第四話 アンディ
〔4〕
稼ぎ頭のチェリーが殺され、さぞやチャンは荒れに荒れて、その鬱憤を俺にぶつけるかも……なんて覚悟をしていたが、結局彼は帰って来なかった。
その夜は住民で結成されている自警団が巡回をし、九龍城砦全体が妙なざわつきに包まれているようだった。
翌朝。俺は、マックスと再び
「昨日は眠れたかい?」
開口一番、マックスの言葉に少し驚きながら彼を見上げる。
「実は、あんまり……」
「あんな事があったんだ、当然だね」
「マックス、あんたこそ大丈夫? 撮影初日に死体なんか見つけちゃって、ショックだったよな」
彼はプラチナブロンドの髪をかき混ぜるようにし、苦く笑みを浮かべる。
「俺の場合、紛争地帯で写真を撮っていたこともあるから、ね。でも、ちょっと気になることがあって、眠れなかったかな」
気になる事? 目顔で問えば、マックスは「昨日のカフェで話さないか?」と持っていたカメラバッグから封筒を取り出す。
「きみに見てもらいたいものがあるんだ」
「香港のミルクティーは世界一だと、異動してすぐに教えてもらったんだ。でも、最初は懐疑的でね。本場のイギリスの紅茶が一番に決まっているじゃないか、って」
マックスは一口、熱奶茶を飲んでにっこりとしてみせる。
「でも、実際に飲んでみて、香港のミルクティーは最高だと思ったよ」
「ふうん。本場イギリスよりも美味しいの?」
「うーん、イギリスの紅茶も素晴らしいと思う。だから、どちらも世界で一番だね」
そう真面目にマックスが頷き、思わず吹き出してしまう。
「それより、感動したのはこの
そうマックスは瞳を輝かせて、目の前に置かれた食べかけの
「シャム、聞こえた? マックスがあんたの作った西多士が香港で一番だって!」
そう奥の厨房に声を掛ければ「そりゃ、どうも」と少し面倒くさそうな声音で返ってくる。
「他の店と何が違うんだろう……もしや、掛かっているシロップ……?」
このままだと厨房に乗り込んで、シャムに弟子入りしてしまいそうなので、俺は少し身を乗り出す。
「で、俺に見てもらいたいものって?」
マックスは、ハッとしたように封筒を取り出し、テーブルに置く。
「その……刺激が強いから、見るなら覚悟をして。寧ろ、食後の方がいいかも……」
「大丈夫だよ」
俺は自分の皿を横に押しやり、封筒の中身を取り出す。それは、大きめに現像された数枚の写真で、思わず息を呑む。
「……これって……」
目を瞠り彼を見やると、マックスはゆっくりと頷く。
「ラウが、ウォン先生を呼びに行っている間に、現場とチェリーの姿を撮影しておいたんだ。警察が介入しないんじゃ、ろくに検死もされずに、彼女は埋葬されてしまうと思って……」
惨殺されたチェリーの姿に、思わず眉根が寄る。凄惨な現場写真を一枚ずつ確認し、俺は小さく声を上げる。
「これは……どういうこと?」
マックスの前にその写真を差し出すと、彼は周りに気遣うように身を乗り出し「レディのスカートを捲るのは気が引けたけど……」と声を潜める。
「出血が腹部からだけじゃないと、気づいてね。確認したら、内腿の肉が切り取られていた」
長方形に肉が削がれた箇所の大きさを比較するように、マックスの手も映っている。
「大きさは横幅が5
「一晩中、俺も考えたがさっぱりでね」
同時に二人、低く唸るが、答えは見つからない。
その時、名前を呼ばれて思考から引き上げられる。見れば、アンディがこちらに近付いてきていた。首から十字架のネックレスを下げ、今日も全身から清廉さを滲ませている。そっと、マックスが写真を封筒に仕舞った。
「ラウ! 昨日は大変だったね……」
アンディの眼鏡越しの瞳が悲しそうに伏せられる。
「心配しないで。俺は平気だよ」
「チェリーがあんな酷い目に遭うなんて……本当に悲しいよ」
「……そう、だね」
アンディがふと、マックスに目をやった。
「もしかして、カメラマンのマックスさんですか? この辺りを撮影されていると噂で聞きました」
「ええ。マックス・バトラーです。よろしく」
そう彼が席を立って手を差し出し、二人が握手する。
「宣教師のアンディ・リーです。いつも、
「アンディは、麻薬中毒患者の更生プログラムも行ってるんだ」
俺が付け加えると、マックスは感心したように相槌を打った。
「素晴らしい活動ですね。今度、撮影に伺っても?」
「もちろん。いつでもお待ちしておりますよ。ラウ、きみもだよ」
アンディがそっと俺の肩に手を置く。
「俺は神様に懺悔することはないけどね」
そう茶化すように言うと、アンディは「礼拝所は懺悔だけの場所ではないよ」と笑みを浮かべて、踵を返していった。
アンディの後ろ姿を見送り、思わず溜息をつく俺に、マックスが目顔で問いかける。
「アンディは、俺に机に齧りついてほしいんだ」
「それはどういう意味?」
「色々、教えるから勉強しに来ないかって、しつこいんだ。あの人、ここに来て二年くらいしか経ってないから、知らないんだよ。九龍城砦で生き延びるには、読み書きも数学も何の役にも立たたないっていう事を」
思わず親指の爪を噛む俺に、マックスが眉を下げて唇の端を上げる。
「彼の元に通わなくても良いとは思うけれど、しかし、知識はきみの人生の邪魔にはならないと思うな」
「俺にとっての知識は、ベッドでの気の利いたスラングと、客を天国にイカせるためのテクニック。この二つで十分だ」
むっとして言い返すと、マックスは聞き分けのない子供を眺めるような面持ちで肩を竦めてみせ、俺はぎゅっと眉間に皺を寄せた。
マックスは「それよりも」と切り出す。
「ラウ、きみはチェリーとは、あまり仲が良くなかったんじゃないか?」
唐突な言葉に、俺はぽかんとして彼を見つめ返す。
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