九龍城の切り裂きジャック

七緒亜美@壺中天地シリーズ 発売中

第一章 九龍城の切り裂きジャック

第一話 1980年、九龍城砦

〔1〕


「さあ、ママに言う事があるでしょう?」

 少し開けた窓の隙間から、アヘンの微かな煙と二胡の調べが質素な部屋に流れ込む。ここにあるのは、軋むベッドと簡素な椅子、そして軟膏などが入ったチェストだけ……そしてついでに、たまのネズミ。

 まるで独房のような小部屋に、お客の呻く様な、そしてうっとりとした声が混ざり合う。

「さあ、坊や、言いなさい!」

 俺は客が持参してきた皮ベルトを握りしめ、床に膝をつきベッドに上半身を倒す彼の元に近付く。

「あ、ああ……ママ……ごめんなさい……!」

 切羽詰まった声と共に、お客が尻を突き出す。

「あんたはとっても悪い子!」

 俺はベルトを振り上げて、あまり肉のついていないその尻に叩きつける。ピシン! と我ながら良い音が出せた。

「……っう、ああっ! ご、ごめんなさい! ボクは悪い子です……!」

「あんたがどんなに悪い子か言いなさい!」

 おそらく勃起しているであろう下半身をもぞもぞとさせながら、口籠る青年に俺はもう一度、ベルトを尻に叩きつけた。

 それから二十分くらいママのお仕置きは続いた。幾分すっきりした顔のお客……ユアンはベッドにうつ伏せになっている。

「なあ、それ冷やさなくて平気?」

「うん、このままがいいんだ」

 下着越しなので分からないが、おそらく赤く蚯蚓腫れになっていそうな尻に、思わず眉を顰める。いつの間にか先ほどまでの二胡の調べは止み、代わりに屋外での賭け麻雀であろう牌を混ぜる音がし始める。

 俺もベッドの端に腰を下ろし、すっきりした顔の彼を見やる。

 ここ最近、月に一回は俺を指名するこの青年……ユアンは、九龍城砦を出れば、法律の勉学に励む学生なのだ。ユアンのママは彼が子供時分、成績が芳しくなかった時などに折檻としてベルトで彼の尻を打っていていたのだという。

 ユアンにとって、厳格な母親は畏怖の対象でしかなかったらしい。だが、どうしても勉強がはかどらない時や、心に靄が掛かった時に、ママにされたように尻を叩かれに来るのだ。

 どうして娼婦ではなく、男娼の俺の元にくるのか。ママの存在は、ユアンの女性観に暗い影を落とし、彼は女性と関わるのが苦手なのだという。

 ユアンにとって、ママは愛と憎が入り混じった複雑な存在なのかもしれない。

「これで勉強に集中できそう?」

「うん、ラウのお陰だよ」

 ただケツを引っ叩いているだけだよ、とは返さずにニッコリとする。革ベルトで尻を打つだけで済む客は、俺の身体を使わなくていいので楽に稼げてありがたい。

 腕時計を見ればそろそろ終了の時間だ。気だるげに身体を起こしたユアンが微かに笑んだ。

「それ、素敵な時計だね」

 痩せた手首には不釣り合いな金色の時計に目を落として、俺は苦笑する。

「首輪の代わりだよ」

 不思議そうに小首を傾げる彼に俺は微笑みながら肩を竦めた。

「勉強、頑張って。未来の弁護士先生」

 ユアンを見送り、埃っぽいベッドに横になる。今日は他に客の予定もないし、夜までここで過ごすか、それとも……そんな事を考えていたら、部屋のドアが開く。

 入って来たのは、チャン・イーだった。チャンの隙のない鋭い瞳が真っ直ぐ向けられる。いつもの事ながら少し緊張しつつ、身体を起こす。

「これから、他に客は来るのか?」

「今日は来ないよ」

 チャンは、少し疲れたように「そうか」とベッドに寝転がる。もしかして、このままチャンとベッドで過ごさないといけないのか……? 動揺を悟られないようにしながらも彼を覗きこむ。

 チャンは眉間に皺を寄せて目を閉じていたが、ふいに整ってはいるが神経質そうな印象を与える顔をこちらに向けた。

「暫く客はとらなくていい」

「どういうこと?」

「明日から暫く、九龍城砦の案内役をするんだ」

 目顔で問いかけると、チャンは肩を竦めてみせた。

「写真家という男が来る。アメリカ人だ」

 俺はぎょっと彼を見つめる。最近、ダンスホールの傍で外国人の記者が殺されたばかりだ。

 だいたい外国人がうろちょろしていたら、ものの数分でギャング連中に身ぐるみを剥がされるか首を掻っ切られるか、どちらかである。

「九龍城砦内の写真を撮りたいらしい」

「命知らずというか、なんというか……」

 思わず呆れた声が出る。九龍城砦は俺がガキの頃よりは少しだけ治安は良くなっている。しかし、それでもここは無法地帯のスラムなのだ。

 まあ、それでもそのアメリカ人がチャンに取り入ったのは正解だろう。この男……チャン・イーは、香港の裏社会を仕切る秘密結社、13Kサップサンケイのメンバーで、おまけにここ九龍城砦のヘロイン売買や売春宿等を取り仕切るショイ(グループ)である『応竜インロン』のトップなのだ。

 彼が許可したとすれば、チャンの手下達から危害を加えられる事はないだろう。おまけに『』が隣に居るとなれば、もっと安全だ。

 その写真家とやらは、九龍城砦の撮影の為に、一体いくら払ったのだろう。

 そんな事をぼんやりと考えていると、ふいに力強く押し倒される。ハッと息を呑む俺を、チャンの冷酷な光を帯びた瞳がまっすぐ向けられる。

「お前は、案内だけをすればいい」

「……分かってる」

 ベッドに張りつけるようにされ、掴まれた手首に巻かれた金時計をチャンがゆっくりと撫でた。

「時計は外すな、いいな?」

 代々受け継がれている、チャンの愛玩動物の証である時計だ。これを外す時は、きっと俺が八つ裂きにされてドブに浮かぶ時だろう。

 俺はまっすぐとチャンを見つめ返して頷いた。


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