第四話 レオン

〔4〕


 東頭村道トン・タウ・ツェン通りに向かってマックスと肩を並べて歩きつつ、俺はアンディから訊いたレオンの情報を反芻していた。

「年は十代後半から二十代前半……痩せ形で身長は5英尺フィートインチ(170センチ)から5英尺フィートインチくらいか。豚人間ピッグマンの身長と合致するな……」

「頬の傷跡が特徴で、髪はブルネット。瞳の色は前髪で隠れていたので不明だがおそらく茶色、だったね」

「正直、豚のマスクをとってしまったら、九龍城砦の住民と区別かつかないかも。傷跡なんて荒れくれ者が多いここじゃ、珍しくはないからなあ……」

「アンディの話じゃ、レオンが思い込んでいるような酷い傷跡じゃないって言っていたね」

「うん……」

 レオンは自分を醜いと思い込んでいる。もし、自分が九龍城砦で人目のつかないところに隠れようとしたら、どこに行くだろう……?

 それと、気になるのは八卦図の事だ。俺はふとマックスを見やる。

「ねえ、チェリーの八卦図の写真を持っている?」

「うん? あれなら……しまった、家に置いてきてしまったよ」

「……そっか」

 いつの間にか、東頭村道トン・タウ・ツェン通りに差し掛かっていた。

 チェリーの刺青について、ちょっと気になる事があって確認をしたかったのだが……そんな事を考えつつ、顔を上げる。

 ふと、マックスと目が合って同時に「あの……」と口を開く。俺は少し照れ笑いをして肩を竦める。

「ごめん、どうぞ」

「あ、いや……その」

 マックスは、少し逡巡したようにプラチナブロンドの髪をかき混ぜるように頭を掻く。

「良かったら、俺の部屋でその写真を確認するってのは、どうだろう?」

 思わずぽかんと彼を見上げる。マックスは少しおどけるように「だってきみは自由だろ?」と片目を瞑ってみせ、思わず小さく笑ってしまった。

「実は、同じことを考えていたんだ。お邪魔してもいいかな?」

 途端にマックスが「勿論だよ」嬉しそうに微笑んだ。

「近くに車を停めているんだ」

 そう促され、俺は頷いて車通りのある大通りへと一歩踏み出す。マックスが隣にいたせいだろうか、九龍城砦を出るその一歩は、自然にごく当たり前のように踏み出すことができた。

 ネオンが輝き出した香港の大通りへと歩きつつ、俺はふと九龍城砦を振り返る。通りに突き出した大量の医者や歯医者の看板に、要塞のような建物群……馴染みの景色だが、妙に余所余所しさのようなものを感じる。

「……ラウ?」

 少し先を歩いていた彼が不思議そうに首を傾げ、俺は「ごめん」と彼の元に足早に向かう。

 それからマックスの運転する車で十分ほど移動し、油尖旺区ヤウチムウォンキョイへと移動する。ネオンサインの輝く大量の看板に通りを走る2階建てバスダブルデッカーバス、そして行き交う人の多さに驚きながら車を降りる。

 彼が住んでいるのは、唐楼トンラウと呼ばれる低層アパートの一室だった。天井の高い、広々とした部屋を思わず見回してしまう。

 マックスが冷蔵庫から出したものをこちらに差し出す。

生力サンミゲルビールじゃないけれど」

「ありがと。ここに、一人暮らしなの?」

 バス・ペールエールという瓶ビールを受け取り、マックスは「そうだよ」とキッチンへと向かう。

「まずは夕飯にしよう。お腹が減っていたら頭も回らないからね」

「何か手伝う? 料理は得意なほうなんだ」

「大丈夫だよ、座っていて。あ、チェリーの写真ならそこにあるから」

 そうテーブルを指差し、俺はビールを片手にソファーに腰を下ろす。座り心地の良さに少し感動しながら、ローテーブルを見れば新聞やカメラのレンズやフィルムケースが雑然と置かれている。その中にチェリーの刺青の写真もあった。

