第十一話 深まる謎

〔11〕


 東頭村道トン・タウ・ツェン通りで、ぼんやりと行き交う人を眺める。昨日の晩も眠れなかったせいか、あれから考えが纏まらない。

 なんだか、足元がスコンと抜けてしまったような……妙な感じ。もしかして、俺はショックを受けているのだろうか……?

 そろそろマックスが来る時間かも……ふと腕時計を確認しようと手首を見て、そこに何も巻かれていない事を思い出して、はっとなる。

「ラウ?」

 顔を上げると、そこにはマックスがおり、彼は安堵したように顔を綻ばせた。

「良かった! もう無事に退院できたんだね?」

「うん。お見舞いに来てくれたって、ウォン先生から訊いた。ありがと」

 マックスは「当然の事だよ」と微笑み、ふと気遣わしげに俺を覗き込む。

「体調がまだ芳しくないんじゃないかい? 顔色が良くないよ」

「経過は良好だよ」

 誤魔化すように唇の端を上げると、僅かに眉を顰める。

「何かあったんだろう? もし、きみが話したければ訊くよ」

 俺はいつも腕時計をしていた右の手首を撫でつつ、頷く。


 人目のないところが良かったので、いつものアパートの屋上に移動する。二つ並んだビーチチェアにそれぞれ腰を下ろして、どこから話そうかと逡巡していると、マックスがカメラバッグから缶飲料を差し出し、それを受け取りながら小さく笑う。

