第二話 白猫リリー
〔2〕
「九龍城砦の建物の建築に関わった人に訊いたんだけどね」
マックスが真面目な顔をして、違法に増築されたビル群をカメラに収める。
「九龍城砦のビルは、元々は三階から四階の建物の上にブロックを乗せるように増築したそうだね」
「ふうん」
俺は生返事をしながら、道に猫の姿がないかを確認する。
「驚くことに、杭打ちをしていないそうだね。それでも倒れないのは、建物が互いに寄り掛かって支え合っているからで、中国で昔からある方法なんだそうだね」
「恋人同士の建物、って言うんだよ」
俺は辺りに用心深く視線を走らせながら呟く。マックスが不思議そうに首を傾げた。
「傾き合っている建物の事を、九龍城砦の住人の間はそう呼ぶんだ」
「へえ! それは、なんだかロマンチックな愛称だね」
「そう? 一つの建物が倒壊したらドミノ倒しみたいに全部、倒れるんだけどね」
マックスが「ううむ」と低く呻くような声を出し、俺は改めて彼を見つめる。
「ビルなんか撮って、面白い?」
「面白い、というか……住人の皆さんの逞しさを感じられるよ」
そう彼が目を細めて違法建築のビル群を見上げる。バルコニーには鳥籠のような格子が取り付けられ、干された洗濯物や、植木鉢等が置かれている。それに混ざるように錆びついた歯医者に看板もあり、それだけでなくテレビケーブルが張り巡らされて屋上の大量のテレビアンテナに繋がっている。
俺にとっては見慣れた風景なので、マックスの言うような逞しさを感じる事はない。だが、何やら感動しているのに、水を差す事もないだろうと適当に相槌を打って、猫探しに戻る。
「あの……ラウ?」
「うん?」
俺は「
「さっきから、何をしているんだい?」
「ああ……気にしないで。猫を探しているだけだから」
マックスが「猫?」と青く澄んだ瞳をぱちくりとさせたが、何やら思い出したらしく頷いてみせる。
「最近よく見る、あの貼り紙の猫の事?」
「うん。白猫のリリーね。といっても、謝礼目当てじゃなくて、宿題なんだよ」
マックスは、益々解せないといった面持ちになり、俺は軽く肩を竦めてみせる。
ワン老師から渡された紙は、迷い猫の捜索の貼り紙だった。ここ数日、同じ貼り紙をあちこちで見かけていた。
白い毛で青い瞳、そして飾りのついたベルベッドの首輪をしている……貼り紙を見る限り、九龍城砦の住人の猫ではないような気がする。
九龍城砦にはネズミ対策に猫は沢山いるが、お尋ね猫のリリーは、それこそ血統のしっかりした飼い猫なのではないだろうか。
無事に保護できたら謝礼あり、の文言に九龍城砦の子供達が……いや、大人たちも暇さえあれば白猫を探している。
そして、このリリーの捜索の紙は、チャン達……
「そもそも、チャンの関係者の飼い猫なのかも……」
思わず溜息交じりに呟くと、俺に倣ってリリーを探すようにきょろきょろしていたマックスが首を傾げた。
「ともかく俺は、リリーを捕まえないと、稽古をつけて貰えないんだ」
「どういうこと?」
俺は詠春拳の師匠、ワン老師から猫を探をするように言われた事を説明する。途端にマックスが目を輝かせ、俺は訝る。
「そういえば、ユアンに反撃した時のきみ、とっても格好良かったよ! カンフー映画みたいだった!」
そう彼が「ヤー!」と滅茶苦茶な構えをしてみせ、呆れてマックスを見つめる。
「九龍城砦の住人は、護身術として武術を身に付けている者が多いんだよ。俺は基礎をかじったくらいで、大したことは無いよ」
「もしかして、稽古を再開するのは、切り裂きジャックと関係している?」
「まあ、それもあるけど……ユアンに襲われた時に、一瞬、反撃が遅れたのが悔しかったんだ」
ユアンが武術経験者じゃなかったから良かったものの、もし手練れだったら、最悪殺されていただろう。
「切り裂きジャックといえば、チェリーの刺青の事も謎のままだったね」
「それなら、彼女に刺青を入れたという、彫師の元を訪ねてみようと考えていたんだ」
「一緒に行ってもいいかい?」
「いいけど……
光明街は売春宿の立ち並ぶ、麻薬中毒患者がうろついているところなのだ。そう説明すると、マックスは「カンフーマスターのラウと一緒なら心強いよ」とにっこりとしてみせる。
「いや、俺はカンフーマスターじゃないし、いざってときは一目散に逃げる。それが鉄則だ」
逃げ遅れたら置いていくよ? そう付け加えると、マックスは非常に情けない面持ちになった。
九龍城砦で唯一の彫師、ヤオの腕は中々のものらしい。外から彼に刺青を入れてもらいにくる客も多いらしく、九龍城砦内のギャングや秘密結社のメンバーの殆どは彼に施術して貰うのだ。
そんな事をマックスと話しながら
昼間なので客引きする娼婦や男娼もあまりおらず、道の端でラリっている麻薬中毒者はいるが、こちらに目もくれずにぼんやりと虚空を見つめていた。
売春宿の立ち並ぶ路地を抜け、奥まった場所にヤオの住居兼店舗はあった。十三階建ての古いアパートの一室で、看板などは一切ない。
五階にあるヤオの部屋の二重ドアを挟むように、左右には『迎喜迎春迎富貴』と『平安二字値千金』と金文字で書かれた赤い札が貼られていた。
「話を訊けるといいね」
マックスの言葉に頷きながら、二重ドアになっている格子の鉄門を叩く。しかし反応はなく、俺達は顔を見合わせる。
「留守かな……」
朱塗りの鉄門は施錠されておらず、その奥の木製の扉をもう一度ノックする。しかし、やはり反応は無く、思い切ってドアを開ける。
「ヤオさん?」
部屋の中には、ラジオだろうか。広東オペラが小さく流れており、俺達は部屋の奥へと向かう。
室内には香が焚かれており、白く煙が靄のように漂っている。
「すみません、ちょっとお話を……」
マックスも声を掛けながら、作業部屋を見回して、口を噤む。部屋に充満するお香の匂いと混ざっている生臭さに、俺の顔も強張った。
それだけじゃなく、作業デスクに腰を下ろしていた人物を俺達は呆然と見つめる。
「マックス、これって……」
「ああ、すでに事切れているね……」
俺は一瞬、ヤオがふざけてマスクを被っているのかと思った。しかし、そうではなかった。
それはマスクではなく、どう見ても本物だった。
彼の頭部は豚の生首にすげ替えられており、ヤオの切り離された頭部は、刺青を入れるための器材が並んだデスクの上、丁寧にもステンレスバットの中にこちらを向いて置かれていた。
その時、デスクの傍を白い影が素早く姿を見せ、俺はハッと目を瞠る。それは一匹の白猫で、そのまま玄関へと走っていく。
真っ白な毛と青い瞳、そしてコイン大のシルバーの飾りのついた首輪……間違いない、リリーだ!
「リリー、待て!」
俺は反射的にリリーを追いかける。しかし、白猫はドアの隙間を抜けて、外へと逃げてしまった。
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