第八話 温かな手

〔8〕


 掛けられた衣服を掻き分け、高身長のマックスは身を屈めた姿勢でクローゼットに収まり、俺はその隙間に落ち着く。マックスが低く呻いた。

「せ、狭い……」

 上背のあるマックスには窮屈だろうが緊急事態だ、我慢してもらうしかない。俺は人差し指をマックスの唇に当てて声を立てないように促し、耳をそばだてる。

 どうやら部屋に入って来たのは、二人らしい。

「まったく、猫の次は首輪だなんて、やってらんねえよなあ」

「まあ、大ボスの愛猫だって噂だし、しょうがねえだろ。お、煙草があった。一本、いるか?」

「いるいる。一休みしようぜ」

 ごそごそと家探しする音が止んだ。一休みも何も、まだ何もしていないだろう。思わず呆れて溜息が出る。

 それにしても、リリーはやはり13Kサップサンケイの関係者……こともあろうか、大ボスの飼い猫だったのか。

 大ボスと呼ばれる人物は13Kサップサンケイを組織するショイ……つまりは、グループの一つである『応竜インロン』の創立時に関わった人物だという。

 チャンが所属する、九龍地区を取り仕切る『応竜インロン』の当時の首領……香主ジャンシュとは昵懇の仲で、応竜インロンを大きくした立役者だと聞く。

 おまけに、13Kサップサンケイという組織を統べるトップ、現在の龍頭ドラゴンヘッドとも長い付き合いなのだという噂まである。

 すでに彼は引退したが、未だに組織内での影響力があるらしい。

「それにしても、チェリーに続いてメイまで殺されちまって……大打撃だよな」

「ほんと、あんな良い女を殺っちまうなんて、勿体ねえよなあ。そういや、三番手だったヴィッキーが早速、チャン兄貴に媚びてたぜ?」

「へえ……でも、兄貴はそういう女は嫌いだろ」

「そうそう。冷たく、あしらってたぜ。それに、兄貴はラウにぞっこんだろ」

 なんで、俺の名前が出てくるんだよ……思わず額を覆ってしまう。

「ラウかあ……俺、そっちの気はねえけどさ、そこらの女より綺麗な顔してるもんなあ」

「兄貴がくらっときちまうのも分かる気がするよな。なあ、もしさあ、ラウに迫られたら……どうする?」

 出来る事なら、今すぐに飛び出していって、一発ずつぶん殴ってやりたい。俺の殺気に、マックスが宥めるように肩に手を置く。

「そこは……なあ?」

 ウヒヒと二人が馬鹿丸出しの笑い声を上げ、ようやく腰を上げる気配がする。

「えっと、何を持っていくんだっけ?」

「デザイン画だよ、刺青の」

「ああ、そうだった。俺、こっちを確認するわ」

 そう寝室に手下の一人が入ってきて、クローゼットの中に緊張が走る。ルーバー扉から覗けば、手下は煙草を唇に挟みつつ、寝室をきょろきょろと見回していたが、こちらに近付いてきた。

 よし、こいつがもしクローゼットを開けたら、その瞬間に攻撃を仕掛けて昏倒させよう。

 呼吸を整えていると「おうい、あったぞー」ともう一人の声がした。

 その声に、手下が寝室を出て行き、ほっと緊迫した空気が緩む。

「結構あるな」

「だな。ともかく持っていこうぜ」

 暫し、がさがさと物音をさせていたが、玄関先へと二人の足音が移動する。ドアが軋みながら、閉まる音がし、俺達はほっと溜息をついた。

「あいつらめ……」

 思わず怒りで拳を固めながらクローゼットを出る。マックスは「ううう、身体が軋む」と首筋を揉みながら、ふと悪戯っぽく笑みを浮かべた。

「今度、同じような状況になったら、俺はベッドの下に隠れるよ」

 確かにベッドの下なら、身体を縮こまらせる必要はないだろう。俺は肩を竦めてみせる。

「それは、名案だね」

「あの二人の無礼な発言は、気にしない方がいいよ」

「気になんてしちゃいないよ。手下の中には、俺がチャンを誘惑して取り入ったなんて言う奴もいるし」

 誘惑だなんてとんでもない。チャンが他の誰かに惑わされて心変わりするなら、それはそれで助かるってもんだ。

 やれやれとベッドの端に腰を下ろし、筋肉をほぐすように伸びをするマックスを見やる。

「チャン達もチェリーの刺青の事を調べているのかな?」

「おそらくそうだろうね。とはいえ、彼らは一冊が抜けている事には、気付かなかったようだけれど」

「まだ、豚人間ピッグマンの存在は知られてないのかな」

「多分ね。彼らの元に渡る前に、祈る手のデザインが確認できて良かった」

 手下が外にいないのを確認し、俺達もアパートを出た。ふと、マックスが何かを思い出したように、こちらに顔を向ける。

「そういえば、刺青を入れた人を被写体にする写真家が香港にいる事が分かったんだ」

「もしかして、その人がチェリーの写真を撮っているかもしれない?」

「確証はないけれどね。訊いてみる価値はあると思う。実は今夜、彼と会う約束をしているんだ」

 マックスの行動力に驚いていると、彼が微笑む。

「ラウ、きみも一緒にどうかな?」

「会うって……九龍城砦の外だよね?」

「そうだね。尖沙咀チムサーチョイにあるレストランで会う予定なんだ」

 自分の顔が曇るのを感じながら、俺は弱く首を横に振る。

「ごめん……俺は行けないよ。九龍城砦から出る事は出来ないんだ」

 マックスがハッとしたように目を瞬かせる。

「どうして、出られないんだい?」

「そんなの、チャンの目があるからに決まっているだろ。チャンに黙って家を空けたら、それこそ俺を首輪で繋いで、未来永劫、部屋から出られないようにするはずだよ」

 思わず吐き捨てるように言う俺に、マックスは小さく吐息した。

「ラウ……俺がきみ達の関係に口を出すのは憚れるけれど、これだけは言わせてほしい。ラウ、きみが望めば、きみはどこにだって行けるんだ」

 そう両肩に手を置かれ、俺を真っ直ぐ覗きこむ。真剣な青い瞳に、ぎゅっと心臓を掴まれたような気がして、その視線から逃れる。

「……無理だよ。あんたは何も分かってない」

 そう、俺とマックスではそもそも住む世界が違うのだ。俺はそっと肩に置かれた彼の手を外す。相変わらず温かくて大きな手……

 ふいに涙腺が緩みそうになって、それを悟られないように下を向く。

「俺、マックスの手が好きだよ」

「え?」

「ああ、誤解はしないで。そういう意味じゃなくてさ……あんたの手は、望むもの全てを掴めそうな気がする……」

 自分でもどうして、こんな事を話しているのか分からずに俯くと、マックスの手が俺の手を握った。ぎょっとして顔を上げると、彼は柔らかく微笑んでいた。

「俺にそんな力があるかは分からない。でも……ラウがもし、外の世界に踏み出したいのに、それでも躊躇していたら……きみの一歩の為に、その手を引き寄せる事なら出来るかも」

 言葉を失う俺に、マックスが俺の手を持ち上げ、もう片方の手の平で包み込むようにする。

「だから、いつでも言ってほしい」

「……ありがと……」

 そんな日は来ないと分かりつつ、泣きそうな顔に何とか笑みを浮かべ、彼に頷いた。

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