「ありがと。なんだか、生力サンミゲルビールでも呷りたい気分だよ」

「怪我人なんだから、今日は干姜水ジンジャーエールで我慢して」

 マックスが笑い、俺もつられて頬が緩む。

「もしかして、チャンとの事?」

 俺は小さく頷き、部屋を追い出された事、金時計のことを話す。

「金時計は、首輪みたいなものだったんだ。代々、チャンのお気に入りが身に付けていてさ……」

 そう俺は時計をしていた手首を撫でる。マックスは、じっと俺の話に耳を傾けていたが、小さく溜息交じりに呟く。

「きみが豚人間ピッグマンに襲われて、ウォン先生の元に運び込まれたと聞いて、彼の元を訪ねた時に、チャンもいたんだ」

「ウォン先生から訊いたよ。今にも二人が殴り合いそうだったって……」

 マックスは、微苦笑を浮かべて肩を竦める。

「無論、殴り合いには発展しなかったよ。でも、チャンから『お前は、ラウとどんな関係なんだ?』って凄まれたんだ」

「ええ!?」

 目を丸くする俺に、マックスは真面目な顔で相槌を打つ。

「ラウは大切な友人だと伝えたよ。俺もついムッとしてしまって、彼に言ってしまったんだ。ラウは、あなたの愛玩動物じゃない、って」

 言葉を失う俺に、マックスは逡巡した面持ちでプラチナブロンドの髪を混ぜるように頭を掻く。

「正直……きみ達が距離を置くのは、良い事だと思う」

「どういうこと?」

 まさかそんな事をマックスに言われるとは思わなくて、目を瞬かせる。

「そうした方が、ラウが望むように生きられるから」

 そう言うマックスの空色の瞳は真っ直ぐな光を帯び、俺は狼狽して手の中の缶ジュースに視線を落とす。

「俺……まだよく分からなくて。自分の事なのに分からないなんて、おかしいかもしれないけど……なんだか、チャンの元を出てからずっと変な感じで……」

「それは、突然手に入れた自由に戸惑っているんじゃないかな」

 自由……その言葉は、胸の中に妙な引っ掛かりを感じさせた。それを誤魔化すように、炭酸の強い干姜水ジンジャーエールを一口、飲む。

 ピリピリとした咽喉の刺激を感じながら、言葉を探しているとマックスは低く唸りつつ胸の前で腕を組む。

「でも……俺の印象としての彼は、そんなに簡単にきみを手放すようには思えないよ」

「どういうこと?」

 マックスは顔を顰めて、缶ジュースを呷った。

「俺に凄んできた時のチャンは、ラウに劣情を少しでも抱いたら必ず殺してやる、って感じだったもの」

「でも実際、俺は追い出されたわけだし……」

 暫し、互いに無言で俺達は遠くの景色を眺める。マックスがふと思い出したように身を乗り出す。

「そういえば、例のタトゥー専門の写真家に会ったんだけど」

 そうだった! 俺も思わず彼の方に身体を向ける。マックスは、カメラバッグから数枚の写真を取り出した。

「なんと、彼は九龍城砦の住人を幾人かモデルにしていたんだ」

 そう差し出された写真を見て、瞠目する。そこには、しどけなくベッドに横たわり、婀娜っぽく笑みを浮かべるチェリーの姿があった。

「彼は、チェリーも被写体にして撮っていたんだ。これも、見て」

 そう彼が差し出した写真を確認し、俺は小さく声を上げる。それは、彼女の太腿……刺青をアップにした写真だった。

 刺青は、八角形の……真ん中に白黒の勾玉を組み合わせたような陰陽太極図(☯)が配置された八卦図だった。それだけでなく、その周りには眼光鋭い龍が絡みついている。こちらに睨みを効かす龍は、チャンの身体に彫られたものにそっくりだった。

 俺は愕然としてマックスを見つめ返す。

「俺……この八卦図を知ってる」

 彼が目顔で問い、思わず自分の手首を撫でる。

「金時計の裏蓋に彫られていたんだ……」

 そういう事か、とマックスは低く唸りつつ、缶を傾けた。

豚人間ピッグマンは、ラウから金時計を奪おうとしたのかもしれないね」

「一体、何のために……?」

「分からない。けれど、それを察して、チャンもきみから金時計を没収したのかも」

 あの金時計には、なにか秘密が隠されているのだろうか?

「例の写真家の彼が、チェリーの事をよく覚えていてね。どうして、この刺青を入れたのか訊いたら、彼女は、自分を棄てた男へのあてつけだと笑っていたらしい」

「金時計にはない、この八卦図に絡みつく龍の部分はチャンの刺青にそっくりだし……きっと、チェリーは彼に未練があったんだと思う」

「自分がチャンの女だったのだと、誇示する意味もあったのかな」

「だろうね。そして豚人間ピッグマンはチェリーの刺青やヤオのデザイン画だけでなく、金時計を狙いに来た」

 あの八卦図が何を示しているのか……せめて、金時計が手元にあれば、分かる事もあるかもしれないのに……眉根を寄せる俺に、マックスが「もう一つ、きみに見せたいものがあるんだ」とバッグを探る。

「前に頼まれていたから……」

 そう彼が少し顔を曇らせてこちらに差し出したのは、新聞の一部を切り取ったものだった。四日前の記事で、それに目を走らせて、俺は息を呑んだ。

長洲島チュンチャウ島のホテルの一室で青年の遺体発見……」

「問題は、その殺され方だ。彼は両手足を切り取られていた。秘密結社が報復として行う殺害方法に似ていると思って……」

 血の気が引くのを感じながら、急いで記事を読む。しかし、遺体で見つかったのはイムという青年だけだった。

「気になって少し調べてみたんだけれど、イムは香港市内の高級ホテルのドアマンをしていたそうだよ。それが、一ヶ月ほど前に急に辞めたらしい」

「……丁度、メイが居なくなった頃と時期が重なる」

 告げられた高級ホテルの名は知っている。チェリーやメイがたまに13K(サップサンケイ)の重要な取引先の接待要員として何度か訪れた事があったはずだ……ドアマンのイムと接点があるとすれば、そこだろう。

「メイとドアマンのイムが恋仲だったとしたら……二人で香港から離れたこの島に逃げたという可能性もある」

 マックスの言葉に、俺は深く溜息をつく。

「メイの死体は見つかっていないんだよね……?」

「ああ。警察にも問い合わせたが、見つかったのは青年の死体だけだった。メイは逃げ切ったのかもしれない」

 メイ、どうか生きていて……俺は祈るように目を閉じる。

「ラウ、大丈夫かい?」

 そうマックスがこちらを覗き込み、俺は強張った顔に何とか笑みを浮かべる。

「平気だよ。記事の事、教えてくれて、ありがと」

「きっとメイはまだ生きている……そう信じよう」

 マックスの大きな手がそっと俺の肩に置かれる。

 聡い彼女の事だ、13Kサップサンケイから逃げ切れるはず……俺は、香港の街並みを見つめながら頷いた。


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