第六話 豚人間

〔6〕


 不気味な豚人間ピッグマンは、こともあろうか掴んでいたリリーを天高く放り投げる。リリーの身体は、綺麗な放物線を描き、俺は走るスピードを上げる。

 それと同時に豚人間ピッグマンは、黒いローブをはためかせて、入り組んだ細い路地へと逃げ去っていった。

 白猫の悲鳴じみた鳴き声が響き、その身体が地面に叩きつけられる前に、間一髪で腕の中にキャッチする。

「リリー! 大丈夫か!?」

 リリーは身体を丸めた状態で小刻みに震えており、おまけにその首に血が滲んでいた。

「お前……怪我をしているじゃないか! もしかして、あいつにやられたのか?」

 あの豚野郎め、なんて酷い事を……!

「ラウ! 大丈夫かい!?」

「俺は平気。でも、リリーが……」

 マックスも走り寄ってきて、リリーの怪我に気付いて息を呑む。マックスがそっと傷口を確認する。

「少し刃物のようなもので切られたみたいだ。そこまで傷は深くないようだね。そうだ、ウォン先生のところで、治療はお願いできないかな?」

「たまにウォン先生のところに、飼い猫を診てもらいにくる住人がいる。応急処置ならしてもらえるかも。行こう」

 俺たちは急いでウォン先生の診療所へと向かった。


「豚の次は猫か……」

 怪我をした猫を至急診てほしいと駆けこんだ俺達に、ウォン先生は驚きと呆れを綯交ぜにしたような顔で呟いた。しかし、急患が九龍城砦で皆が捜しているリリーだと気づいて目を丸くする。

「この猫……あのお尋ね猫か!」

「うん。ともかく傷を診てあげて」

 処置室に通され、ウォン先生がぐったりしたリリーの耳を触る。

「うむ、熱は出ていないようだな。よし、リリーや、ちょっと傷を見せてごらん」

 リリーは、ウォン先生のなすがままに大人しく治療を受けている。

「可哀想に……よっぽど怖かったんだろうね」

 治療を受けるリリーを見守りながらマックスが呟き、俺は思わず眉間に皺を寄せつつ頷く。

 ウォン先生が消毒などを終えたリリーの頭を撫でながら、こちらを見る。

「縫うほどの傷の深さではないから、消毒と塗り薬でいいだろう。だが、骨折などがないかをレントゲンで撮っておくか。なんせ、13Kサップサンケイが血眼で捜している猫だしなあ」

 そうウォン先生は、リリーを抱えてレントゲン室に向かった。俺とマックスは部屋の隅に置かれた長椅子に腰を下ろした。

「あの豚野郎……リリーの頭を斬り落とすつもりだったのかな?」

「人間を殺害する前に、小動物を練習のように傷付ける快楽殺人者はいると訊くけれど……一体、何が目的であんなことをしたんだろう」

「しかも、あいつの姿……マックスも見ただろう?」

「うん。一瞬、本物の豚の頭かと思ったけど、精巧に出来たマスクを被っていたようだね」

 ふいに、マックスが思い出したように身を乗り出す。

「豚人間の姿を咄嗟に撮ったんだけど、その時に気付いたことがあって……」

 言い掛けた時、ウォン先生がリリーを抱えて戻って来る。

「あと数分でレントゲンが現像される。次はラウ、お前さんの番だ」

「え? 俺?」

 きょとんとする俺に、ウォン先生が自分の頬を指差す。

「それ、リリーに引っ掻かれたんじゃないのか?」

「そうだけど、こんなの大したことないよ」

「いやいや、動物の引っ掻き傷は感染症になる事がある。それだけじゃないぞ、綺麗な顔が化膿して崩れたらどうする」

 そう手招きされて、俺は彼に診てもらう。消毒液の染み込んだ脱脂綿が傷口にあてられ、ビクンと身体が揺れた。

「痛っ! ウォン先生、もっと優しくしてよ」

「消毒くらいで何を子供みたいに……リリーの方が大人しかったぞ」

 ウォン先生が笑いを滲ませつつ、傷口に塗り薬を乗せていく。

「化膿止めの軟膏を塗っておくぞ。あとは抗生剤を出すから、きちんと服用するように」

「分かった」

 医療用テープで傷口を覆い、ウォン先生はレントゲン写真を取りに部屋を出ていく。俺は治療台に丸まった白猫を見やる。リリーはどうやら眠ってしまったらしい。

 小さく上下する背中を撫でると、マックスに声を掛けられる。

 彼を見やったのと同時に、マックスがシャッターを切った。

「リリーを捕まえられた証拠写真」

 ワン老師にリリー確保を証明するために、白猫を捕まえた姿を撮って欲しいと頼んでいたのだ。

「ありがと。まあ、不本意な流れでの確保だったけどね……」

「でも、ラウのお陰でリリーは死なずに済んだのだから」

「そうだね。これで無事に飼い主の元に戻せるしね」


 よっぽど怪我が堪えたのか、それからリリーはすっかり大人しくなり、無事に部屋に連れて帰ることができた。

 嫌がるかと思ったが、前に飼っていた猫が使っていたペットキャリーにも大人しく納まり、小さく丸まる。

「あの豚野郎に殺されなくて良かったな」

 キャリーを覗きながら囁けば、リリーはぴくりと耳を動かし、一瞬だけ青い瞳をこちらに向けた。

「そういえば、お前の瞳……マックスにそっくりだな」

 青空のような瞳に、思わず笑みが浮かぶ。ふと、マックスと豚人間の事で会話が途切れていたのを思い出す。

「一体、マックスは何に気付いたんだろう?」

 明日、改めて訊いてみよう……そんな事を考えていると、玄関のドアが開く気配がした。帰る途中にチャンの部下であるホンがいたので、リリーの事を伝えておいたのだ。

「リリーを捕まえたとホンから訊いたぞ」

「うん……でも、ちょっと首のところに怪我をして、ウォン先生に診てもらったんだ」

 怪我という言葉にチャンは少し驚いたようだったが、慌てて「でも、軽い切り傷だけで、他は至って健康だって」と続ける。

「……そうか」

 少しホッとした様子でチャンがリリーを覗き込む。ふと、その眉間に皺が寄り、彼はキャリーからリリーを出した。

 リリーが暴れるんじゃないかと一瞬ひやりとしたが、チャンに大人しく抱え上げられ、それだけでなく甘えるように一声鳴いてみせる。

「お前、もしかしてハンサム相手だと態度が変わるのか。やっぱり性悪な雌猫だな」

 思わず低く呟く俺に、チャンは「こいつは雄だ」と俺を見る。

「……余計に性質が悪いよ」

 衝撃を受けつつムッとする俺に、チャンは「そんなことより」と少し険しい顔で言う。

「首輪はどこにある?」

 俺はハッとなってリリーを見やる。そうだ……俺が引っ掻かれた時には、その首にはベルベッドの首輪が確かにあった。

「……怪我をしていた時には無かった。その首輪、もしかして凄く高価なの?」

「リリーをどこで保護した?」

 豚人間と遭遇した路地を伝えると、チャンはキャリーにリリーを戻して立ち上がる。そのまま、彼は電話を掛け始めた。

「ホン、全員でリリーの首輪を探せ。そうだ……ブルーのベルベッドのリボン地に、百合の花が彫られたプラチナの円形の飾りがついたものだ。必ず見つけろ、いいな?」

 チャンのピリピリとした姿を見守りながら、豚野郎はリリーの首輪を持ち去るのが目的だったのではないかと気付いた。

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