第七話 首輪

〔7〕


「はじめて食べた時、パイナップルが入っていないことに驚愕したよ」

 マックスが世界情勢について語っているかのような真剣な瞳を俺に向ける。

「しかし、この菠蘿飽パイナップルパンというのは、その黄色い見た目がパイナップルに似ているからそう呼ばれているんだね」

 そう彼は菠蘿飽パイナップルパンを一口かじり、途端にその顔を蕩けさせた。

「美味い……! バターの香りに、表面のサクサクとしたクッキーの生地……完璧だ! シャムさん、最高の菠蘿飽パイナップルパンをありがとう! 美味しいです!」

「喜んでもらえて、光栄だね」

 厨房からシャムの面倒くさそうな声がし、マックスは「香港で一番の菠蘿飽パイナップルパンだ」と心の底から感動している様子だ。

 俺は紅茶とコーヒーを混ぜた鴛鴦茶えんおうちゃの入ったカップを傾け、マックスに切り出す。

「リリーの事なんだけど」

 マックスがハッとしたように「あれから具合はどうだい?」と身を乗り出す。

「すっかり元気だよ。餌も残さず食べたし、今頃は部屋で寝ているんじゃない?」

「まだ、きみの部屋にいるの?」

「うん。実は……」

 首輪の話をすると、マックスは目を丸くした。

「確かにリリーの首輪は、猫に付けるには上等というか……高価そうだったよね」

「うん。チャンが話しているのを訊いたけど、百合の模様が彫られた飾りの部分はプラチナで出来ていたらしいんだ」

 マックスは熱奶茶ホットミルクティーの注がれたカップ片手に、記憶を辿るように視線を巡らせた。

「確か……伍圓5ドル硬貨くらいの大きさだったよね」

「うん、それくらいの大きさだった。今にして思えば、随分と手の込んだ彫刻が施されていたかも。豚人間ピッグマンは首輪が目的でリリーを襲ったんじゃないかな」

「チャン達も慌てて探すくらいだからね。それだけ価値がある、ということなんだろうけれど……」

 マックスが難しい顔で首を傾げ、俺も相槌を打つ。

「そうなんだよ。プラチナだから高価なのは分かるよ。でも、チャン達の様子を見ていると、もっと違う意味の価値があるんじゃないかって思えてくる」

「そして、豚人間ピッグマンはその価値を知っている……」

 自然と声を潜めつつ、頷き合う。ふと、マックスが思い出したように、カメラバッグから写真を取り出し、テーブルに乗せる。

 それは丁度、豚人間ピッグマンがリリーを空に放り投げた瞬間のものだった。

「昨日、咄嗟にカメラを構えて気づいたんだ。これは、その部分をフォーカスしたものなんだけれど、ここを見て」

 そう彼がフォトルーペを写真の上に置き、拡大されたそれを確認する。それはローブからはみ出した豚野郎の腕で、その上腕には墨絵のような黒の濃淡の模様があった。

「これって、刺青だよね? 手のデザインかな。左右の手を合掌して……ロザリオが絡んでるっぽいね」

「プレイングハンドというらしいよ」

「祈り手、ってこと?」

「うん。チカーノタトゥーという、ギャング独自のデザインらしい」

 祈り手……これが信仰心を意味しているのだとしたら、アンディの礼拝所に通っていてもおかしくはない。

「このタイプの刺青は、ちょっとこの辺りでは見ないな」

 九龍城砦のギャングや秘密結社の連中が彫っているデザインとは、少し種類が異なっている気がする……そう言うと、マックスも胸の前で腕を組む。

「この刺青がいつどこで彫られたのかは不明だけど、ヤオさんの所で彫った可能性はゼロではないよね」

「念のため、ヤオの所に記録がないか確認しに行こうか」


 ヤオの店舗兼住居のアパートで、俺たちはスケッチノートを一冊ずつ確認していく。

 マックスが一ページずつ目を通しながら、感嘆の吐息を漏らす。

「前回に見た時も思ったけど、ヤオさんは、かなり事細かに記録していたんだなあ」

「うん。まるでカルテみたいに、依頼内容の詳細が記録されているね」

「彼の職人としてのプロ意識に感謝しないと……」

 依頼人の名前や日付、どういった内容のデザインを依頼されたか、刺青を彫るまでの経緯までが記載されている。

 ふとページを捲り、俺は小さく声を上げる。肩口から胸に彫られた、上腕まで絡みつく龍のデザイン……名前を確認すれば、やはりチャンのものだ。

「もしかして、祈り手のデザインが見つかった?」

 マックスに訊かれて、俺は少し面映ゆい気分を噛みしめながら頭を横に振る。

「ううん……チャンのデザインがあったから……」

 肩口から胸の辺りに掘られた眼光鋭い龍は、すでに見慣れたものだ。だが、彼に組み敷かれた時、たまに龍に睨まれている気がして、落ち着かずに目を伏せてしまう事がある。

 デザインの下には『望むままの力を手に入れられるよう、願いを込めて』とメモのように走り書きされている。

 龍は権力の象徴でもある。野心家のチャンらしいデザインだ。秘密結社でのし上がっていくのが、この刺青の意味する望むままの力なのだろうか?

「チャンには豚人間ピッグマンの事は話したのかい?」

 マックスの声に沈んでいた思考から引き上げられて、俺は顔を上げる。

「いや、話していない。言ったら最後、余計な事はするなって、激昂されるのが火を見るよりも明らかだし」

「……そうか」

 マックスが溜息と共に頷き、それきり互いに無言のまま、デザインノートの確認に戻る。

 暫くして、その沈黙をマックスが破った。

「ラウ、ちょっと……これを見て」

 ページを覗き込むと、そこには祈り手がスケッチされていた。

「これ、豚野郎と同じものだ……!」

「うん、でも何個か違うパターンが描かれている」

 マックスの言うとおり、祈り手のデザインはかなり事細かに指定されていたらしい。デザインの下には走り書きがあった。

「ある人物と同じ柄にしたいとのこと、か。どうりで幾つも描かれている訳だ」

「誰とお揃いにしたかったんだろうね。施術の日付はおよそ四カ月前か……最近、来たということだね」

 俺はハッとなって氏名の欄を確認する。しかしそこには「X」とだけあった。

「この氏名欄のXっていう表記は、俺が確認していたノートにも二、三あった。おそらく、客が氏名を明かさなかった時に使っていたんだろうね」

「せめて、名前だけでも分かれば良かったけれど」

 マックスがデザイン画を写真に収めながら呟き、俺も落胆しながら頷く。

 その時だった。玄関先で物音がし、俺たちはハッと顔を見合わせた。

 誰か来た……! 互いに目配せし、急いでノートを書棚に戻す。足音がこちらに近付き、俺達は咄嗟に寝室へと隠れる。

「まったく、首を撥ねられるなんてよお、最悪だよなあ」

「だよな、おまけに豚の頭とすげ替えられるんだぜ?」

 マズい、この声はチャンの手下達だ……!

「どうする!?」

 マックスが声を潜めて言い、部屋の隅にクローゼットがあるのに気づき、咄嗟に彼の腕を引っ張る。そのまま彼を中に押し込み、俺も中に身を隠した。


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