第九話 襲撃
〔9〕
マックスが刺青を入れた者を被写体にしている写真家と会うため、彼とはいつもより早い時間に別れる。
俺はその足で、
ワン老師は、俺の悄然とした様子に少し驚いたようだったが、すぐに優しく微笑んだ。
「よく来たね。さあ、こっちに」
ワン老師に促されて、店の奥にある診察の為の部屋に入る。漢方独特の匂いが漂うそこは、妙に気分を落ち着かせた。
「珍しいお茶が手に入ってね」
ワン老師がガラスの透明ポットに湯を注ぐ。すると、中に入っていた球状の茶葉が蕾のようにゆっくりと開き、辺りに
ガラスポットの中に、千日紅の花が広がった。その美しさに見惚れていると、ワン老師が笑みを浮かべて鳥が描かれた茶杯に注ぐ。
「気分が落ち着く。飲みなさい」
「いただきます」
白茶の微かな甘みに、ほうっと吐息が漏れる。
「……美味しい」
「工芸茶と言うらしい。漢方の取引先からの土産でね」
言葉が途切れ、ゆったりとした沈黙が流れる。幾分、気分が落ち着いてきて、ワン老師を見やる。
「……ワン老師は、九龍城砦の外に出たいと思った事はありますか?」
「いや。ここには、漢方医としてわたしを必要としてくれる者がいるからね」
「それに、詠春拳の師匠としても」
「そうだね。そちらも忘れてはいけないな」
ワン老師が微笑み、ゆっくりと茶器を傾け、俺は俯く。
「ラウ、お前はここを出たいのかな?」
「分かりません……でも、ある人から言われたんです。俺自身が望めばどこにでも行けるはずだ、って」
俺はふいに妙な哀しさが沸き上がり、椅子の上で膝を抱えて額をつける。
「でも、その人は俺とは住んでいる世界も境遇も違うから、そう言えるのだと思います。彼は、九龍城砦の住人だと差別を受ける事もないし、きちんとした仕事もある……」
俺のような男娼が、外でどうやって生きていけると言うのだろう? そう、俺はマックスとは違って、何もないのだ。
「問題なのは、差別や仕事なのかな」
俺はハッとなって、ワン老師を見つめる。彼は、静かな瞳をこちらに注いでいた。
「……チャンの事もあります」
チャンが俺に対して向けるものは、愛情の類いではなく底知れぬ執着のような気がする。俺が彼の前から消えたら、チャンは手下をつかって香港中を探し回るだろう。
そして、見つかった後は、俺はおぞましい殺され方をして、九龍城砦の湿った路地に死体が放置されるに違いない。
ワン老師は、小さく笑みを浮かべて肩を竦めてみせる。
「チャンか……しかし、それも問題の根幹ではないな」
「え?」
俺の頭に、ワン老師が皺の刻まれた手を乗せて、そっと撫でる。
「すぐに答えを見つけなくても、時が流れて自ずと分かる事もある」
「その時を待てば良いという事ですか?」
「ラウ、お前は賢い子だ。自分に自信を持ちなさい」
俺はこっくりと頷く。正直、今の俺には、ワン老師の言葉の全てを理解できていない。しかし、彼の言うように、その時が来れば自ずと答えが見つかる気がした。
俺は思い出して、ポケットから取り出したものをワン老師に差し出す。
「リリーを保護しました」
マックスが撮ってくれた写真を見て「そうかラウが保護したか」と、彼は相好を崩しつつ深く頷いた。
「リリーを追いかけてみて、どうだったかな?」
俺は苦笑を滲ませながら、頭を掻いた。
「やたらとすばしっこくて、動体視力と反射神経の鍛練になりました」
ワン老師は「それは良かった」と朗らかに笑った。
「では、稽古を再開しよう。明日の朝から公園で」
「はい。お願いします」
俺は椅子から立ち、包拳礼をした。
家に戻り、俺はワン老師から貰ったチャンの為の煎じ薬を小鍋で煮だしていた。部屋の中に生薬の特有の匂いが広がり、煮詰められた黒い色に思わず顔を顰める。
「これ、凄い匂いだな……」
俺の声に反応して、食卓の椅子の上で丸くなっていたリリーが小さく鳴く。すっかりリリーは、我が家のように寛いでいる。
「なあ、この中に砂糖とか混ぜた方がチャンも飲みやすいんじゃないかな。どう思う?」
くあっ、とリリーは我関せずといった具合に欠伸してみせ、俺は「興味なしかよ」と肩を竦める。
その時、玄関先で人の気配がし、俺は火を止めて振り返る。
「チャン……」
言い掛けて、ぎくりと身体がすくむ。そこに立っていたのはチャンではなかった。
「どうして、ここに……!」
俺は咄嗟に小鍋を掴んで、仁王立ちした
「リリー、隠れろ!」
驚いたリリーは、脱兎の如く寝室へ消えていく。
沸騰した煎じ薬をかぶった豚野郎だったが、ラバー製のマスクに黒いローブで身を包んでいるので、大した攻撃にはならない。
もうもうと煎じ薬の蒸気が立ち込め、俺は小鍋とフライパンを掴んで、豚野郎の元に踏み出す。同時に豚野郎が両手に
くそっ、柳葉刀を出されたら、こっちの分が悪い……!
