第二章 猫は見ていた。

第一話 ワン老師

〔1〕


 朝、六時。

 俺は、老人街ロー・ヤン通りのアパートに囲まれた小さな公園を訪ねていた。公園には、朝日を浴びながら太極拳をする老人達がおり、目当ての人は隅にあるベンチに腰を下ろしている。

 彼は煙草を唇の端に挟み、足元に集まる何羽もの鳩に豆を落としている。俺は、鳩に餌を与える彼の前に立つ。

「ワン老師」

 俺は、拳にした右手を左手で覆って包拳礼をする。彼は皺の刻まれた顔に柔らかく笑みを浮かべた。

「ラウ、久しぶりだな」

「はい、ご無沙汰しています」

 ワン老師は、煙草を燻らせながらゆったりと足を組んだ。

「娼婦殺しの犯人を捕まえたらしいな」

「ええ……」

 薄く笑むと、彼は全てを見透かしてしまいそうな、静かに澄んだ瞳でじっと俺を見つめる。

「もしや、稽古をつけてもらいたくて来たのかな」

「ええ、実はそのつもりで伺いました」

 ワン老師には、小さい頃からお世話になっていて、十代の頃には詠春拳の手ほどきしてもらっていたのだ。男娼になってからは、彼の元を訪ねることが徐々に無くなり、今じゃ、すっかり足が遠のいていた。

「実は、犯人に襲われた時に、隙をつかれてしまって……」

 ワン老師は「ふむ」と俺の全身に視線を走らせる。

「あの頃に比べて、筋肉が落ちたようだな」

 彼は、傍らに置いていた袋から鳩豆を掴む。

「では、これを避けてご覧」

 そう、こちらに豆を弾く。驚くべき速さで豆がこちらに飛んできて、俺は問手マンサオで構えて身体を捻る。次々と弾丸のように飛んでくる豆を間一髪、何とか避けきる。

「次は掛槌裏拳で」

 ヒュッ!と鋭い音をさせて飛んでくる豆を掛槌裏拳で打ち払う。

「次は、蹴りだ」

 そう連続で豆が飛んできて、俺は回し蹴りでそれを受ける。刹那、何やら気配を察したらしい鳩が、驚いたように一気に飛びはじめる。

 バサバサと羽ばたく鳩の隙間をぬって、容赦なく豆が数個、同時に飛んでくる。

 蹴りだけじゃ間に合わない……! 横拳フックで打ち、残りは空中で身体を回転させ、薙ぎ払うように蹴りで落とす。

 着地した瞬間、ピシンと額に一つの豆がぶつかった。

「痛っ!」

「思ったより、反射神経は落ちていないな」

 ワン老師が、そっとベンチを叩いて隣に促す。俺は腰を下ろしつつ、溜息をついた。

「スピードがあの頃より、数段落ちた気がします」

「及第点といったところかな」

 ワン老師が目を細めて細く煙草の煙を吐き出す。

「チャンは元気かね?」

「ええ、相変わらずです」

「そうか」

 チャンも十代の頃に一時期、ワン老師の弟子だったらしい。

「九龍城砦では、武術を身に付けている者が多い。しかし、武術は喧嘩の道具ではない。あくまでも自分の身を、あるいは大切な者を護る為のものだ」

「……ええ」

 そんなワン老師の教えに反発し、チャンは彼の元を離れてしまった。

「彼には、八極拳の方が肌にあっていたんだと思います」

 結局、チャンが身に付けたのは、八極拳という一撃必殺の非常にパワーのある武術だった。それだけでなく接近戦を得意とする八極拳と相性の良い、遠距離戦を得意とした劈掛拳ひかけんも習得しているのだ。

「あの子は、少年時代には飢えた狼のような目で、ギャング連中と喧嘩ばかりしていたよ。血を流すことで生きているのを実感しているようだった。そのまま秘密結社のメンバーになるとは思わなかったがね」

 ふと、ワン老師がこちらに微笑んだ。

「チャンとお前は似ているよ」

「えっ!?」

「チャンも、ラウと同じく麻薬で両親を亡くしているし……そして、その瞳」

 そうワン老師が、俺の目元をそっと撫でる。

「チャンは、お前に自分を重ねる事があるのだろう」

「彼は、俺に苛つくことが多いみたいですが……」

「不器用だな。二人とも」

 こんな話になるとは思わなくて、狼狽する俺にワン老師はゆっくりと頷いた。

「優しくしてやりなさい。そうそう、チャンはこの時期に喘息が出やすい。よく効く煎じ薬を用意しておこう。今度、わたしの元に取りにおいで」

 ワン老師は、九龍城砦で一番の腕を持つ漢方医でもある。

「分かりました。あ、あの……それで、稽古は……」

 ワン老師は思い出したように、頷く。

「猫を捕まえてご覧」

「え?」

 目を瞬かせる俺に、ワン老師は一枚の紙をこちらに差し出した。

「きっと、よい鍛錬になる」

 そうワン老師は、にこにことしながら再び鳩に豆をやりはじめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る