ手つきの保温ジャーを片手に外に出る。

 ふと、屋台に続く路を逸れて、いつもの屋上へと足が向く。もしかしたら、マックスがまた以前のように、やってくるかもしれないと思ったのだ。

 物音のないアパートの階段を上がり、朝靄が漂う屋上へと辿りつく。微かな朝の光が差した屋上に人影を見つけて、俺は「マックス?」と思わず呟く。

 しかし、それがマックスではないと気づいて俺はぎくりと足を止める。

「……お前……」

 こちらに背を向けて両膝をついていたのは、豚人間ピッグマン……レオンだった。微動だにしないその様子に、俺は警戒しつつも彼の元に近付く。

 そこで、鼻を掠める特有の鉄臭さに気付いた。これは、血液の匂いだ……俺は半ば事態を把握しながら、彼の前に回り込む。

「どうして……」

 遠く目の前に広がる獅子山ライオンロックに向かって、まるで祈りでも捧げるようにレオンは両手の指の腹を合わせる恰好で両膝をついている。その心臓を貫くように一本、右の胸元にももう一本、刀が深く突き刺さっていた。

 朝の光を浴びたその姿は、聖堂で祈りをささげるようにどこか静謐さすら漂わせている。

 どう見ても絶命しているその姿に、俺は暫し、呆然と立ち竦んだ。

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