第七話 屋上

〔7〕


 九龍城砦は路地によって匂いが違う気がする。

 何百とある自動車が通れない細い路地が入り組んだこの要塞は、全体的に悪臭が漂っている。

 アパートの多いエリアでは、放置された生ごみと焚かれた香が混ざった匂いがする。そして、食品の加工場が密集した地区では、くさりかけた豚の内臓や、同じく腐敗しかけた魚の匂いが漂う。

 配管から漏れ出た水のせいで路地のほとんどは濡れ、いつも湿気が立ち込めている。おまけに、建物が密接するように建ち、頭上には干された洗濯ものがはためいていたり、おびただしい数のケーブルが日の光を遮り、昼間でも薄暗いのだ。

 そんな暗黒世界のような九龍城砦の中で、唯一、光とささやかな自由を感じられる場所があった。

「これは……壮観だ。九龍城砦が一望できるなんて」

 俺が案内したのはあるアパートの屋上で、マックスは心地よさそうに伸びをした。九龍城砦の住人にとって屋上はある意味、聖域だ。

 住人が勝手に取り付けた大量のテレビアンテナや、隅には廃棄されたごみも転がってはいるが、空気も淀んではおらず、なにより空を見上げる事ができる。

「屋上は、住人の憩いの場所でもあるんだ。夕方にもなると、学校を終えた子供達や、近隣の住人が集まってくる」

 遠くの獅子山を眺めながら、誰かが置いた二つのビーチチェアにそれぞれ腰を下ろす。

「今の時間なら人も来ないから、気兼ねなく色々と話せる。それで、チェリーの腿の事なんだけど」

「ああ、ウォン先生も驚いていたね」

 チェリーの裸を見たことがあるか、と訊いた時の彼の鳩が豆鉄砲を食ったような顔を思い出し、小さく笑ってしまう。先生曰く、見たことが無いとのことだったが。

「しかし、どうしてあんなことを訊いたんだい?」

「うん、確か、チェリーの内腿には刺青があるって、噂で聞いたことがあってさ」

「なるほど、刺青のあった部分を切り取ったということか」

 マックスがチェリーの太腿の写真に目を落としながら呟き、ふと長い指を顎にやって首を傾げる。

「しかし、どんな模様の刺青だったんだろう。ウォン先生に尋ねたということは、きみはどんなものかを知らない訳だね」

「うん、そうなんだよ。どんな模様の刺青だったんだろう……そもそも、どうして刺青のある部分を切り取ったのかな」

 切り取りたくなるほど美しい模様だったといことなのだろうか。

「快楽殺人者は、記念品として被害者の身体の一部を持っていくケースがあるよ」

「気味の悪い話だな。メイの場合、腹は切り裂かれていたけれど、腿や、それ以外の部分の欠損はなかった。ということは、刺青の部分を犯人が気に入って、持っていってしまったということかな?」

 自分で言いつつ、そのおぞましさに寒気がして、思わず自分の腕を擦る。

「一部を切り取られないかわりに、メイの場合、顔を潰されていたね。犯人の娼婦に対しての憎悪が感じられるよ……まさに、切り裂きジャックみたいだ」

「……うん」

 俺は思考に沈みながら曖昧に頷き、マックスはこちらに身体を向けるように座り直した。

「きみにとって、メイは大切な人だったんだろう? 大丈夫かい?」

「うん。俺とメイは、姉弟みたいなものだったんだ」

 メイとは、子供の頃からの付き合いで、互いに境遇が似ていた。

 俺は男娼でメイは娼婦……二人ともガキの頃に親を亡くしており、九龍城砦で必死に身一つで生き延びてきた。

 手の平に乗せた彼女の十字架のネックレスが、微かに日の光に反射する。彼女は、こんなごみ溜めのようなところでも、卑屈になったり擦れたりする事はなく、いつだって凛としていた。

 まさに泥中の蓮という言葉がぴったりな女性だったのだ。

 哀しさがじわじわと胸の中を侵食しはじめているのに気づき、俺はネックレスをポケットにしまう。

「切り裂きジャックは、これからも娼婦を手にかけると思う?」

 マックスは、眉を顰めつつゆっくりと頷く。

「恐らく。犯人にとって娼婦を殺すことが快楽になっているのだと思う」

「人は快楽に弱い。そう簡単には、やめられないだろうね」

 マックスの撮ったチェリーの写真をもう一度、手に取る。命の灯が消え、虚空を見つめるチェリーを見つめる。ふいに、ある事にふと気づいて、俺はハッと息を呑んで身を乗り出した。

「マックス……!」

 俺の勢いに、彼が青空のような色の瞳を瞬かせる。

 その時、頭上数十メートルを啓徳カイトク空港に着陸するためのジャンボ機が通り過ぎ、ギュィィィンという轟音に、俺の声はかき消されてしまった。


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