 瓶を傾けながら、写真をじっと見つめる。ふいに何かを炒める良い匂いがして、つられるようにキッチンへと向かう。

 手際よく調理をするマックスが、俺の気配に「もしかして、待ちきれない?」と白い歯を見せて笑う。

「かもね。でも、ここでお利巧にしてるよ」

 食卓の椅子に腰を下ろし、ビールを飲む。九龍城砦を出て、こんな風に誰かが調理する姿を眺めている自分が妙に可笑しかった。

「俺……何にも知らないんだなあ……」

 しみじみと呟いてしまい、マックスが肩越しにこちらを見やる。

「香港に住んでいるのに、今夜見た風景は全て初めて見たものだった」

「前にも言ったけれど、きみが望めば、きみはどこにだって行けるよ」

「……そうだね」

 マックスが食卓に料理を盛った皿を置き、思わず身を乗り出す。

「イカといんげんのカシューナッツ炒め、俺の得意料理の一つ。そうだ昨日作ったチリコンカンがあったな」

「美味しそうだ」

「まだ得意料理が出てくるよ」

 そうマックスが少し得意げに笑い、再び包丁を握る。器用にじゃがいもの皮を剥くその姿に、遠い昔、母親がこんな風にたまに料理してくれた姿を思い出す。

 懐かしさと、少しの哀しさが沸き上がり俺はそれを誤魔化すようにビールを呷った。


 食後、リビングで俺は改めてチェリーの刺青の写真を眺める。

「せめて金時計が手元にあればなあ……」

「そういえば、どうしてレオンの父親が外国人だと分かったんだい?」

「うん? レオンの父親が言う、豚野郎っていう罵りの言葉は海外っぽいというか……ここでは豚は縁起物だからさ」

「なるほどね、俺から言うと『豚野郎』なんて侮辱の言葉でしかないれど、そこは文化の違いだね」

 感心したようにマックスが言い、俺はハッとしながら写真から顔を上げる。

「刺青と金時計の違いが分かった……!」

 目を瞬かせるマックスに、俺は写真の八卦図を指差す。

「これは、後天八卦ってやつなんだよ」

 聞き慣れない言葉なのだろう、マックスが首を傾げる。俺は「これ、借りるよ」と、テーブルにあったペンとメモを手に取る。

「八卦というのは、古代中国から伝わる易における八つの基本図像で、卦はこうと呼ばれる記号を三つ組み合わた三爻ってやつで出来ているんだ」

 俺は八卦図の記号を指し示す。

「ここの記号を見て。全て『―』と『--』の組み合わせで出来ているでしょう?」

「ああ、なるほど!」

「この『―』と『--』をこうと呼ぶんだ。ちなみに『―』は陽、『--』は、陰を表すんだ」

 俺はペンで『―』と『--』の三つを組み合わせた記号を書く。

「八卦は陰と陽を三つ組み合わせて『☰』ケン、『☱』、『☲』、『☳』シン、『☴』ソン、『☵』カン、『☶』ゴン、『☷』コン、という記号になるんだ。チェリーのこの刺青の八卦図は、八角形のてっぺんが離『☲』、時計回りに坤『☷』、兌『☱』、乾『☰』、坎『☵』、艮『☶』、震『☳』、巽『☴』の順番に並んでいるでしょう」

 マックスが真剣な面持ちで何度か頷き、俺は写真の八卦図を指差す。

「この並びの八卦図は、後天八卦っていって占いなんかで使われるんだけど……」

 俺は言いつつ、メモにもう一つの八卦図を描く。

「八卦図にはもう一つあってね。先天八卦といって順番が違って乾『☰』、兌『☱』、離『☲』、震『☳』、巽『☴』、坎『☵』、艮『☶』、坤『☷』の並びになるんだ。この先天八卦の配列は呪力があるとされ、呪符なんかに使われるんだ。その先天八卦は、金時計の裏蓋に刻まれていた」

 感心したようにマックスが俺の描いた先天図を見つめる。

「凄いな……良く知っているね」

「たまたまだよ。子供の頃に、ワン老師から教えてもらったんだ」

 そういえば、どうして八卦図の事を教えてもらったんだっけ……? そんな事を考えていると、マックスが小さく唸る。

「でも、どうしてチェリーは後天八卦を彫ったのかな」

「先天八卦は陰八卦、後天八卦は陽八卦といって、陰と陽で風水などではそれぞれ意味があるんだ。多分……彼女は金時計の先天八卦のペアとして後天八卦を選んだのかも……」

「先天と後天、陰と陽かあ……色々と奥が深いね」

「八卦図の真ん中のこの陰陽太極図『☯』も、陰と陽で女と男という意味もあるからね」

 マックスは、感慨深そうに胸の前に腕を組む。

「チェリーの熱烈な気持ちが窺えるね。なんというか……チャンへのあてつけではなく、ラブレターのような気がする」

「確かに。俺への当たりが強かったのも頷けるな……」

 少し脱力してソファーの背もたれに体重を掛ける。

「豚野郎……いや、レオンはチェリーの八卦図と金時計の八卦図が違う事に気付いて、俺を襲ったのかも」

「そうまでして、金時計を狙う理由ってなんだろう……」

 益々、謎が深まっていく……俺達は同時に低く唸ってしまった。金時計の裏蓋には他にも何かあったような……なんだろう、思い出せない。

「駄目だ……普段使わない頭をフル回転しすぎて、オーバーヒートしてる」

 俺はずるずるとソファーに上半身を倒す。柔らかく身体が包まれ、ほっと溜息が出る。

「ねえ、マックス……このソファー、最高に座り心地がいいね。なんか揺り籠みたいだ」

 うっとりと囁くと、マックスが可笑しそうに「眠ってもいいよ?」と言うので、ゆっくりと頭を振る。

「駄目だよ、帰らないと……」

「こんな時間に九龍城砦には帰せないよ」

 彼がいつの間にか持ってきたブランケットを俺に掛け、益々、眠気に抗えなくなる。

「おやすみ、ラウ」

 彼の声を遠くに訊きながら、俺の意識はゆっくりと沈んでいった。

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