第十話 新たな謎

〔10〕


 早朝の屋上は静けさに包まれ、少し冷たい空気に、細く吐き出した紫煙が溶けていく。

 ビーチチェアに寝そべりながら、静謐な朝の空を見上げる。体勢を変えようとして、腰に鈍い痛みが走り、低い呻き声が漏れる。

「ラウ」

 ぎょっと首を回らせれば、そこにはマックスが立っていた。

「ど、どうして、ここに?」

 思わず腕時計を確認するが、当然いつもの待ち合わせ時間より大分早い。マックスは隣に置かれたビーチチェアにこちらに身体を向けて腰を下ろした。

「きみの事が心配でね」

「どうして、ここにいるって分かったの」

「カメラマンの勘、かな」

「……そう」

 唇に挟んだ煙草を燻らせていると、マックスがじっとその様子を見守っているのに気づいて、片方の眉を上げる。

「一本、吸う?」

「いや、結構。あの、こんなことを俺が言うのは、余計なお世話かもしれないけど……煙草は成長期のきみにあまり良い影響を与えないんじゃないかな」

「成長期だって?」

 素っ頓狂な声を上げた俺に、マックスは真面目な顔で頷き、思わず小さな笑い声が漏れる。

「あんた、俺をティーンエイジャーだと思ってる?」

「違うのかい? 十五……いや、十六歳くらいだろう?」

「二十一」

 うんざりとした声音で返すと、マックスは目を丸くして「東洋人の年齢は分かりにくいな」と頬を撫でる。時々、聞かん坊を見るような目つきをしていると思ったら、そういうことか。まったく。

「俺から言わせりゃ、西洋人のほうが分かんないよ。あんたこそ、幾つ?」

「三十二歳だよ」

「三十五歳は超えているかと思ってた」

 意外と若いね、そう軽く肩を竦めるとマックスは少しばかり傷付いたようで、情けなく眉を下げる。

「で? 俺の年齢を訊きに、わざわざ朝早くに来たわけじゃないんだろう?」

 マックスは、ハッとしたようにこちらに身を乗り出した。

「いや、きみが心配で訪ねたんだよ。その……あの後、色々と、大丈夫だったかい?」

「チャンとの事を言っているの? だとしたら、ワンピースは破られてゴミ箱行きだし、あらぬところが痛い」

 短くなった煙草を地面に弾いて、靴の踵で踏み消す。

「そうか……」

 マックスの顔が曇り、俺は「いつものことだよ」と軽い調子で返す。彼は、何か言いたげだったが、気を取り直したように長い脚を組みなおした。

「他にも実は気になる事あってね。ユアンから話を訊くことは……」

「無理だね。きっと、すでに殺されている。光明街クゥオン・ミン通りあたりに『娼婦殺しの犯人』の貼り紙と一緒に、見せしめとして死体が放置されているはずだよ」

 手足を斬りおとされるか、もしくは自分がしたように腹を切り裂かれるか……チャン達の掟に則った、一番の苦痛を与える凄惨な殺し方をされたに違いない。

 何やら想像したらしいマックスは、重く溜息をついた。

「聞いたところによると、一ヶ月ほど前に、路地に立っていた娼婦が『娼婦のくせに花柄のワンピースなんか着るな』なんて怒鳴られたらしくてね。そして、チェリーが花柄のワンピースを着ていたことから、難癖をつけたその男を探していたらしいよ」

 チャン達も、花柄のワンピースを着た娼婦に犯人、ユアンが接触するだろうと踏んで、警戒していたのか。どうりでタイミングよく現れたと思った。

 そう伝えると、マックスが頷き「でも……」とこちらを真っ直ぐ見つめる。

「メイさんは、殺害時に花柄のワンピースは着ていなかったと、ホンさんから訊き出せたよ」

「あの忠犬と意思疎通が出来たんだ」

 チャンの忠実な部下のホンの口を滑らかにするとはね……マックスの人柄がなせる技なのだろうか。

 少し驚きつつ、ビーチチェアに寝そべって、青く澄んだ空を見上げる。

「きみも気づいていたんじゃないのか? あれがメイの遺体ではないと」

 彼の言う通りだった。ウォン先生の元で彼女の亡骸と対面した時に気付いたのだ。

「腹は切られていたが、絞め痕もなかった。チェリーとは殺害の仕方は似ているようで、ちょっとずつ違ったからね」

 俺は溜息と共に呟く。

「決定的だったのは、腕にあったいくつもの注射痕だ。メイとは、絶対になにがあっても麻薬にだけは手を出さないと誓っていたから。彼女は約束を破らないし、麻薬を憎んでいたから」

 俺もメイも親が麻薬の過剰摂取が原因で亡くなっていた。麻薬中毒の悲惨さは、ガキの頃から間近で嫌というほど見ていた。

「ワンピース云々より、あの腕を見た瞬間に、これはメイと体型がそっくりな誰かの死体だと気づいたよ」

 俺はメイがいつも身に着けていた十字架のネックレスをポケットから取り出す。マックスが、溜息交じりに呟く。

「体型の似た女性を殺害……いや、重度の麻薬中毒者なら、亡くなっていた可能性もあるね。その女性を切り裂きジャックの仕業のように見せかけて腹を切り裂き、顔を潰す……一連の偽装はメイ自身が行ったのだろうか……」

「分からない」

 俺は裏に刻まれた彼女の誕生日をそっと指の腹でなぞる。俺に分かることは、メイは何らかの理由で自分の死を偽装し、九龍城砦を出て行ったということだけだ。

 メイが誰かとそれを行ったのか……彼女自身がその偽装計画を立てたのか。メイが居なくなった今、全ては憶測の域を出ない。

 娼婦が客に熱を上げて、九龍城砦を飛び出していくことはたまにある。しかし、所詮俺達は掃き溜めの住人だ。外の世界と上手く折り合わずに、絶望して戻って来る者もいる。

 そして、メイは路地で客引きする娼婦とは格が違う。13Kサップサンケイの大切な商品なのだ。

 ユアンがチェリーしか殺していないと告白したり、もしくは他の理由で彼女の死の偽装をチャン達が気付いたら、ただではおかないはずだ。

「なあ、マックス。あんた新聞社に勤めているなら、香港のニュースは把握できるよな?」

「ああ、記事にしないような小さな事件でも社には情報が流れてくるよ」

「じゃあ、もしメイらしき人物の絡んだ事件が起きたら、教えてほしい」

 マックスがハッとしたように俺を見つめる。

「メイが、ここじゃないどこかで幸せに生きてくれるならいいんだ。だけど、香港にいたらチャン達に見つかってしまう。その時、彼女が無傷でいられる可能性は低いんだ」

 頭の良いメイだ。すでに国外に移動しているに違いない。ここではない何処か……そこで彼女が自分の望む人生を手に入れられますように……祈るように十字架を握りしめる。

「それと、もう一つ気になる事がある」

 俺はマックスに身体を向け、彼もまた頷いて、自分の太腿を指差す。

「ユアンは、チェリーの太腿を切り取っていないと言っていたね」

「うん。あれは嘘ではないと思う」

 俺達は、互いの顔を見合わせて頷き合う。

「切り裂きジャックは、他にもいる」

 俺の呟く声が新鮮な朝の空気に溶けていく。眼下に広がる九龍城砦は眠りから覚め、次第に動き始めていた。

 切り裂きジャックも、九龍城砦のどこか……もしくは、他のどこかで目覚めているだろうか。

 再び何かが起きるような奇妙な予感が、じわりと胸の中に広がった。

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