第五話 ワン老師

〔5〕


 翌朝。

 九龍冰室クーロンカフェで朝食を摂りたいというマックスの希望で、いつもより少し早い時間に九龍城砦に向かっていた。

 東頭村道トン・タウ・ツェン通りを目指して歩きながら、俺は欠伸交じりに言う。

「ねえ、マックスの家のソファーって、眠り薬が染み込ませてあるんじゃない?」

 マックスが「ばれたか。安眠できたようで良かったよ」とおどけたように笑う。

 あれから揺り籠のようなソファーで一晩を明かしてしまった。お陰で最近の寝不足が解消されて、頭もすっきりとしていた。

「いつでも歓迎するよ」

 伸びをする俺にマックスが目を細め、思わず頷いてしまいそうになるのを堪える。

「いや、癖になりそうだから……」

「いいじゃないか、別に」

 楽しそうに言うマックスに、少し狼狽しつつそれを誤魔化すように、借りたTシャツの裾を引っ張る。少し大きいサイズのそれには、真ん中にでかでかとアメコミヒーローが印字されている。

「じゃあ、次は着替えを持っていくよ。ティーンのようなTシャツを借りないで済むように」

「とても似合っているよ」

「スパイダーマンが?」

「スーパーヒーローは、全世界の男の子の憧れだろう?」

 軽口をたたきながら、東頭村道トン・タウ・ツェン通りに差し掛かり、俺達は同時に足を止める。

 そこには、チャンと手下達がいたのだ。チャンもこちらに気付いており、冷たい瞳を俺に向ける。

 俺も彼を真っ直ぐ見つめ返す。互いの硬い視線が絡み、半ば意地になって彼を見つめ返していたが、先に逸らしたのはチャンだった。

 彼は車のドアを開けて控えていたホンに何か伝え、後部座席に乗り込む。すぐさま車は遠のき、俺はほうっと溜息をつく。

 車を見送り、チャンと同時にこちらに気付いていた彼の部下であるホンがこちらに一瞥をくれ、そのまま手下を引き連れて九龍城砦内へと踵を返す。

「大丈夫かい?」

 マックスが心配そうに覗き込み、俺は小さく頷く。何も後ろめたい気持ちを感じる必要はないのだ……俺は金時計から解放されたのだから。そう自分に言い聞かせるように胸の内で呟く。

「俺は平気だよ、行こう」

 そう唇の端を上げて、九龍城砦に向かって再び歩き出す。

「なんだか、世界の果てまで追いかけてきそうだ」

 マックスが僅かに眉根を寄せて呟き、はっと彼を見上げる。追いかける……

 俺の反応に、彼は、苦笑交じりに肩を竦める。

「チャンの事だよ。さっき、きみを見つめる彼の様子が……」

「それだ……!」

 俺は思わずマックスの腕を掴む。彼は、虚を衝かれたように、薄く口を開いてこちらを見つめ返す。

「龍を追う……追龍、つまりはChase the Dragonだよ!」

「どういうことだい?」

「追龍は、広東語のスラングでアヘンやヘロインを吸うって意味なんだよ。昨日も話したように、裏蓋にまだ何かあった気がして、ずっと考えていたんだ。裏蓋には八卦図の下に小さく『Chase the Dragon』って言葉が彫られていたんだ」

「確かに『Chase the Dragon』は、ありもしないものを追いかけるとか言う意味のほかに、ヘロインを吸入する際に、炙った薬物が立ちのぼる様子が龍の尾に似ているから、薬物を吸うっていう意味もあるって聞いたことがあるよ。そうか、元は広東語からきていたんだね」

「チャンは、ちょっと前まではたまに自分でもヘロインをやる事もあったし、本人が麻薬売買を取り仕切っているから、そういう意味で刻印されているのだと思っていた。だけど、そうじゃなくて『龍を追いかける』という意味だったら?」

