第九話 対決

〔9〕


 俺の低く呻く声を聞いて、マックスが可笑しそうにこちらに顔を向ける。

「まるでグリズリーの唸り声みたいだ」

 揶揄うような声に、むむっと眉根を寄せる。

「だって、いくら考えても分からないんだよ」

 老人街ロー・ヤン通りに程近い、湿り気のある細い路地を歩きつつ、俺は手元の写真に目を落とす。それは、俺が閉じられた龍の目……光明街クゥオン・ミン通りの井戸底で撮影したものだった。

 そこに彫られていたのは、金時計の裏に彫られた八卦図にそっくりのものだったのだが……

「こんな八卦図は見たことがないよ……」

「ええっと、前に教えてもらった『―』の『--』の記号でできたこうとは違うんだっけ?」

「うん、そうなんだよ……」

 写真に収められた八卦図は、三爻さんこうと呼ばれる記号、『☰』ケン、『☱』、『☲』、『☳』シン、『☴』ソン、『☵』カン、『☶』ゴン、『☷』コンに似た記号が記されていたのだ。

 八角形の天辺には『☴』ソンがあり、時計回りに二番目からの記号が全く不可解なのだ。

 『-』『-』『-』『-』を組み合わせた記号に始まり、次に『-』だけのもの、次に『-』『-』『―』『―』の組み合わせ、次には『-』『-』『-』『-』がきて、『-』『-』だけの記号から、『-』『-』だけのもの、最後に『-』だけの記号で終わっているのだ。

 そうこうしている内に礼拝所が見えてくる。俺はマックスに写真を見せつつ切り出した。

「あのさ、俺、ちょっとこれについて考えていたいから……広場にいていいかな?」

「もちろん、大丈夫だよ。アンディには俺だけで取材してくるよ」

 マックスが、アンディの怪我のお見舞いも兼ねて、彼の取材をしたいとやってきたのだった。俺は広場のベンチに向かいつつ、隅に井戸があるのに気づく。

「……そういえば、ここにも井戸があるのか」

 九龍城砦内には数多くあるので珍しい事ではないが、何となく井戸に近付く。どうやら使用していないらしく、井戸は頑丈そうな木製の蓋で塞がれている。

 ベンチに向かって踵を返そうとしたのと、名前を呼ぶ声がした気がして振り返る。見れば、そこにはマーとホーがおり、こちらに駆け寄ってくる。

 また俺とマックスを監視するつもりだろうか? それとも、酔いつぶされて撒かれた事の報復か?

 少しうんざりと、お間抜けコンビを見つめながらいつでも攻撃できるよう、さりげなく半歩、右足を後ろにし、身体の向きを変える。

 しかし、二人が報復や抗議という雰囲気ではないのに気付く。

「どうしたんだ……?」

 二人に問えば、マーが「今すぐ、ウォン先生の所に行け」と肩で息をしながら言う。

「どういうこと?」

「チャン兄貴が毒を盛られて倒れたんだよ……!」

 ホーの言葉に、一瞬、身体中の血が逆流したような気がした。毒……!? 呆然となった俺に、ホーが「おい! ぼうっとしてねえで早く行け!」と焦れたように声を荒らげる。

 ハッとなって俺はウォン先生の診療所へと走った。まさか、豚野郎から何かをされたのか!?

 毒という言葉に、自然と走るスピードが上がっていく。

 

「ウォン先生!」

 血相を変えて駆け込めば、ウォン先生がすぐさま顔を見せる。

「おお、来たか、ラウ……!」

「チャ、チャンが……毒を盛られたって……!」

 全速力で来たので少し乱れた息を整えつつ言うと、ウォン先生は俺を落ち着かせるように背中を撫でる。

「落ち着きなさい、大丈夫だ。毒じゃない」

「……え?」

 目を丸くする俺に、彼はゆったりと頷いた。

「熱は高いが、今は眠っている」

 そう奥の部屋に促される。少し前に俺が治療を受けていた部屋に、今度はチャンが横たわっていた。その手の甲には点滴の針が刺さっている。

「一体、どういうこと……?」

「発作を起こしたんだ」

 ぎょっとする俺に「喘息だよ」と続ける。先生の話によれば、熱っぽいのでアスピリンを服用したら、途端に発作を起こしてしまったらしい。

「喘息持ちがアスピリンで発作を起こすことは珍しい事じゃない。手下達は毒を盛られたんじゃないかと、泡を食っていたがな」

 毒を盛られたわけじゃないと分かって、俺は思わず傍にあった椅子に座り込む。

「……そうか……」

「前から喘息の症状としては重い方だったが、本人も真面目に治療を受けずに、煙草も吸っていたし、おまけにたまにヘロインもやっていたようだからな。余計に症状が悪化したんだろう」

「そんな……」

 言葉を失う俺に、ウォン先生は「ついでに過労も発作の引き金になったんだろうな」と白いものが混じった短い顎ひげを撫でる。

「治療方法はあるの?」

「勿論あるさ。本人が真面目にウォン先生の言いつけを守ればな」

 そうおどけるように肩を竦めてみせ、俺は淡く笑みを浮かべる。

「ちゃんと聞くようにする」

「そうだな。チャンは放っておくと、ろくに食事もしなくなるようだ。お前さんが傍についてたほうがいいな」

 俺は頷いて、そっとチャンの手の甲に触れる。発熱のせいか、いつも冷たい手が熱く感じられた。

「目が覚めるまでは、もう少し時間が掛かるだろう」

 そうウォン先生が部屋を出ていき、大きく吐息が漏れた。見やったチャンは、少し頬が削げており、寝顔にも疲労が滲んでいる。目の下に隈まであり、彼を起こさないようにそっと指で辿る。

「チャン……あんたは、たまに生き急いでいるみたいに見えるよ……」

 そっと、彼の手を握りしめて囁く。

 そういえば、マックスに何も告げずに来てしまった。礼拝所に連絡を入れないと……僅かに腰を上げた時、チャンの指先に力が入り、はっと彼を見やる。

 意識が戻ったのかと思えば、彼は眠ったままで、引き留めるように絡んだ指先を解く気にはなれず、再び椅子に座る。

 どれくらい時間が経ったのだろう……いつの間にか眠ってしまったらしい。半覚醒の中、部屋の外で何か音がした気がして、目を瞬かせる。

「……ウォン先生?」

 何かが倒れたような鈍い音がし、ハッと立ち上がる。彼を起こさないように手を解き、気配を殺しつつ部屋を出る。

 嫌な予感がする……日の暮れた診察室や処置室には人気が無く、そのまま待合室へと踏み込む。ソファーの傍に、ウォン先生がうつ伏せで倒れているのに気づいて、息を呑む。

「ウォン先生!」

 見たところ刺されたわけではないようで、彼は低く呻きながら身体を起こそうとする。俺はその姿を一瞥し、入り口に幽鬼のように立つ男を睨んだ。

「豚野郎……いや、レオン。お前は何をしたいんだ?」

 豚のラバーマスクで顔を覆ったレオンが、両手に持った柳葉刀りゅうようとうを構えた。


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