第五話 衝撃

〔5〕


 顔色を変えた俺に、マックスはすまなそうに微苦笑を浮かべる。

「気に障ったなら謝るよ。でも、昨日からラウの反応を見ていると、そう思えてならなくて」

 思わず呻く様な声が漏れる。俺は脱力して、テーブルに頬杖をついた。

「チェリーは、俺を毛嫌いしていたんだ。いや、俺というよりは……男を相手する男娼に対して嫌悪感があったみたい。顔を合わせるたびに、ドレスを貸してあげましょうか、だの、お前は男とヤる白痴バッチーだ、とか……散々、言われたよ」

 マックスが顔を顰めて「ひどいな」と呟く。そんな彼に、肩を竦めてみせる。

「何も珍しい事じゃないよ。同性間のセックスは九龍城砦の外では犯罪扱いだし、ゲイは異常者だって思ってる奴も多い。だからこそ、ここでは需要があるんだと思うけど」

「香港以外でもゲイの偏見や差別はある……しかし、愛を前に性別は関係ないと思うよ」

 刹那、俺は小さく吹き出す。今、何て言った? 俺の聞き間違いじゃなけりゃ、愛だって? きょとんとするマックスに、低く嗤いながら鼻を鳴らす。

「愛なんてあるわけないだろ? 俺と客の間に、そんなものは存在しないよ。馬鹿馬鹿しい。それに男娼をやってるのは、俺にはそれしか稼ぐ方法がないからだよ。別に男が好きな訳じゃないし」

 自然と吐き捨てるように言う俺に、マックスは神妙に頷く。そんな彼の反応に、苛ついて、俺は小さく舌打ちする。

「それに、チェリーは一時期、チャンのお気に入りだったんだ。でも、彼女の性格がキツかったのか、それともチャンが飽きたのか、ともかく彼女は捨てられたんだよ。そして、俺はその後釜ってわけ」

 自嘲しつつ俺は手首の腕時計に目を落とす。

「そういう事情もあって、きみへの彼女の当たりが強かったんだね」

「まあね。ともかく、彼女のことは気の毒だとは思うけど、滂沱するほどじゃないのは確かだよ。言っておくけど、俺が殺ったわけじゃないからね」

「勿論、きみが犯人だなんて思っていないよ」

 店の外の通りに、チャンの手下がたむろっているのに気づく。

「出よう。長居していると、撮影をしていない事を手下に密告される」

 マックスも彼らに気付いて、俺達は九龍冰室クーロンカフェを後にした。


 店を出た後は、何となく気まずさを噛みしめながら、マックスを案内した。互いにチェリーの事を切り出すことはなく、夕方になり東頭村道トン・タウ・ツェン通りまで彼を送って、別れた。

 そのまま俺は、龍津通ロン・チュン通りにある自分の住処へと帰った。公園そばの比較的安全な地区にある、元は四階建てだったはずの建物の上に違法に増築された最上階、十四階の一室が俺の生活する部屋だった。

 とはいえ、ここは俺の部屋ではなくチャンの持ち物だ。彼に出会う前は、ヘロイン中毒者がひしめく光明街クゥオン・ミン通りで暮らしていた。

 あの頃は、違法な建築のせいで日の光すらろくに差さない、ネズミの巣穴のような狭いアパートの一部屋で数人の男娼と生活をしていた。

 今住んでいる部屋はチャンが所有するだけあって広さもあり、九龍城砦で唯一、エレベーターが設備され……いつ故障してもおかしくないので俺は使わないけれど……たまに水しか出なくなるが、シャワーまである。

 チャンの愛玩動物をやっていて、唯一良かったと思える事だ。

 シャワーを浴びて、ベッドに寝転がる。ふと、マックスが撮った写真がちらついた。真っ白な皮膚を染める鮮血と、一部を削がれた内腿……それだけじゃない。チェリーの首に残された絞められた跡も気になる……

 ふいに玄関のドアが開く音がし、俺は身体を起こす。スーツ姿のチャンが、ネクタイを緩めながら姿を見せる。

 全身から苛つきを立ち昇らせているのに気づき、俺は彼が背広を脱ぐのを手伝う。チェリーを殺した犯人を総出で捜しているが、彼の様子から察するに、おそらくまだ目星もついていないのだろう。

 張りつめた空気を少しでも変えようと口を開く。

「チェリーの事……残念だったね」

「心にもない事を」

 チャンがこちらを向き、少し疲労の滲んだ鋭い瞳を向ける。はっと息を呑むと、彼は少し乱暴に俺の顎先を掴んだ。

「何をビクついている。前にも言っただろう、そんな目で俺を見るな」

 一体、俺はどんな目をしているのだろう? 自分では分からない。ここで言い返せば、彼の怒りに拍車を掛けそうなので、じっと黙ってチャンの反応を窺う。

 理由はよく分からないが、時に俺はチャンの怒りを買ってしまうらしい。俺を見ているとたまにむかつくらしいのだが、だったらなぜ、傍に置いておくのだろう。

 ともかく彼の機嫌をこれ以上損なって、殴られるのはごめんだ。俺は少し俯いて「分かってる」と囁き、彼の着ているワイシャツのボタンを外していく。

 チャンの怒りの炎を沈める為に、このままベッドに誘った方が良いのだろうか、そんな事を考えつつ、彼のシャツを肌蹴る。

 彼のしなやかについた筋肉のある胸板と肩口が露わになり、俺は小さく声を漏らす。

「……そうか、そういう事だったのかも……!」

 俺は彼の肩から上腕に掛けて巻き付くように彫られた眼光鋭い龍の刺青に掌を這わせる。

「何のことだ」

 熱心に彫り物を見つめる俺に、チャンが眉間に皺を寄せて訝っている。俺は内心焦りながらも、首を横に振る。

「ごめん、独り言だよ」

 咄嗟に誤魔化し笑いを浮かべると、チャンはいよいよ苛ついた様子で俺の後ろ髪を掴んで、顔を上げさせるように引っ張る。痛みに、低く呻き声が漏れた。

「おい……俺に隠れて何かしているのか?」

「な、なにも……隠れてなんて……」

 慌てる俺に、チャンが獰猛に目を眇める。殴られる……! 反射的に、ぎゅっと目を瞑ったのと、玄関のドアが慌ただしくノックされたのは同時だった。

「チャンさん! お休みのところ、すみません!」

 緊急の気配を感じて、チャンが俺を突き放すようにして、玄関へと向かった。助かった……ほうっと全身が緊張から解かれて、溜息が漏れる。

 ドアの外にいたのは、やはりチャンの手下だった。彼の少し蒼白した顔に、ただ事ではないと気づく。

「チャンさん、また娼婦が殺されました!」

「なんだと?」

「おそらく、メイです……!」

 そんな、メイが……!? 電灯のスイッチを切ったように、すうっと目の前が暗くなり、俺の記憶はそこで途切れた。

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