第三話 礼拝所
〔3〕
アンディのいる礼拝所は、
二階建ての建物が数棟集まるそこは、元々は衙門を建て替えた軍人宿舎だったという。周りを違法建築の高いビルが囲み、敷地内には礼拝所の他に老人センターや英国救世軍の幼稚園もある。
九龍城砦では珍しく日当たりと風通しが良い場所で、その為、近隣の住人が広場によく集まっていた。夕食の準備をしつつ、よもやま話をする住人や、はしゃぐ子供達の姿をマックスがカメラに収めていく。
そのまま、俺達は奥まった場所にある礼拝所を訪ねる。清潔で広々とした礼拝所は、簡素な椅子と十字架に祭壇、その脇にはオルガンという至って簡素な造りになっていた。
夕方のせいか人もまばらで、俺達に気付いたイタリアから来たというシスターが微笑んだ。
「あの、アンディと約束しているんですが」
「アンディさんなら、執務室にいらっしゃいますよ。その扉の奥の部屋です」
そう彼女が奥の扉を指し、二人で礼を言い、執務室へと向かう。少し薄暗い廊下を歩きながら、マックスが観察するように辺りを見回す。
「九龍城砦の中でも少しここは、雰囲気が違うね」
「確かにね……」
言い掛けたのと、ガラスが砕けるような鋭い音がしたのは同時だった。それに重なるようにアンディの叫ぶ声がし、俺達はぎょっと顔を見合わせる。
「アンディ!」
俺とマックスは、執務室へと走った。勢いよくドアを開けると、書類などが床に散らばった部屋の真ん中でアンディは左の二の腕をおさえて膝をついている。
「何があったんです!?」
マックスが蹲る彼を支えるようにし、俺は室内に目を走らせる。どうやら割れたのは花瓶のようで、壁に当たって砕けたようだ。窓は開け放たれ、レースのカーテンが風に揺れている。
「……豚の被り物をした彼が部屋に入って来て……」
「豚野郎が……!?」
「あ、ああ……窓から逃げていった」
彼の白いローマンカラーのシャツの腕の辺りが切られて血が滲んでおり、マックスが長椅子に彼を移動させる。騒ぎを聞きつけたシスターがやってきて、息を呑む。マックスが傷口を確認し「大丈夫、そんなに深くはないようです」とアンディに言い、シスターを見やる。
「シスター、応急手当を出来るものはありませんか?」
「え、ええ、すぐに……!」
「マックス、俺は建物の周りを見てくる! まだ、豚野郎がいるかも」
「相手はあの
「分かってる」
礼拝所の外に走り、辺りに視線を走らせる。しかし人気はなく、俺は念のため周辺を見回りって、豚野郎がいないのを確認して、執務室へと戻った。
「周りには、もういなかったよ」
シスターに傷口の手当てをしてもらっていたアンディが、強張った顔をこちらに向ける。
「アンディ……一体、何があったの?」
「シスター・アンジェラ、ちょっと三人だけにしてもらえるかな」
シスターが不安げに頷き、俺は彼女に言う。
「あと、自警団に電話してこの辺りを見回って貰った方が良いと思う。多分、来ないと思うけれど、念のためにね」
「え、ええ……すぐにそうします」
そう彼女が部屋を辞し、アンディは深い溜息をついて片袖を脱いでいたシャツを身に付け、デスクの抽斗を開ける。
「これを……」
差し出されたのは一枚の画用紙で、そこに描かれた絵に俺とマックスは顔を見合わせる。
「セラピーの一環として、絵を描いてもらうことがあってね。彼には、家族の絵を描いてもらったのだけど……」
少し稚拙にも見えるタッチで描かれていたのは、頭部が豚の人物だった。横に「
「父親の肖像画……?」
「彼……レオンは、父親に虐待を受けていたようだ。それが彼の心を歪ませてしまって……」
豚野郎の名前はレオンというらしい。
「豚野郎……いや、レオンも覚醒剤中毒なの?」
アンディは、俺の言葉にゆるく頭を振った。
「中毒者ではない。彼は九龍城砦に来る前は、色々な場所を転々としていたようでね。まるで居場所を求めるようにこの礼拝所に来たんだ」
「アンディさんは、セラピストのような事もなさっているのですか?」
マックスが父親の絵から顔を上げて訊く。
「ええ。臨床心理学を大学で学んでいたので……麻薬中毒患者の更生プログラムにも必要不可欠ですからね」
「そのレオンがどうして、アンディを襲ったの?」
「彼は、人の居ない時間帯に礼拝所に来る事が多くてね。シスターすら、彼の存在を知らないと思う。いつも、人目を忍んで執務室に来て、わたしと色々な話をしていた。さっきも、彼がこっそりとやって来て……驚いたよ、彼は豚のマスクをしていて……ラウを襲ったのかと問いただしたら、逆上して……斬りつけてきたんだ」
そうアンディが悲し気に包帯の巻かれた腕を撫でる。
「デザイン画の写真を見た時に、動揺していたよね? それは、レオンに祈り手の彫り物がある事を知っていたから?」
「それもあるけれど……」
そうアンディは、ローマンカラーのシャツのボタンを外しはじめる。驚く俺達に構わず、彼は白いシャツを脱ぎ、程よく引き締まった右の上腕をこちらに見せる。
そこには、祈り手の刺青があり、俺とマックスは息を呑んだ。
「あいつと全く一緒の刺青……」
アンディは哀し気に目を伏せて、肌蹴たシャツを再び着る。
「青年時代にアメリカに住んでいたんだ。その頃は一時期、荒れていてね。その時に入れてしまったものだよ……」
彼は懺悔するように深く溜息と共に囁く。
「レオンが、わたしを慕ってくれているのは分かった。しかし、その気持ちがとても依存的になって来ているのは感じていた。まさか、彼がわたしと同じ刺青を入れてしまったとは思わなかったよ」
「レオンは、何かを目的に人を殺めているかもしれません。何か心当たりはありませんか?」
じっとアンディを見つめながらマックスが訊く。アンディはゆっくりと頭を振った。
「わたしにはさっぱり……でも、彼はケアが必要なくらい病んでいる可能性もある」
「それは、どういうこと?」
「さっきも話したように、彼は子供時代に酷い虐待を受けていてね。頬にナイフで出来た切り傷の痕があるんだ。酔った父親から斬られたと聞いたよ。彼が言うには、その切り傷から毒が溢れて、自分の顔が崩れているっていうんだ」
僅かに眉根を寄せる俺の横で、マックスが「醜形恐怖ですね?」と問う。アンディは頷き、項垂れるように額に手をあてる。
「いつも長く伸ばした前髪で顔を隠していたが、勿論、彼の顔は崩れていないよ。父親に、お前は醜い豚野郎だと罵られていたらしいから、それで認知が歪んでいるのだと思う」
「……酷い話だな」
マックスが顔を顰め、俺はふとアンディを見やる。
「もしかして、レオンの父親って、アジア人ではなく他の国の人?」
「ああ。母親が香港人で、父親がアメリカ人だと聞いているよ」
なるほどね……小さく呟きつつ、荒らされた部屋を見回す。
「レオンは、あなたに父性を求めていたのでしょうか?」
マックスの言葉に、アンディは夕日の差し込む窓に物憂げな目を向け「おそらく」と囁いた。
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