第四話 十字架
〔4〕
「やあ、これはラウにマックスさん。こんにちは」
アンディが微笑みながらこちらにやって来て、俺の様子に小首を傾げる。
「ラウ? どうしたんだい?」
「あのさ、アンディのところで十字架のネックレスを手作りしていた事があったよね」
「ああ、去年のクリスマスに皆で作ったよ」
「あれって、香木を削ったんだよね?」
アンディはにっこりとしながら頷いてみせる。
「そうそう。
そう、あれは沈香の匂いだった。おまけに、その匂いはチェリーの遺体を発見した時も、微かに漂っていたのだ。
「ラウ、顔色が悪いよ。さあ、椅子に座って」
顔を強張らせる俺をマックスが椅子に促し、アンディが心配そうに俺を覗き込む。
「ラウ、大丈夫かい?」
困惑したアンディに、マックスが空いた椅子をすすめる。
「実は、彫り師のヤオさんが何者かに殺されてしまいまして……」
信じられない、と瞠目するアンディにマックスが経緯を説明する。彼は強張った面持ちで俺達を見つめた。
「なんて惨い事を……だが、それと沈香の十字架と何か関係があるのかい?」
「実は、沈香の匂いが現場で漂っていたんだ。ヤオの所だけじゃなく、チェリーの遺体を発見した時も同じ匂いがしていた」
俺の言葉に、マックスとアンディが目を瞠る。とりわけ、アンディは衝撃が大きかったようで「そんな……」と言葉を失ってしまった。
アンディが首から下げていた銀の十字架を握り、気分を落ち着かせるように吐息する。
「アンディ……大丈夫?」
「あ、ああ……ちょっとショックで……」
強張った顔にアンディが弱く笑みを浮かべて俺に頷き、ふと何かを思い出したようにこちらに顔を向ける。
「しかし……沈香の十字架は、礼拝所に通う方だけが持っているわけじゃないよ」
目顔で問う俺達に、彼は軽く頷く。
「沈香の十字架は評判が良くて、その後、礼拝所のバザーに出品しているんだ」
「それは、幾つくらいですか?」
「おそらく、三十個くらいは、あったかと……」
「なるほど。犯人は、そのバザーで購入した可能性もあるのですね」
アンディが悲し気に目を伏せ「あくまでも可能性の一つですが」と頷く。
「あの、アンディ……こんな事を訊くのは躊躇われるけれど、麻薬中毒患者の更生プログラムを受ける者で、猟奇的な妄想や過激な言動をしている奴はいないかな?」
アンディは哀しげに首を横に振って、少しずれた眼鏡を押し上げる。
「確かに麻薬が原因の幻聴や幻覚に悩まされて、過激な言葉をわたし達にぶつける者もいるよ。決して、こういったことは珍しい事じゃないんだ」
「そうだよね……もし、何か思い出したら、俺に教えて」
アンディは、ぎょっとしたように身を乗り出す。
「まさか、きみ達は犯人を捜しているのかい? そんな危険な事……」
「このままじゃ、九龍城砦で犠牲になる人が増えるかもしれない。野放しになんて出来ないよ」
これ以上、九龍城砦内で好き勝手にさせるわけにはいかないのだ。
「どうか、無理はしないで」
そう祈るようなアンディの言葉に、俺とマックスは厳粛に頷いた。
夕方。マックスと別れて家に着くと、途端にどっと疲れが出てしまった。着替えようと寝室のドアを開けて、ぎくりとしてしまう。
ベッドにはチャンが仰向けになり、静かに寝息を立てていた。こんな時間に家にいるなんて珍しい……よっぽど疲れていたのか背広だけ脱ぎ、ネクタイは緩められ、ワイシャツのボタンが数個外され寛げられている。
俺はそっとベッドの端に腰を下ろす。暗がりに浮かぶ彼の寝顔は、覚醒している時より険がない。いつも後ろに流してセットされている黒髪は少し乱れて、一筋だけ額に垂れている。
チャンは、いつも鼾も寝言も一切なく静かに眠る。それこそ死体のようで、真夜中に目が覚めた時に、彼の呼吸を確認してしまう事があった。
チャンとお前さんは似ているよ……ふいに、ワン老師の言葉を思い出す。
正直、ワン老師の言葉の意味は全く理解できなかった。俺達は、どちらかというと正反対の性質だと思う。
ふいに、チャンが小さく咳をし、俺は静かに身体を横たえて彼の胸に耳を寄せる。
さあさあと小雨の降るような音がし、ゆっくりと目を閉じる。
今度、ワン老師から煎じ薬を貰ってこよう。そんな事を考えていると、チャンの腕が俺を抱き寄せるようにする。
「もう帰ったのか……」
眠気の滲ませた声は、どこか優しい。
「うん。今日は早かったんだね」
「猫探しに殺人鬼……うんざりだ……」
それ以上、言葉はなく、チャンは再び眠りの中に滑り込んだようだ。つられるように、俺もとろとろとした眠気に誘われ、重くなった目蓋を閉じた。
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