内心焦りつつ、先手必勝で小鍋を相手の首筋に打ち込もうとする。しかし、柳葉刀の刃がそれを受け、同時にもう一本の鋭い刃が遠心力を活かして、素早く俺の首を狙って斬りつけられる。
俺は大きく背中を反らしてそれを避け、鋭い刃に自分の顔が一瞬、映りこんだ。体勢を整えた刹那、間髪入れずに豚野郎の回し蹴りが繰り出され、それをフライパンで受け流す。
そのまま攻撃の隙を与えずに、こちらに背を向ける格好となった豚野郎の背部に小鍋を数回、叩き込む。ドムッドムッ、と鈍い音が響き、確かな手ごたえがあったが、豚野郎は一瞬床に這いつくばった後、勢いよくこちらに振り向きざまに、柳葉刀を投げつける。
鋭い刃がこちらに矢のように向かって来て、俺はそれをフライパンで打ち返す。一瞬の火花とカンッという派手な音と共に壁に突き刺さり、その隙をついて豚野郎が力強く床を踏みつけて、こちらに大きく踏み込んでくる。
まさか、
ドンッという鈍い衝撃と共に、俺の身体は吹っ飛ばされて、食卓の上に落下する。フライパンと小鍋が手を離れ、衝撃で食卓の脚が全て折れて天板もろとも床に叩きつけられる。
こいつ、八極拳の遣い手か!? 肋骨が折れていない事を確認しつつ、息苦しさに呻きながら、再び構えようと立ち上がったのと、銀色の光が目の前を走ったのは同時だった。
すぐさま妙な熱さが胸元を走り、次の瞬間、血しぶきが床に散った。
「く、そ……!」
斬られた……! 気が遠くなりそうになるのを堪えつつ小念頭で構えたのと、こちらに攻撃を仕掛けようとした豚野郎が横ざまに吹っ飛んだのは同時だった。
「ラウ!」
チャンの力強い飛び蹴りを食らって、豚野郎が床に転がる。しかし、豚野郎は勢いをつけて立ち上がり、チャンの首もとに柳葉刀を突き刺すようにする。しかし、チャンはそれをひょいとかわして、隙が出来た胸元に鋭い
チャンの攻撃は流石に応えたらしく、豚野郎はよろめきながら、持っていた柳葉刀を投げつける。チャンがそれを避けたのと同時に、豚野郎は身を翻して玄関へと走り去った。
刹那、ふっと足から力が抜けて、俺は床に倒れ込む。
「ラウ、しっかりしろ!」
妙に寒気がする。倒れた身体が掬い上げられ、重くなった目蓋を上げる。チャンが珍しく、慌てたように何度も俺の名を呼んだ。
「チャン……」
「駄目だ、ラウ、気を失うな……!」
「お、れ……死にたく、ない……」
じわりと涙で視界が曇り、目の前に迫る死の気配に、縋るようにチャンのスーツの胸元を掴む。チャンがその手を包むように握り返し、ふいに視界に抜けるような青空が広がった。
違う、これは青空じゃなくて……マックスの瞳の色だ……
意識が途切れそうになった瞬間、マックスが微笑みながら俺に向かって手を差し出す。力の入らない腕を何とか上げて、彼の手を握ろうとする。
「……ック、ス……」
そのまま俺の意識は闇の中に沈んでいった。
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