第二話 祈る手

〔2〕


 早朝の公園に、人を模した木製の木人椿もくじんとうを打つ音が響く。久しぶりに使ってみると、肘などに痛みを感じる。それだけ鈍っているということかもしれない。

 ワン老師が設置した木人椿もくじんとうだが、本来の用途を知らない子供達が、腕の部分にぶら下がって遊んでいるのを見たことがある。

 腕に見立てた部分を絡め取るようにし、肘打ちをする。どうしても豚野郎の姿が浮かび、頭部にあたる部分に掌底を打ち込む力が入る。

 カンッと小気味良い音が響き、基本の膀手ボンサオ攤手タンサオ伏手フォクサオをひたすら練習していく。

 詠春拳は接近戦を得意とする武術だ。あの豚野郎は一撃必殺の八極拳の遣い手らしい……八極拳もまた接近戦を得意とするが、隙を衝かれてパワーのある頂肘ちょうちゅうを打ち込まれたらこちらが不利になる……

 そんな事を考えながら回し蹴りを入れる。

「殺気が漲っているな、ラウ」

 ハッとなって振り返れば、ワン老師が微笑んでいた。

「傷の具合はどうかな?」

「お陰様で、快方に向かっています」

「それは良かった」

 ワン老師は頷き、いつものようにベンチに向かう。彼が鳩に豆をやる間、再び木人椿もくじんとうに対峙する。

「少し余計な力が入っているな」

 いつの間にかワン老師が後ろに立ち、俺の肘をとり位置を調整する。そのまま両肩に手を置き「肩に力も入っている」と解すようにする。

 ほうっと深呼吸して、意識的に力を抜くようにする。

「これで打ってご覧」

「はい」

 再び木人椿もくじんとうを打てば、身体の負担がかなり軽くなっているのに気づく。暫し、練習をしていると、ワン老師から声を掛けられベンチに向かう。

「少し休憩としよう。さあ、飲みなさい」

 そう彼が魔法瓶の水筒からお茶を注いだステンレスカップを差し出す。彼の隣に座り、ワン老師特製の漢方茶で一息つく。

「襲撃犯は八極拳の遣い手で、柳葉刀りゅうようとうの扱いにも慣れているようでした」

 ワン老師はゆったりと足を組み、カップのお茶を飲みつつ頷く。

「柳葉刀で斬りつけられたのか……その人物と闘った時の状況はどうだった?」

 俺は記憶を呼び起こしながら、豚野郎との死闘の状況を話す。話しつつ、ふと気づいた事があり小首を傾げる。

「そういえば、頂肘を豚人間からくらいましたが、打撲で済みました」

「咄嗟に最小限の衝撃で済むように受け身をとったのかな」

「え、ええ……それも多少は、あると思います。でも、八極拳の頂肘はかなり破壊力がありますよね?」

 例えば、同じく八極拳の遣い手のチャンが繰り出す頂肘だったら、肋骨が砕けていたはず。

「相手が未熟という事かもしれないな。だからこそ、柳葉刀を振り回すのかもしれないな」

 ワン老師の言葉に頷き、はたとある事を思い出す。

「それに、背部を小鍋で連打した時もその手ごたえが鈍いというか……なにかプロテクターのような防具を付けていたのかな……」

 ワン老師は、ゆったりと足を組みかえて何か考えを巡らせていたが、淡く微笑んでこちらを見る。

「万が一、その人物と再び対峙した時の為に策を練る必要があるな」

「ええ……でも、どうすれば……」

「距離をとって闘ってみるのはどうかな」

 ワン老師の言葉に思わず目を丸くする。詠春拳は接近戦を得意とするのに、どうやって……?

 俺の反応に、ワン老師は「それでは、はじめようか」と立ち上がった。


 九龍冰室クーロンカフェのいつもの席で、マックスは真剣な面持ちで呟く。

蛋撻エッグタルトというのは、ポルトガルがルーツだそうだよ。それがマカオに伝わり、香港にも広まったらしい。マカオと香港では少し違いがあって、香港式は生地がこんな風にサクサクとした牛油蛋撻クッキー風生地が特徴なんだ」

「ふうん。それで、お味はいかが?」

 港式奶茶香港式ミルクティーを飲みながら訊けば、マックスは天にも昇るような面持ちで感嘆の吐息をつく。

「勿論、美味しいよ! 何を食べても美味しいなんて……ここは天国だろうか。できることなら、九龍冰室クーロンカフェに住みたいよ……!」

「それはシャムが嫌がるだろうから、やめておいた方が良いね」

 相好を崩しつつ、蛋撻エッグタルトを頬張っていたマックスが店の入り口を見やる。

「あ、来たみたいだ」

 店に入ってきたアンディは、いつものように厨房のシャムに声を掛ける。

「シャムさん、焼き上がりました?」

「あいよ。いつもの蛋撻エッグタルトだ」

 銜え煙草のシャムから紙袋を受けとり、俺とマックスはアンディに軽く手を振る。彼は、俺を見るなり少し慌てたようにこちらにやって来た。

「ラウ! きみ、柳葉刀で大怪我をしたんだって?」

「ご覧の通り、まだ天国への門はくぐっていないよ」

 茶化すように言うと、アンディは困った子供を見るような瞳で微笑む。

「あのさ、ちょっと訊きたい事があるんだ」

 マックスが空いた椅子をすすめ、彼の前に一枚の写真を置いた。

「アンディのところに、このタトゥーのある人物はいないかな?」

 それは、ヤオの元で撮影したプレイングハンド祈り手のデザイン画だった。祈り手の刺青から、豚野郎は信仰心があるのかもしれないと俺達は考えたのだ。だとしたら、礼拝所に来ている可能性もある。

 アンディが写真を見るなり息を呑み、顔を強張らせる。

「どこで、これを……?」

「彫り師のヤオさんが描いたものです」

 明らかにアンディは動揺しており、マックスが僅かに身を乗り出す。

「何かご存知なんですね?」

 アンディは、首から下げた銀の十字架を握り、意を決したように俺達を見る。

「あまり人の居ないところでお話を……今日の夕方、五時に礼拝所に来られますか?」

 俺達が頷くと、アンディは写真に目を落とし、祈り手を撫でるようにそっと指先で辿った。

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