第八話 ダンスホール

〔8〕


 夜十時。

 龍城路ロン・セン通りにあるダンスホールには、煙草のけむりとアルコールの匂いが立ち込め、娼婦と客がサルサを踊っている。

 マックスはそわそわと落ち着かない様子で辺りを見回しており、俺は苦く笑う。

「ここは見ての通り、外国人も来るから、あんたも目立ってない。安心して」

 俺はさりげなく彼の腕に自分の腕を絡ませながら囁く。マックスは、少し困ったような……いや、どこか面映ゆそうな目を向けて、俺の耳元に顔を寄せる。

「きみがラウだと誰も気づいてないようだ」

「あら、そう?」

 俺は少し派手な花柄のワンピースの裾をひらりとさせて、ウィンクする。マックスは、狼狽した様子で頭を掻いた。ふと、東頭村道で落ち合った時の事を思い出して小さく笑ってしまった。

 いつもは治安の問題上、夕方にはマックスと別れていた。しかし、犯人を見つけるために夜に再度、会う事になったのだ。いつもの待ち合わせ場所で、彼は全くこちらに気づかなった。こちらが声を掛けて、ようやく俺が分かったのだ。

 マックスは、こぼれんばかりに目を見開いて俺の頭から爪先まで視線を這わせた。

「きみ……ラウなのかい?」

「そうだよ。俺だよ、ラウだ。もしかして、惚れちゃった?」

 俺は肩に掛かった黒髪を軽く払って、微笑んでやる。まあ、驚くのも無理はない。俺は長髪のウィッグをつけて丁寧に化粧も施し、派手な花柄のワンピースに身を包んでいたのだ。

「正直、驚いたよ……」

「たまにだけど、女の恰好をさせたがる客がいるんだ。それで女装はお手の物ってわけ」

 未だにぽかんとしているマックスに、俺は肩を竦める。

「そんなに気に入ったのなら、今度この格好でデートしてあげるよ。それより、行こう」

 狼狽するマックスの手首を掴み、ダンスホールへと向かったのだ。

 思い出し笑いする俺に、マックスが小首を傾げ、誤魔化すように首を横に振る。

 ダンスホールはサルサを踊る男女の熱気に籠っている。ここは、主に娼婦が客を引っ掛けるための場所で、ダンスなどをして意気投合すれば、近くの宿に直行するのだ。

「さてと……あんた、サルサは踊れる?」

「ええ!? サルサなんて踊ったことないんだけど……!」

 驚愕するマックスに、俺は宥めるようにそっと彼の腕を撫でる。

「じゃあ、今夜がサルサデビューだ。ちゃんと、教えるから」

 ぼうっと二人で突っ立ていたら、怪しまれてしまう。俺は強制的にダンスフロアへと彼を引っ張る。困り果てた顔で棒立ちするマックスと向かい合うように立って片目を瞑る。

「別にダンス大会で優勝しようってんじゃないんだから、リラックスして。骨盤を意識して腰を揺らすように、左右にステップを踏んで……」

 マックスが、ぎこちないながらもステップを踏みはじめ、俺はにっこりとする。

「クィック、アンド、スロー……いいね、上手だよ」

「お世辞でも嬉しいよ」

 マックスが、情けなく眉を下げてみせ、俺は軽く肩を竦める。

 軽快なサルサミュージックに乗って、ステップを踏みながらさりげなく視線を走らせる。今夜、俺が探している人物が出没するとは限らない。しかし僅かな可能性に賭けてみるしかないのだ。

 それから暫しステップを踏んでいる内に、マックスは周りのダンスを見て、何やら学習したらしい。彼は握った俺の手を上げて、悪戯っぽく片方の眉を上げる。彼にリードされて、インサイドターンをし、小さく笑ってしまった。

「あんた、サルサダンサーになれるよ」

「カメラマンを辞めたくなったら、候補として考えるよ」

 密やかな笑みが交わされ、ふとダンスホールの入り口が目に入る。それと同時に、曲調が変わった。チークタイムだ。

「俺はこっちのほうが得意だ」

 マックスが幾分ほっとしたように呟き、互いに身体を寄せる。片方の手を繋ぎ、彼の大きな手が俺の腰に添えられる。俺は彼の肩に空いた手を置きつつ、彼の耳元で囁く。

「マックス、店の入り口を見てくれ」

 クルリと向きを回転させ、マックスがホールの出入り口を確認する。

「……あれが、そうなのか?」

 俺は「作戦開始だ」と小さく頷く。微かに緊張で引き締まった顔を至近距離で見つめ合う。

「ラウ、どうか無茶だけはしないで」

「分かってる。あんたこそ、他の娼婦に引っかからないでよ?」

 同時に互いのホールドを解く。マックスが大仰に肩を竦めてみせ、俺は怒ったように彼に背を向ける。金額で折り合わなかった娼婦と客の演技をし、俺だけがホールの出口へと向かう。

 ちりちりとした視線が首筋を刺すのを感じながら、外に出て人気のない方へと歩いていく。そのまま頭上の水道管から水が滴る、壊れたテレビや椅子などが放棄された路地に入る。

 ネズミを銜えた猫が足元を駆け抜け、いつの間にか背後からの気配がなくなっているのに気付いた。ハンドバッグからコンパクトを取り出し、化粧を直すふりをして、ミラーで背後を確認したがそこには誰も居ない。

 もう一度、ダンスホールに戻った方がいいか……?

 来た道を戻ろうと踵を返した瞬間、脇の路地から何者かが飛び出してきた。

 しまった……! ハッと身構えたのと、背後をとられて首に何かが巻き付いたのは同時だった。そのまま一気に首が絞められ、苦しさに視界がぼやけた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る