第六話 八卦図
〔6〕
「うーん……なんというか、ワンさんはさすが武闘家だけあって隙が無いというか、ちょっと緊張してしまったよ」
マックスがほうっと身体から力を抜くように吐息を漏らす。俺は上の空で「……そうだね」と頷く。
自然といつも稽古をする公園に辿りつき、ベンチに並んで腰を下ろす。
「ラウ、大丈夫かい?」
じっと考え込む俺を覗き込み、思わず低く唸り声が漏れる。
「ワン老師は、金時計の八卦図の意味を知っていた……」
「そうだね。ワンさんに、上手くかわされてしまった感があったね」
俺はワン老師の言葉を反芻する。九龍城砦は龍に守られている。龍の逆鱗に触れてはならないよ……はたと俺はマックスに顔を向ける。
「九龍城砦は、龍に守られているってワン老師は言っていたよね。昔、聞いたことがある。九龍城砦は風水的に龍に守られているんだって」
「風水か……そういえば、九龍城砦を撮影するにあたって、事前に調べていたんだけど、そういった記載の資料があったな……」
マックスが記憶を手繰り寄せするように顎先に手をあてて、空を見上げる。
「ええっと……中国の大きな町は、風水の考えに基づいているんだよね。そうだ……!」
彼はカメラバッグの中から何かを取り出して、にっこりとする。
「香港の地図をいつも持ち歩いているんだ」
そう彼はベンチに九龍城砦周辺の地図を広げて、九龍城砦を指差す。
「確か資料にはこうあったよ。風水では町は南を向いて水があり、山が北にあると素晴らしいんだって。九龍城砦は、北側に
「
まるでタイミングを見計らったように、啓徳空港に向かうジャンボ機がビルのすれすれの高さを飛んで行く。
ギュィィンという轟音が、俺達の会話を途切らせる。
「風水的に、九龍は周りの九つの山から龍が降りてきて永遠に発展する地だともされているんだ」
「なるほど、それで九龍城砦も龍に守られている、と」
マックスが思い出したように「そういえば、九龍城砦の中央を貫くようにある
「
「確か、アヘン戦争当時の大砲がそのまま残っているんだよね? 是非、撮影しに行きたいな」
「ここでじっとしていてもしょうがないし、大砲を見に行こうか」
ベンチから立ち上がり、ふと公園の隅で賭け麻雀をしている住人達が目に入る。住人の麻雀を見物する体で佇んでいる二人組に気付いて、思わず目を眇める。マックスも俺の視線を辿って「んん?」と顔を顰める。
俺達は少し呆れた顔を見合わせて、そ知らぬふりをして
「あからさまだね」
呆れと可笑しさを混ぜたような声でマックスが呟き、俺はうんざりと「馬鹿コンビだな」と返す。そのまま角を曲がって細い路地に入り二人、歩みを止める。
すぐさま、ドタドタと気配が駄々漏れの足跡が響き、俺とマックスは彼らの前に立ちふさがる。
「うわ!?」
以前、彫り師のヤオのところに来た手下の二人組が大仰に身体を揺らして後退りする。
「どうしてきみらは、俺達の後をつけるんだい?」
「お前たちの尾行、分かりやす過ぎだぞ」
手下二人……確か、名前はマーとホーだったはず……は、誤魔化すように頭を掻く。
「どうせ、チャン……いや、ホンあたりに命令されたんだろう?」
俺が二人を睨むと、マーとホーは気まずそうに視線を交わす。
「ま、まあ……そういうことだよ。お前らが、何かおかしなことをしないか見張ってろって言われたんだ」
妙に偉そうにサングラスをした方が踏ん反り返り、俺は呆れて溜息をつく。
「あんた、名前はマーだっけ?」
「違う、ホーだよ!」
「俺がマーな」
そうボタンを外したシャツの襟元を引っ張り、鎖骨の下辺りに彫られた疾走する馬の刺青を見せる。なるほど
「ともかく、だ。俺達はおかしなことなんてしないよ。だから、帰れ」
そう野良犬を追い払うように手を振ると、マーとホーは「そうはいくかよ」と同時に言う。
「だいたい、朝帰りなんかするから、こんなことになるんだからな」
マーの言葉に思わず眉間に皺が寄る。
「朝帰りって言うな! そんなんじゃない!」
「でもよお、今朝、二人でいたじゃんか」
ホーが「証拠は掴んだぞ」と言わんばかりの得意げな表情をするので、そのむかつく顔を殴りそうになるのを堪える。
殺気を漲らせる俺の肩に、宥めるようにマックスが手を置く。
「まあまあ、ラウも抑えて。言っておくけれど、俺達の間には何も疚しい事はないよ? 昨晩は、写真の話で盛り上がって、俺が部屋に誘っただけだしね。だいたい、ラウは立派な大人の男だ。九龍城砦から出て、友人の家に泊まったからって、誰かに咎められる筋合いはない。そうだろう?」
マックスの静かな、しかし説得力のある口調に、手下二人組は言葉に詰まって目配せする。
「と、ともかくだよ! お前らが出来ていようがいまいが、俺達にゃ関係ねえ! ホンの兄貴に命令された以上、見張ってねえといけないんだっての!」
よし、分かった。ここでこいつらを昏倒させて撒いてしまおう。そう拳を固めたのと同時に、マックスが肩を竦めて腕時計に目を落とす。
「しょうがないなあ……じゃあ、一緒に来るかい? そろそろ、ランチの時間だし」
「ええ!?」
素っ頓狂な声を上げる俺に、マックスは悪戯っぽく片目を瞑ってみせる。
「背後でコソコソされるより、一緒に行動したほうが、こっちも撮影するのに気が散らないよ。きみらも上司の命令は絶対だろうし、逆らう訳にはいかないのは分かるからね」
そうマックスがにっこりとして、マーとホーは互いの顔を見合わせたが「そういうことなら……」とすんなりと納得する。なんで、簡単に納得するんだよ、馬鹿コンビめ!
「さて、今日はどこの店で食べようか?」
マックスがさっさと歩き出し、後ろをついてくる二人に聞こえないように「どういうつもり?」と小声で囁く。
彼は「俺に任せて」と悪戯っぽく微笑んでみせた。
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