第五話 対峙
〔5〕
「痛ぁっ!」
俺の悲痛な叫び声が狭い路地に響く。シャッターチャンスを狙っていたマックスが、構えていたカメラを下ろす。
「大丈夫かい!?」
一瞬だけ捕まえた憎き白猫は、俺の手が緩んだのと同時に路地に着地した。
「この、クソ猫!」
リリーは俺の罵倒に、全身の毛を逆立てて「フシャァ!」と唸り声をあげる。じりじりと一触即発の雰囲気で睨みあっていたが、リリーはふいっとそっぽを向く。そのまま、事態を見守っていたマックスの元へと駆け寄る。
「やあ、リリー」
リリーは、俺自身が捕まえるので手出し無用と宣言していた。なのでマックスは何もせずに、にっこりとリリーを見下ろした。すると、宿敵の白猫はこともあろうか、甘えるように彼の脛に身体を擦りつけたのだった。
「
再び飛びかかろうとすると、リリーは俊敏にそれを避けて、入り組んだ細い路地を走り去ってしまった。
地団太を踏む俺をマックスが朗らかに笑う。じっとりと睨めると、彼は慌てたように真面目くさった顔をして、ポケットから絆創膏を差し出す。
「ほら、頬の引っかき傷に貼って」
「顔は大事な商売道具だっていうのに……あの性悪猫め」
ぶつぶつ言いつつ、傷の場所が分からずにもたついていると、マックスが「貸して」と代わりに絆創膏を貼ってくれる。
「ありがと。あの性悪猫、次は絶対にとっ捕まえてやる……」
思わず怨嗟の声を洩らす俺に、マックスが小さく笑った。
「きみの殺気がリリーに伝わっているんじゃないかな?」
「俺は極めて友好的に、紳士的にリリーに接してきたつもりだよ。なのに、あの性悪ときたら、こうやって俺に爪を立てるんだ」
そう頬を指差すと、マックスは「相性が悪いんだな」と肩を揺らしてみせる。
「他人事だと思って。いいよ、好きなだけ笑えば?」
思わず口をへの字にすると、マックスは宥めるように俺の背中を軽く叩く。
「次があるさ。あれだけすばっしこいと、他の人もリリーを捕まえるのは難しいかもね」
「確かにね」
チャンの手下達も相当、手こずっているらしい。昨日、路地でチャンの忠実な部下であるホンが「これのどこが白猫だ!」と灰色の毛の野良猫を抱えてきた手下の頬を張っていた。
「汚れちまって、毛が灰色になったってことにしちゃいましょうよお!」と情けない声を上げる手下にホンがもう一発、平手をくらわせていた。
その様子を話すと、マックスが「彼らも大変だね」と同情するように眉を下げる。
「そういえば、昨日撮った写真を現像したんだけれど」
「ヤオの死体?」
マックスが頷いてカメラバッグから、写真を取り出す。豚の頭にすげ替えられた惨い姿に眉根が寄った。
「改めて見ると、その異様さに総毛立ったよ。豚の頭なんて、どこで手に入れるんだろう」
「ああ、それなら簡単だよ。魚肉団子や飴玉の加工場などが集まる一帯があって、そこに豚の丸焼きの工場もある。そこで盗めばいいんだ」
「なるほど。ホンを辱める為に準備していったのだとしたら、益々、犯人の異様さが際立つよ」
俺は、マックスの言葉を反芻しながら、昨日の記憶を手繰り寄せる。薄日の差す作業部屋、薄いベールのように立ち込める香の煙、そして、リリー……
俺はぎくりとして、マックスを見やる。
「居たんだ……」
「え?」
「あそこに、犯人……切り裂きジャックは居たんだよ」
マックスが目を見開き、俺は頷いた。
「香炉を見たけど、あの燃え具合から見て、火がつけられたばかり……せいぜい五分程度だったと思う。あれはヤオじゃなくて、犯人がつけたものだと思う。それに、半開きのドアだ。マックスがヤオの部屋に入った時に、ドアを閉め切ったよな?」
「ああ、錆が原因なのか開閉するのに、硬いドアだったんだ。だから、よく覚えている。確かに、きちんと閉めたよ」
「でも、リリーは微かに開いたドアの隙間から逃げていったんだ」
マックスがぎょっとこちらを見つめ、俺も頷き返す。
「玄関から入って、すぐのところに浴室があった。そこに身を潜めていれば俺達に気付かれないように外に出る事ができる。もしかしたら、お香は自分の気配を消す為……要は、沈香のにおいを上書きするためだったのかも……」
「そして、犯人が身を潜めていたから、浴室には沈香のにおいが残っていた。鉢合わせていたら、俺達も危なかったかもしれない」
「襲われなかった事に感謝するべきか……だが、切り裂きジャックに、俺達の存在が知られてしまったかもしれない」
マックスが現場写真を一瞥し、溜息をついた。
「次の標的にされる可能性も出てきたってことだね……」
「ああ。だからマックス、あんたは暫く九龍城砦に来ない方がいいかもしれない」
「いや、きみだけを危険に晒す訳にはいかない。俺も、切り裂きジャックの正体を知りたいんだ」
「それは、切り裂きジャックを記事にするため?」
新聞社に勤めているのだ。九龍城砦を跋扈する猟奇殺人鬼なんて、特ダネ級に面白いネタだろう。
しかし、彼は真剣な面持ちで首を横に振ってみせる。
「記事にするつもりはないよ」
マックスの青い瞳には強い光が浮かび、頑としたその様子に半ば諦めて吐息する。
「分かったよ。あんたに危険が及ばないようにするつもりだけど、いざってときは……」
「一目散に逃げる、が鉄則だろう? それに、俺だって自分の身は自分で守れるよ」
「そりゃ、心強いね」
皮肉っぽく言う俺に、マックスは心外だとばかりに片方の眉を器用に吊り上げる。表通りに通じる路を歩きつつ、マックスが思い出したように言う。
「そういえば、さっきラウが言っていた加工場の集まるエリアに行ってみないかい? 豚の頭部が盗まれた加工場の人から何か訊けるかも」
「そうだね、行ってみ……」
言いかけて、俺とマックスはぎくりと歩みを止める。俺達の行く先に、異様な人物が佇んでいたのだ。
「……
唖然とマックスが呟く。彼の言う通り視線の先には、頭部が豚で全身を真っ黒なローブで隠した人物が立っていた。
それだけでなく、奴はリリーの襟首を掴んでいた。急所を掴みあげられたリリーが弱弱しく鳴き、俺は声を張り上げる。
「リリーを離せ、この野郎!」
俺はそのまま、弾かれるように豚人間の元へと駆け出した。
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