第八話 閉じられた龍の瞳
〔8〕
夜、十一時。
俺の部屋で、ソファーで寛ぐマックスが素っ頓狂な声を上げた。
「こ、これは……!」
ハレルヤ! とでも叫び出しそうな勢いに、同じくソファーに腰を下ろしていた俺は惰性で見ていたテレビから目を離す。
「な、なに?」
マックスは持っていたグラスを掲げて、なにやら感動したように大きく頷く。
「実は、初めて飲んだんだよ! この
「へえ……それでお味はいかが?」
「最高だよ! 正直、コーヒーと紅茶を混ぜるなんてと懐疑的だったんだよ。だけど、この絶妙な味……ラウ、凄いよ!」
「口に合って何よりだよ。俺の作る
「秘密ってなんだい?」
マックスが瞳を輝かせて身を乗り出し、俺はにやりとしてみせる。
「それは企業秘密だよ」
香港の
「企業秘密なら仕方ないかあ……これ、
「うん。店によって紅茶とコーヒーの割合も違うし、個人的には、
「流石、シャムさんだな。なにを作っても美味しいなんて」
そうマックスが相好を崩しながらグラスを傾け、俺は小さく笑う。
「香港の生活を楽しんでいるよね。いつからこっちに住んでいるの?」
「実はまだ異動してきて半年くらいしか経ってないんだ。だから、色々なものが新鮮で、新しい発見が多いよ」
マックスが「それに……」と小さく微笑む。
「香港に異動したからこそ、九龍城砦できみとこうして出会うことができた」
俺は少し照れくさくなって、思わず視線を逸らす。
「撮影初日に死体を発見したり、不気味な豚人間と遭遇したりと、散々な目にあってるけれどね」
「確かに! こんな風に謎を追うなんて思ってもみなかった。だけど……それらがあったからこそ、今こうして、ラウ特製の美味しい
「こんなもので良かったら、いつでもご馳走するよ」
マックスが心底嬉しそうに「イエス!」とガッツポーズをしてみせ、思わず笑ってしまう。考えたら、こんな風に笑ったのは、いつぶりだろう?
「俺もマックスと知り合えて良かったよ。マックスのお陰で俺も少しだけ変化があったかも……」
そう呟くとマックスが目顔で問い、俺は苦く笑いながらチャンから、男娼のお前に意思も人権もあるわけないと挑発されて、思わず平手打ちしてしまったことを話す。予想通り、マックスはこぼれんばかりに目を丸くする。
「なるほど。マーが、最近チャンの機嫌が悪いと話していたのは、そういう事だったのか」
「まあ、俺の事だけが原因ではなくて、豚野郎の事もあるんじゃないかな?」
そう肩を竦めてみせると、マックスは改めて部屋に視線を走らせる。
「でも……チャンがこうしてラウの為に用意したこの部屋を見ると、やっぱりきみを遠ざけたのって、
「どういう事?」
「ここは、とてもしっかりした良い部屋だし、今朝の彼の様子だって、厄介払いをした情人を見る目ではなかったよ。絶対に、俺達の事を誤解していると思う。彼は、もっとオープンハートしたほうがいいと思うなあ」
きっと不器用なんだね、そうマックスが苦く笑みを浮かべ、同じような事をワン老師も言っていたのを思い出す。
オープンハート、か……
「でもさ、マックスは俺とチャンが距離を置いた方がいいって言ってなかった?」
「勿論、そう思う。その考えは変わってないよ。きみは、きみが生きたい場所で生きる権利がある」
生きたい場所……俺は、小さく頷いて、ふと笑みが零れる。
「生きる場所はともかく、行ってみたい場所はあるかな」
「それは、どこだい?」
ほんの少し面映ゆくて、それを笑みで誤魔化しながら彼を見つめる。
「マックスの故郷。今は、九龍城砦という俺の生まれ育った場所を案内しているけど、いつか、マックスが子供の頃に過ごしたところを見せてほしい」
「……ラウ」
マックスは、少し驚いたように目を瞠り、すぐさま俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
「ちょ、ちょっと……やめてくれよ!」
髪を掻き回すようにされて顔を顰める俺に、マックスは淡く笑みを浮かべて頷いた。
「いつか必ず、俺の故郷を案内するよ」
そう微笑んだ彼の吸い込まれそうな青い瞳は、どこか切なそうな光を帯びているような気がした。
朝、四時。
やはりこの時間帯の
しかし、さすがに龍の瞳とされる井戸にゴミを投げ捨てる罰当たりはいないらしく、木で作られた蓋を開けて、思わずほっとしてしまった。
「良かった、中には何も投棄されていないみたい」
「井戸の中が、ごみで溢れていたら、調べるどころじゃないからね」
俺は相槌を打ちつつ、用意していた縄梯子をバックパックから取り出す。
「ラウ、やっぱり俺が井戸の中に……」
マックスが心配そうに井戸を覗きながら呟き、俺はきっぱりと首を横に振る。
「俺の方が体格的に小回りもきくし、非常事態が起きても素早く対応できる」
「……きみ、俺がとんでもなく鈍くさい奴だと思ってる?」
「まさか!」
俺はにっこりとしてみせ、井戸の縁に縄梯子がきちんと引っ掛かっているのを確認する。井戸の深さは、だいたい五メートルといったところか。
マックスが器用さを発揮して作った、蝋燭と針金を差して長い紐を結んだものを新調に井戸に下ろしていく。
仄かな蝋燭の光が底に向かって移動し、俺は目を眇めて火が消えないかを見守る。酸素が無ければ火は消えてしまう。そうなると、井戸に降りる事はできない。暫し井戸の中に蝋燭を入れ、慎重に引き上げれば火は灯ったままだった。
「どうやら、中に酸素はあるみたいだね。じゃあ、ちょっと見てくるよ」
「くれぐれも、気を付けて」
俺はゆるく手を振り、井戸の底に向けて降りてゆく。すぐに、しっかりとしたつくりの井戸底に辿りつき、朝日の差し込むそこをぐるりと見回す。
一体、ここに何があるのだろう? というより、何もない可能性もあるのかも……そう、慎重に視線を這わせて、ふと首を回らせる。目に入ったそれに小さく声が漏れる。
そこに記されていたものにそっと指を這わせながら、少しばかり眉を顰めてしまう。
「……なんだ、これは……?」
こんなもの見たことがないぞ……
バックパックからマックスから借りていたカメラを取り出し、シャッターを切っていく。
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