第二話 チェリー

〔2〕


 俺のホームタウンである、ここ九龍城砦ガウロンジャーイセンは、英国の領域で三不管サンブーグヮン、いわゆる無法地帯であり、住民が勝手に建てた三百五十もの違法建築の建物がひしめく、広大な要塞だ。

 排水管から漏れ出す水のせいで、町はいつも湿り気を帯び、むき出しのケーブルが頭上を走り、細い路地が広がる巨大な迷路のような場所。

 衛生状態も悪く、ごみや……いや、死体が転がっているのも日常だった。

 ギャンブル、アヘン窟、ヘロイン、闇金融、娼婦、男娼……さまざまな悪事の温床で、それを取り仕切る秘密結社やギャングもいる。

 そんな九龍城砦内は「一度入ると出てこられない」と言われるくらいに入り組んだ、迷宮のような場所だ。

 翌日、俺は迷宮の入り口にあたる東頭村道トン・タウ・ツェン通りで写真家という男を探した。とはいえ、こんなところで首からカメラを提げている白人は彼しかおらず、すぐに分かった。

 身長は6英尺フィート(185センチ)くらい? スラリとはしているが、均等のとれた体型で、しなやかな筋肉がついているのがシャツ越しにも分かった。

 いつもの癖で相手の体型などを観察しながら彼に声を掛ける。

「あんたが、マックス・バトラーさん?」

 通りの屋台を眺めていた男が振り返る。プラチナブロンドの髪と、灰色に近い青い瞳が印象的な男は人懐っこい笑みを浮かべてみせた。

「もしかして、きみがラウさん?」

「そう、ラウ・ウォンだ。ラウでいいよ」

「じゃあ、俺の事はマックスと」

 そうマックスがこちらに手を差し出し、握手を求めているのだと気づいて、慌てて握り返す。無骨で大きな手はさらりとして温かい。

「よろしく、ラウ」

「無法地帯に、ようこそ」

 思わず皮肉っぽく笑う俺に、マックスはペールブルーの瞳を瞬かせて、それから楽しそうな笑みを浮かべてみせた。

 いくらチャンが許可していたとはいえ、最初から売春宿やアヘン窟を案内するわけにはいかない。外国人が無遠慮にカメラを向けたら、血の気の多い連中に囲まれて下手すればこっちまで殺されかねない。

 なのでまずは、比較的安全な九龍城の北側、東村頭道トン・タウ・ツェン通りの香港式喫茶店……茶餐廳チャーチャンテンや雑貨店がある通りを案内することにした。ここなら犬肉を食べにくる外部の人間が車で来たりするので、いきなり襲われる事もないだろう。

 そう伝えるとマックスは、ちょっとだけこの細い路地を撮りたいんだけど、いいかな? と、人気のない建物の隙間のような路地を指差す。

「いいけど、長居は禁物だよ?」

「分かっているよ。ありがとう」

 リクエストされた湿気を帯びた細い路地を進みながら、彼は辺りに視線を這わせている。

「俺は、ニューヨークに本局のある新聞社のカメラマンとして在籍していてね。最近、香港支局に異動したんだよ。前から九龍城に関心があって、ここに住む人たちの姿を撮りたいと思っていたんだ」

 ニューヨーク、か……このスラムしか知らない俺にとっては、未知の世界だ。

「ニューヨークには、こういうスラムはないの?」

「スラムのような場所はあるが、ここのように建物が入り組んでいるところはないね」

 そうマックスは、排水管から流れる水で濡れた、いくつものむき出しのケーブルが頭上を走る路地を見上げて、シャッターを切る。

 路地には、猫が何匹もおり、彼は不思議そうに首を傾げた。顔見知りの鉢割れの猫がこちらにやってきて、俺の脛に身体を擦りつける。

「よう、花花ファーファ、元気か?」

 そう頭を撫でてやると、花花が小さく鳴いた。

「ドブネズミが多くて、猫を飼っている家が沢山あるんだ」

「なるほど……きみの家にも猫はいる?」

 昔に飼っていた猫を思い出してしまい、それを押しやるように首を横に振る。

「前は飼っていたけど……今住んでいる部屋には、ネズミは少ないから、居ない。そろそろ雑貨店のある通りを案内するから……」

 言いつつ彼を見やると、その横顔が微かに緊張を帯びている。

「マックス? どうしたんだ?」

 子猫くらいのドブネズミでも見つけたか? そう揶揄おうとしたが、彼は路地の奥を凝視している。確かこの先は行き止まりで、粗大ごみなどが投棄されているところだ。

「気づかないかい? 微かに……」

「何が?」

 マックスは少し硬い笑みを浮かべ「きみはここに居て」と足早に路地の奥へと向かってしまう。

「ちょ、ちょっと待って……!」

 彼を一人にするわけにはいかず、俺もマックスの後を追いかける。壊れた箪笥や足の折れた椅子などが山となっているそこに、マックスが立ち尽くしていた。

「どうし……」

 言いかけて俺は言葉を呑む。むわりとしたその生臭さは、路地特有の排水のそれではない。鉄っぽいその匂いは間違いなく血液だった。いや、それだけじゃない、これは……俺は微かに鼻をひくつかせる。

「きみは彼女を知っているかい?」

 そう指差されたごみ山の影に女の人が倒れているのに気づく。派手な花柄のワンピースに赤いハイヒール……

「チェリー!」

 俺は慌てて彼女の元に駆け寄る。血だまりの中で彼女は虚空を見つめているが、その瞳に力はない。おまけに、彼女の腹部は真横に刃物で切り裂かれ、無残にもぬらぬらとした血で染まった腸が路地に広がっている。

 凄惨な状態に一瞬目の前が真っ暗になる。ふらついた俺の肩をマックスが後ろから支えた。

「大丈夫かい!?」

「へ、平気……そんなことより……」

 眩暈がしたが、俺は何とか倒れないように踏ん張りマックスに言う。

「こういう時に適任の知り合いの医者を呼んでくる……!」

「警察には!?」

「ここは九龍城砦だよ! 警察なんてあてにならない!」

 俺は言い捨てて、龍城路ロン・セン通りの医師、ウォン先生の元へと走った。

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