「龍を追いかける、か。しかし、どういうことなんだろう?」

 俺は思わず低く唸りながら、がっくりと項垂れる。

「分からない……でも八卦図と何か関係しているのかも……」

 互いに真剣な顔で考え込んでいると、くうっと間の抜けた音が響く。マックスが照れたように腹に手をあてて微笑み、俺もつられて笑う。

「ごめん……お腹が空いちゃって」

「まずは腹ごしらえをしないとね。俺も腹が減ったよ」

 俺達は、九龍冰室クーロンカフェへと向かった。


 食事を済ませてから、俺達は、老人街ロー・ヤン通りにあるワン老師の漢方薬局を訪ねる事にした。

「ワン老師とは長い付き合いなの?」

「うん。それこそ子供の頃からお世話になっているよ。噂だとワン老師の先祖は、ずっと昔……ここに本当に城砦があった時代の清朝の役人だったらしいんだ。九龍城砦の事なら何でも知っている、城主といっても過言ではない人だよ」

「なるほど。先祖代々、ずっとこの九龍城砦に住んでいるのか。九龍城砦の生き字引のような人なんだね」

 マックスが感心したように言い、俺は「ワン老師から八卦図の事も教えてもらったんだ」と頷く。

 そうこうしている内に漢方薬局に到着する。薬局から出てくる客とすれ違い、カウンターにいたワン老師が「おや」と微笑んだ。

「今日は、珍しいお客様も一緒だね」

「はじめまして。カメラマンのマックス・バトラーと申します」

 にこやかにマックスが握手を求め、ワン老師もにっこりと手を握り返す。

「噂には聞いているよ。九龍城砦を撮影されているとか。もしかして、ここが撮影場所に選ばれたのかな?」

「そうさせていただけたら嬉しいのですが、実は今日は……」

「ワン老師に訊きたいことがあって」

 真剣な面持ちで言う俺に、ワン老師は「では、こちらでお茶でもいかがかな」と奥の部屋に促す。

 瓶に入った生薬が並ぶ部屋の円卓に座り、ワン老師の淹れてくれた白茶パイチャを飲みながら、彼に切り出す。

「ワン老師から、子供の頃に八卦図の事を教えて貰ったことを思い出して、今日は来たんです」

 ワン老師は茶杯を片手に、小首を傾げる。

「うむ。八卦図か。そんな事もあったような気がするな」

「実はチャンの金時計の裏蓋に先天八卦が刻印されていました。そして八卦図の下には『Chase the Dragon』の文字もありました」

 ワン老師は、ゆったりと足を組みなおして「金時計か……」と呟く。

「その金時計は、少し前までラウが身に付けていたものだね?」

「え、ええ……」

 思わず時計を巻いていた手首を撫でる。

「その金時計は、いまは誰が持っているのかな」

「チャンです」

 ワン老師は、ゆったりと相槌を打って少し遠い目をした。

「あの金時計は、13Kサップサンケイの九龍城砦を取り仕切る者に代々受け継がれているものだ。それがいつの間にか、情人に時計を持たせるようになったようだが」

「代々受け継がれると言う事は、何か重要な意味があると言う事ですか? それに、Chase the Dragonという言葉も気になります」

 ワン老師は白茶で咽喉を潤し、思わず身を乗り出す俺を宥めるように肩を撫でる。

「これは、13Kサップサンケイの者が知る事だ。そしてラウ、お前はすでに金時計の持ち主ではない。龍を追いかける必要はない、そうだろう?」

「でも……」

 食い下がる俺に、ワン老師は「九龍城砦は龍に守られている。龍の逆鱗に触れてはならないよ」とそっと席を立つ。

 これ以上、聞いても彼は何も語ってくれないだろう。ワン老師がドアを開け、俺達は部屋を出る。

「あの、ワンさん。今度、こちらに撮影で伺ってもいいですか?」

 それまで黙って俺とワン老師のやり取りに耳を傾けていたマックスが、カメラを掲げる。ワン老師は「勿論。歓迎するよ」と微笑んだ。

 悶々と考えに没頭する俺にワン老師は「それでは稽古で会おう」と肩に手を置いた。

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