第三話 メイ

〔3〕


「すでに事切れているな……」

 ウォン先生がうっすらと生えた白い顎髭を撫でながら、チェリーの傍に屈む。

「ナイフで腹部を切り裂かれていますよね?」

 少し離れて一緒に先生の様子を見守っていたマックスが訊くと、ウォン先生は「見ない顔だな」と僅かに目を眇める。

「この人はカメラマンで……チャンの許可もとっているんだ」

「そうか……お前さんが言うように鋭利な刃物でざっくりといってる。おや、でも……この首元の痣は……なにかで首を絞められているな……」

 背伸びをして、先生の後ろからチェリーの首元を覗きこむ。青紫の痣は確かに紐ではない何かで締められた跡のようだった。一体、何で締めたのだろう……?

「チャンといえば、そろそろ奴の手下が来る。もう行きなさい」

「分かってる。マックス、ここを離れよう」

 チャンにここに居たことを知られたら、面倒な事になりそうで嫌だ。マックスを促し、俺は路地から離れる。

「なあ、マックス。ちょっと予定変更していいかな?」

「もちろん、いいけど……どこに?」

「知り合いのやっている冰室カフェに行きたいんだ」

 東村頭道トン・タウ・ツェン通りから少し離れた場所にある、九龍冰室クーロンカフェに向かう。

 俺はタイル張りの店内を見回す。昼はとうに過ぎているので客は、近所の老人二人しかおらず、店の奥にある厨房で煙草をふかしている店主のシャムに声を掛ける。

「なあ、メイは来ていない?」

 シャムは読んでいた新聞から顔を上げ、いつものように不愛想に肩を竦める。

「今日はまだ来てないぞ。注文は?」

「じゃあ、凍檸檬茶トンレンチャで……マックス、あんたもそれでいいかな?」

「凍檸檬茶って、アイスレモンティーだよね? あれ、好きなんだ」

「ここのは美味しいよ。シャム、二つお願い」

「あいよ」

 俺はいつもの定位置となっている壁際のテーブルにマックスを促し、向かい合うように腰を下ろす。すぐにレモンスライスが沢山入った凍檸檬茶のグラスが運ばれる。

 添えられたロングスプーンでレモンを潰しながら、思わず小さく溜息をつく。

「大丈夫かい?」

「え?」

 顔を上げると、マックスが気遣わしげな面持ちでこちらを見つめている。

「あんな凄惨な状態を見てしまったんだ、ショックを受けて当然だ。おまけに、彼女は知り合いだったんだろう?」

 娼婦や男娼が外からやってくる客に暴行を受ける事はたまにある。しかし、秘密結社がバックにいれば、商売道具を傷つけられて黙っているわけもなく、犯人は見せしめのように惨殺されて道に放られることになる。

「九龍城砦にいれば、ギャングのいざこざなんかで、路地に放置された死体は、見る機会は結構あるからね。チェリーは、仕事仲間みたいなものだからさ。そういう意味では衝撃だったけど」

 まあ、別に仲が良かったわけではないけどさ、そう続けるとマックスは不思議そうに首を傾げる。

「仕事仲間?」

「チャンから聞いてないのか。俺、男娼なんだよ。これでも売れっ子の、ね」

 そう頬杖をついてマックスを見れば、彼は目を瞬かせて深く頷いてみせる。

「そうだったのか」

「同性間の性交は、香港刑事犯罪条例違反だ!なんて野暮は言わないでよね。ここは九龍城砦なんだから」

「勿論、きみを咎めるつもりなんてないさ」

 そうマックスは、真面目に相槌を打ってみせる。

 嫌悪なり下心をちらつかせたり、それなりの反応があるかと思ったので、なんだか肩透かしをくらう。俺は誘うような流し目でグラスに添えられたマックスの手の甲に、人差し指の爪先を滑らせる。

「指名してくれたら、サービスするよ?」

「考えておくよ」

 マックスは宥めるように俺の手を軽く握り、そっとテーブルに置く。

 まあ、当然の反応だ。マックスのような金髪碧眼のハンサムならば、娼婦や男娼なんて買わなくても、引く手あまたといったところだろうし。

「それより、ちょっと気になったのは……」

 マックスが言い掛けて、入り口のドアが開く気配がする。俺は勢いよく席を立った。

「メイ!」

 メイが少し血の気の引いた顔でこちらに駆け寄り、彼女の華奢な身体を抱き寄せる。

「ああ、ラウ……! どうしよう……チェリーが……!」

「知ってる……実は、俺達が発見したんだよ」

 ハッとしたようにメイが、マックスに顔を向ける。よそ者の彼に、メイは少し警戒したような面持ちになる。

「はじめまして。マックス・バトラーです。カメラマンとして、お邪魔しています」

 そうマックスが警戒を解くように柔らかく微笑みながら、握手を求める。メイもおずおずと彼の手を握り返した。

「大丈夫だよ、メイ。彼はチャンに許可を取って、九龍城砦内を撮影しているんだ」

「そうなの……」

 メイが少しぼんやりとしつつ、空いた椅子に腰を下ろす。

「メイ、大丈夫?」

「ショックよ……だって、チェリーとは部屋が隣同士だし、昨日の晩にも普通に顔を合わせたのに……」

「彼女が、客とトラブルになっていたりはしなかった?」

 マックスの言葉に、メイはゆっくりと首を横に振る。

「彼女はとても客あしらいが上手かったし……何より、一番の売れっ子だったの」

「だから、変な客はつかないようになっていたんだよ」

 マックスは「そうか……」と胸の前で腕を組んで、何かを考えている。

「ねえ、ラウ。噂ではまるで、切り裂きジャックの仕業みたいだって聞いたけど……本当?」

 俺が頷いてみせると、メイは首に下げている小さな十字架のネックレスを握り「娼婦が殺されるなんて……」と囁く。確かに無法地帯ではあるが、娼婦があんな風に惨殺されるなんて初めてのことかもしれない。

 九龍城砦は、秘密結社やギャングの連中がいるお陰で、ある意味、平和が保たれているのだ。

「なんでこんなことに……」

 そう囁くメイの華奢な手をそっと俺は握りしめると、彼女は、不安げに俺の頬を撫でる。

「チャンが荒れるかもしれないわ……気を付けて」

「うん、分かってる」


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