第三章 遥かなる祈り

第一話 困惑


〔1〕


 日の沈み始めた九龍城砦。

 俺は、つい数日前までチャンと暮らしていたアパートの前を、行ったり来たりしていた。最上階の部屋は、未だ明かりが灯っていない。建物周辺にもチャンの手下は居ないことから、彼がまだ帰ってきていないことは明らかだ。

 俺は意を決し、アパートの中へと入った。十四階に辿りつき、部屋のドアの前ではたと気付く。

 すでに、新しいお気に入りの誰かが部屋の中に居るということは、ないか?

 俺は二重ドアになっている格子の鉄門を開け、ドアに耳をつけて中の気配を探る。しかし、分厚いドア越しでは何も分からない。

 万が一、相手がいてかち合ったとしても、だ。とりあえず、訳を話してチャンを待たせてもらおう。話しても分からない相手だったら……まあ、その時に考えようじゃないか。そう自分を鼓舞するように深く頷いて、俺は合鍵でドアを開ける。

 中の気配を探るようにしながら、部屋の奥へと進む。死闘を繰り広げたダイニングキッチンは、すっかり片付けられていた。柳葉刀の刺さった壁には穴が空いており、壊してしまった食卓は無くなり、椅子だけがどこか寂しげに並んでいる。棚にワン老師から貰った生薬の袋が置いてあるのに気付く。そういえば……煎じ薬は豚野郎に投げつけてしまったんだっけ……

 どうやら、部屋には誰も居ないらしい。ほっと吐息が漏れる。

「リリー?」

 白猫の存在を思い出して呼んでみるが、鳴き声が返ってくることは無かった。キャリーの中も空で、寝室に移動し、そこにもいないのを確認する。

 おそらく、リリーは大ボスの元に返されたのだろう。

 あの日をやり直すように、俺はキッチンに立ち煎じ薬と水を小鍋に入れ火に掛ける。

「俺……何をやっているんだろう……?」

 自嘲の言葉がつい口をついて出る。立ちのぼる特有の苦そうな匂いに顔を顰めつつ、煮詰まっていく生薬を見つめる。

「やっぱり苦そうだ……」

 その後、待てども待てどもチャンが帰ってくる気配はなく、俺はじわりと眠気を感じて寝室へと向かう。

 ここ数日、まともに眠れていなかった。ほんの少しだけ……三十分くらいしたら、起きよう。

 そう胸の内で呟き、ベッドに仰向けになる。途端に、心地よい眠りの中に意識が沈んでいった。

 どれくらい経ったのだろう。遠くで誰かが咳き込んでいる……ベッドの端が沈んだ気がして、深い眠りから次第に引き上げられる。

「チャン……煎じ薬、飲んで……」

 ワン老師特製だから、きっと効くよ……そう半覚醒で呟いた気がする。

「お前は何をしているんだ……」

 チャンの低く呟く声が耳元でし、そのまま温もりが身体を包む。チャンに訊かなきゃ……夢うつつに思うが、全身を包む温かさに抗う事は出来ずに、再び眠りの底に滑り落ちていく。


 名前を呼ばれた気がして、俺は眉根を寄せる。

「ラウ、起きろ」

「……ん」

 身じろぎつつ、はっとなって目を開ける。窓から薄く日が差しているのに気づいて、ぎくりとなる。嘘……朝になっている……!?

 ベッドの端に腰を下ろしたチャンは、すっかり身支度を整えてネクタイを締めており、反射的に飛び起きる。

「まったく……お前という奴は……」

「あ、あの……」

 チャンはこちらに身体を向け、俺をじっと見つめる。

「しおらしくているかと思えば、こちらに擦り寄って来て……予想外の事をしでかす」

 真っ直ぐ注がれる瞳は、静かな光を浮かべており、俺は言葉を失って彼を見つめ返す。

「まるで、猫のようだな」

 そう彼が少し苛立ったように俺の顎先を掴み、ビクリと身体を揺らしてしまう。

「何しに来た?」

「……訊きたい事があって……」

 チャンが片方の眉を上げ、彼の手首に金時計が光っているのに気づく。

「どうして……あの豚野郎は金時計を狙うの?」

 俺は金時計の巻かれた彼の手首に触れる。

「この時計は、何か特別な意味があるものなんだよね?」

 チャンは応える事はなく、金時計から俺の手を剥がすようにする。

「お前には関係のない事だ」

「そう言うと思った。でも、これだけは教えて」

 俺は彼の腕を掴んで、じっと瞳に力を込める。

「チャンは……ううん、13Kサップサンケイは、メイを捜しているの?」

 メイが生きている事に、気付いているとは思っていなかったのか、チャンの顔に僅かな驚きが浮かぶ。彼は低く咽喉で嗤い、俺は「答えて」と彼を睨む。

「メイは13Kサップサンケイが所有する商品だ。居なくなれば、捜すのは当たり前の事だ」

「探し出して、長洲島チュンチャウ島で見つかった男のようにするつもり?」

 チャンの顔に冷酷な笑みが浮かび、彼は俺の咽喉を掴むようにする。

「大人しく戻ってくればいいだけのことだ。言う事を訊かなければ、命はない。なんだ、その顔は?」

「……メイは商品じゃない。一人の人間だ」

 チャンが目を眇めて、咽喉を掴む手に力を込める。息苦しさに喘ぎながらも、俺はじっと彼を見つめ返す。

「そして、俺も」

「随分と生意気な口を利くようになったな。あの白人の影響か?」

「マックスは関係ないよ」

 刹那、押し殺していた怒りが爆発したように、乱暴にベッドに押し倒される。

「調子に乗るなよ、ラウ。客に脚を開いて稼ぐしか能のないお前らに、意思も人権もあるわけないだろう。笑わせるな」

 そうチャンが俺の膝裏に手を掛け、持ち上げる。

「男娼は男娼らしく、少しは俺を悦ばせようとしたらどうだ?」

 嘲笑を含んだ言葉に、カッとなって気づいたら彼の頬を平手打ちしていた。

「ワン老師が、俺とチャンが似ているって言ったんだ。ずっと俺はその意味を考えていた。診療所で目が覚めて、チャンが俺の手を握っていたのに気付いた時……ほんの少しだけ、チャンの事が分かった気がした。だけど、やっぱり違う。俺とあんたは、これぽっちも似てなんかいない……!」

 怒りに任せて声を荒らげた俺に、チャンは眉間に深く皺を寄せながら低く囁く。

「次に、俺の許可なくこの部屋に戻ってきたら、手足を斬り落とすぞ。そして、これ以上、余計な首を突っ込むのなら命はないと思え、いいな?」

 絶句する俺から退き、チャンはさっさと部屋を出て行く。大きな音を立てて、玄関の扉が閉まる音がし、強張っていた身体から力が抜ける。

 ゆっくりと身体を起こし、寝室を出る。ふとガスコンロを見やると、小鍋の中は空になっており、シンクにはマグカップが置かれていた。彼は、あの苦そうな煎じ薬を全て飲んだのだ。

「なんだよ……もう……」

 ふいに涙腺が緩み、それを堪えるように片手で目元を覆う。そのままずるずると、床にしゃがみ込む。

 朝日が薄く差し込むキッチンで、暫し、俺は両膝を抱えて蹲っていた。


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