第六話 診療所
〔6〕
泣き腫らした目で現れた俺に、マックスはかなり驚いたようだった。
「どうしたんだい……!? もしかして、昨日、俺がきみに失礼な事を訊いてしまったせいで……」
「違う」
狼狽する彼に、俺はきっぱりと首を横に振る。
「メイが殺されたんだ」
「そんな……もしや、チェリーと同じように?」
「そう。話によれば、腹部を真一文字に切り裂かれて、おまけに今回は顔を潰されていたって……」
メイの笑顔が浮かび、俺は涙で滲む目元を乱暴に拭う。
「ああ……ラウ」
マックスが腕を俺の肩に回し、そのまま引き寄せる。柔らかく抱擁され、彼の大きな手が宥めるように俺の背中を優しく撫でた。
それは、性的なニュアンスなど全くない、ひたすら優しい抱擁だった。
「気の毒に……」
鼻先を埋めたマックスの着ているシャツからは、仄かな洗濯洗剤に混ざって日向のような匂いがした。
まるで湯を張ったバスタブに浸かっているように、強張っていた身体から緊張が解けていく。
しかし、ここが
「こ、こんなところで、誰かに見られたらマズいから……」
「それは、チャン達のこと?」
妙に照れくさかったのもあるが、チャンに知られたらマックスの身も危ない。俺は小さく頷きながら「でも、ありがと」と囁く。
当然の事だよ、とこちらを気遣うマックスを見上げる。
「メイの亡骸は、ウォン先生のところに運ばれたんだ。でも、まだ行けてなくて……」
「きみが良ければ、一緒に行こうか」
ウォン先生の診療所は、チャンの所属する秘密結社の
九龍城砦では、六十ほどの歯医者や診察所が存在し、数多い医者の中でもウォン先生は、その腕の良さもあり、住民の信頼も厚く患者が絶えることはない。
しかし、そんな診療所のガラス戸には今日は『
「おお、ラウ、来たか……! ショックで倒れたと聞いたが、もういいのか?」
そうウォン先生が皺のある手で俺の頭を撫でる。いつまで経っても子供扱いだが、今日はそれがなんともホッとさせた。
「うん、ありがと。大丈夫だよ」
「素人判断は駄目だ。ほら、ちょっと見せてご覧」
そう俺の両方の下目蓋を引き下げて、真剣な面持ちで見つめる。
「うむ、貧血は起こしてないな。どれ、今度は脈を測ろう」
「だから、大丈夫だってば。それより、メイは?」
ウォン先生が白髪の混じった眉を八の字にして、深く溜息をつく。正直、酷い状態だが……と吐息と共に呟き、奥の治療室へと促される。
設備が整った治療室を、マックスが感心したように眺め回す。
「素晴らしい設備だ。ちょっとした手術も行えそうですね」
「ここは色んな患者が運ばれてくるからな。怪我人だけでもギャングの抗争やら、麻薬中毒者どうしの刃傷沙汰やら、枚挙にいとまがないよ」
そうウォン先生は、手術台に俺達を手招きする。俺は、鼓動を跳ね上げながら全身を覆うように布が掛けられた彼女の傍に近付く。
「しつこいようだが、覚悟をしてくれ」
そう先生が布を捲り、俺とマックスは息を呑んだ。話に訊いていたように、美しかった彼女の顔は、何か鈍器のようなものでぐちゃぐちゃに潰されてしまっていて、見る影もない。
まるで踏みつぶされたザクロのようだった。
「なんて、惨い事を……」
絞り出した声は震え、直視できずに目を逸らす。
「もう縫合してしまったが、チェリーと同じように腹を切り裂かれていた」
ウォン先生が腹まで掛布を捲り、マックスがまじまじと彼女の亡骸を見つめる。
「ああ、そうだ。これを」
そう先生が差し出したのは、メイがいつも身に着けていたネックレスだった。
「ラウが持っているのが、メイも一番喜ぶだろう」
十字架の裏を確認すると、メイの誕生日が刻印されている。確かに彼女のもので、じわりと視界が滲む。
「先生、これは注射の痕ですか?」
マックスが彼女の腕の内側を指し、ウォン先生が難しい顔で頷く。微かに紫の痣のようになっている注射痕に俺は眉根を寄せた。
「麻薬を打っていたのだろうな。この辺りじゃ珍しいものじゃないさ……」
「なあ、マックス。彼女の写真を撮ってくれないかな。できるだけ詳細に」
俺の言葉にウォン先生がぎょっとこちらを見る。
「俺、誰が犯人なのか知りたいんだ」
「だが、この件に関しては、チャンも……いや、
「分かってる。だから、この事はチャン達には言わないで」
マックスに目配せすると、彼は「分かった」と頷き、シャッターを切り始める。
「ねえ、ウォン先生はチェリーを買った事はある?」
ウォン先生が目を剥き「要は彼女の裸を見た事があるか、っていう意味なんだけど」と付け加えると、益々彼は何とも言えない顔になった。
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