第十話 チャン
〔10〕
なんだか、とても長い夢を見ていた気がする。
とはいえ、穏やかな夢というよりは不穏な空気を纏ったもので、俺はネオンが輝く香港の夜の街に似た……しかし、九龍城砦のように迷宮の如く入り組んだところを必死に走っている。
不気味な何かが迫っている気配に振り向けば、そこには何百頭もの豚が「ぴぎぃいい」と不気味な鳴き声を上げながら俺を追いかけてきている。
涎を垂らし、口の端から飛び出した大きな牙は確かに血に飢えていて、こいつらに食われるんじゃないかと、ネオンが輝く迷路を必死に逃げ惑うのだ。
しかし、運が悪い事に、逃げ込んだ先は行き止まりだった。青褪めながら壁へと後退りし、先頭を疾走する豚の鼻先が俺の腹部に触れそうになった瞬間、ぶつりと情景が変わった。
「……豚……」
ほうっと吐息と共に嗄れた声が漏れる。どこか他人事のように、ぼやけた見慣れない天井を見つめる。
あれ……俺……どうして……?
一瞬、混乱するが記憶が次第に鮮明になり、自分が豚野郎に斬りつけられたことを思い出す。どうやら、俺はまだ生きているらしい。
多分、ここはウォン先生の診療所だろう。点滴のボトルが目に入り、辿れば右の手の甲にチューブに繋がった針が刺さっていた。ふと左手に温もりを感じて首を回らせて、ぎくりとする。
チャンがベッドの横にひじ掛け椅子を置き、そこに腰を下ろしていた。どうやら眠っているらしく、ひじ掛けに頬杖をつき長い脚を組んでいる。
温もりの正体は、彼の手だった。いつも冷たい指先は、互いの熱を分け合って温かく、途端に俺はハッとした気分でチャンを見つめる。
少し痩せた……? 淡く疲労を滲ませた横顔を見つめていたら、ふいに視界が滲んだ。鼻の奥がツンとして、気づけば両頬を涙が濡らしていた。
どうして泣いているのか自分でも分からない。生きていた事への安堵だったのか、それとも……
子供みたいに泣きじゃくる俺の気配に、チャンが身じろいだ。
「……ラウ?」
ぎょっとしたようにチャンがこちらを覗き込む。
「どうした、傷口が痛むのか?」
俺は首を横に振って、何とか泣き止もうとするが、どうにも涙腺が決壊したように止まらない。珍しくチャンが狼狽したように、泣き濡れた俺の頬を掌で囲む。
「豚野郎から助けてくれて、ありがと……」
泣き声で何とか呟くと、チャンは軽く頷いて俺の前髪をかき上げ、宥めるように頭を撫でる。
「ウォン先生を呼んでくる」
すぐさまウォン先生がやって来て、泣き顔の俺に目を丸くする。
「どうした!? どこか痛むのか?」
「ううん、生きている事に感動しただけ」
誤魔化すように笑みを浮かべると、ウォン先生は安堵したように頷いた。
「先生……俺、どれくらい眠っていたの?」
「三日だ。斬られた傷は骨までは達していないが、それなりに深かった。だが、痕がなるべく残らないように縫合したからな。ほら、これを口に入れて」
促されて水銀体温計が口に突っ込まれる。胸元を見ればガーゼと包帯できつく固定されていた。先生曰く左の鎖骨の下から斜めに8
先生が体温計を確認し、軽く頷く。
「よし、熱も下がったな。化膿もないし、抜糸は数日中に出来るだろう。傷跡のケアは抜糸後が肝心だからな。自分でもテープで保護するんだぞ」
「傷跡なんて残っても平気だよ」
「駄目だ、チャンに俺が殺される」
そうウォン先生が目を剥き、俺は「分かった。真面目にやるってば」と緩く手を振る。
「それより、俺が寝ている間に何か動きはあった?」
ウォン先生は、無精ひげのある頬を撫でつつ口をへの字にする。
「そりゃあ、九龍城砦中が大騒ぎだ。
「そっか……そういえば、マックスはどうしているかな」
ホン辺りから俺の事を訊いているかもしれないが……おまけに、ワン老師の稽古にも行けなかった。改めてワン老師に謝りに行こう……
「その事だが……なんだか、一触即発の雰囲気だったぞ」
「えっ!?」
ぎょっと身体を起こそうとして、引き攣れた痛みが胸元を走って呻く。ウォン先生が、慌てたように俺をベッドに寝かせる。
「無理はしちゃだめだ。切創のほかに、胸のあたりに打撲もしているんだ。怪我をしたと聞きつけて、マックスがここにやってきたんだが、そこにチャンもお前さんに付き添っていてな」
ウォン先生は部屋の外に視線をやり人気がないのを確認して、声のトーンを落とす。
「今にもチャンが殴り掛かりそうなピリピリした空気を醸すし、マックスも静かに怒気を放つしで、殴り合いをするなら外でやれと追い出したが……」
「ど、どうして二人がそんな事に……?」
ウォン先生は、肩を竦めてみせる。
「俺にはさっぱりだ。診療所の周りには、厳重にチャンの手下が見張りについているせいか、それ以来、マックスは来ていないぞ」
「……そう」
本来の目的である撮影が行えているといいけれど……それに、例の写真家から情報は得られただろうか?
「ともかく、今は安静にしていなさい」
「家にはいつ戻れる?」
「そうだな、明日には帰っても大丈夫だろう。しかし、例の襲撃犯がまたやってこないか?」
「多分、家の周りをチャンの手下が警備するし、ここに居てもその可能性はあるから」
「まあ、そう言われれば、そうなんだが……」
ウォン先生が銀髪をかき混ぜるようにして頭を掻く。
「ともかく、チャンの許可がないとな」
先生が部屋を出てゆき、入れ違いにチャンが顔を見せる。
「ウォン先生が明日には家に帰ってもいいって」
チャンは「そうか」と椅子に腰を下ろし、真っ直ぐ俺を見つめる。
「新しい部屋を用意した」
「引っ越すの?」
「お前だけ移動する」
言葉を失う俺に、チャンはサイドテーブルに置かれた金の腕時計を手に取った。
「これも返してもらうぞ」
「どういうこと……?」
やっとのことで絞り出した声は掠れ、チャンは表情を変えずに「今は治療に専念しろ」と立ち上がる。
チャンが、とうとう俺に飽きたということ……?
俺は呆然と、部屋を出て行く後ろ姿を見つめた。
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