涙の味 ―2

「お待たせ」


 長蛇の列を経てそれぞれの料理を手にティアとルクスが戻ってきた。


「俺たちがいない間、二人で何話してたんだよ」

「別に何も話してないわよ」


 リリィがルクスの顔を見ることなくそう答える。愛想なく答える様は今まで何度も見てきたが、これでまでのような刺々しさはリリィから感じられなかった。


「昔のことで盛り上がってたんだよねー」

「ちょっとレイ! 余計なこと言わないでよ」


 いきり立ったリリィに驚く様子もなく、代わりにレイたちは堪らず吹き出した。レイから聞いていたリリィとは全く異なる、親しみやすさが今のリリィからは感じられた。


「レイちゃんたちも行ってきなよ。今なら少し列も落ち着いた頃だろうし」

「うん、行こう、リィちゃん」

「何よ、その手は」

「え、一緒に行こうって、ほら」

「こんな人前でよくそんなことできるわね。流石に恥ずかしいでしょ」


 テーブルの上を越すように差し出されたレイの手をリリィは一瞥するにとどめた。手を差し出したままのレイの真横をリリィが歩き過ぎると、そっか、としょぼくれた声を発してレイが後に続く。


 背後からレイが近づいていくとリリィが足を止めた。振り返って大きなため息を一つついてレイに言葉を投げたる。


「全く、そんなに落ち込むことないでしょ? ああいうことはもうちょっと人のいないところでしなさいって言ってるだけなんだから」

「リィちゃん……」

「もう、二人を待たせてるんだから早くしてよね」


 肩を落としたレイの手を今度はリリィの方から取ると足早に列の方へと進み始めた。リリィが握ったレイの手は力無くそうなされるままだったが、じんわりとリリィの手に温もりを伝えるようだった。


 注文のカウンターから伸びた列は壁に突き当たり、そこから直角に曲がっていた。最後尾からは当然カウンターの様子を窺い知ることはできない。これで少し落ち着いてきたというのだから日々の異常さが窺い知れる。しかし、レイには見慣れたそんな光景も、隣にいるリリィの存在もあってかいつもとは違った雰囲気を感じられた。


「ねえ、リィちゃん」

「何よ」

「リィちゃんはさ、卒業したらどうするの?」


 壁掛けのメニューを見ながらレイが問いかける。既に食べたいものが決まっていたレイにとってはメニューを眺める行為など無駄でしかなかったが、普段の癖でボーッと見つめていた。


「まだ何も。でも、私のこの病気のことを調べようとは思ってる」


 少し間をおいてリリィが答えた。いつもより少し真剣そうな声のトーンは内容だけでも話し相手だけでもなく、その両方がリリィにとっては特別だからなのだろう。

 リリィが自らの手に目をやると、釣られてレイもリリィの右手に視線を落とした。


「魔力の生成が上手くいかないんだっけ。今もあの時の薬は飲んでるの?」

「ううん、薬は今も飲んでるけど、あの時のとはまた違う物。でもいつまでも薬に頼ってるわけにはいかない。根本的にこれを治す方法を見つけないと」


 リリィが拳を握る。リリィの表情は硬かったが、それだけの意思だということが読み取れた。


「それにさ、私も付いていっちゃダメ、かな?」

「はぁ? あんた何言ってんのよ」


 リリィが呆れた顔をレイに向ける。


「リィちゃんが病気のことで悩んでるのは昔から昔からよく知ってる。だから、何か力になれないかなって……」

「何か力にって言ったって、自分のことはどうするのよ」


 学院を卒業した後の進路などどうとでもなる。だからこそレイ達生徒らは事前にある程度将来の見通しを持ってこの学院を卒業していく。


 リリィのように旅をすると言い出す生徒もたまにはいるが、基本的に何かの職を探すのが一般的と再三説明を受けていた。


「私は……どうせまともに魔法なんて使えないだろうから、どのみち学院を出たって言って進めるような進路は無理だし」

「あんたのそれ、病気ってわけじゃないのよね」


 疑うような視線を向けてリリィが尋ねた。


 レイの症状も原因が分からぬまま今日まで至るわけだが、リリィ以上の足枷として今もレイに巻きついている。いかな学院といえど、レイのこの症状の手がかりを掴むことすらできなかった。


「この学院で沢山のことを学んできたけど、結局実践的なことは何もできなかった。だから、せめてきちんと魔法を使えるようにはなっておきたいの。リィちゃんと同じ目標なら頑張れると思って……勝手なこと言ってるって分かってるけど、でも、リィちゃんの足手まといにだけはならないように頑張るから……」


 試合では確かにリリィに勝つことはできた。しかし、そう言い聞かせれているだけのレイにとっては、その事実は俄かに信じがたい。レイの中では、自分は未だに魔法の使えない落ちこぼれから何も進歩などしていなかった。


 しかし、リリィについて行きたいと言ったところでそれがリリィにとって邪魔になるかもしれないことだけが唯一レイを一歩足止めしていた。それでも、何かの手助け無しにきちんと魔法が使えるようになりたい、そう願う気持ちはリリィのものと全く同じだった。


「私はそれでも構わないけど。でも、いいの?」

「いいって何が? リィちゃんがいいって言ってくれるなら、私は何も不満なんてないよ」

「そんなの言わなくたって分かってるでしょ? ついこの間まで、私はあんたにわざと嫌われようとしていたのよ……傷付けたくないって思っていたから」


 リリィの声がどこか震えていた。過去のことを持ち出して未来のリスクを提示してまでレイや自分自身を諦めさせようとはもう思っていない。しかし自分自身のためだけのことにレイを付き合わせるほど図々しい態度を取れるわけでもなかった。


「あんたの事情も分かる。でもそれならティアやルクス達と一緒でも同じことでしょ? 私個人のことに無理矢理付き合わせて、あんたにこれ以上迷惑かけるぐらいなら————」

「そんな事思ってない。私がそうしたいから言ってるの」


 リリィの言葉を遮るように、そう言ってみせたレイの瞳は真剣さを訴えていた。リリィに対する自責や申し訳なさからこんなことを頼んでいるわけでも、ましてこの先リリィと一緒にいることが迷惑になるとも思っていない。あくまでもレイ自身のため、魔法が使えるようになりたいという一番最初めの願いのためだった。


 二人の間で互いに交錯する思いは昔も今も変わっていなかった。相手を想って考えて、そうして今までは間違えていた。しかし、真剣そうなレイを見てリリィもその先をわざわざ言い直そうとはしなかった。その代わりに、一つため息をついた。


「レイったら何でそんなにわがまま……というか頑固になったんだか……分かったわよ。あんたがそうしたいなら好きにしてよ」

「本当にいいの!?」


 よもや受け入れて捉えるとも思っておらず、また難儀な交渉をしようと身構えていたところ、あっさりと決まってしまっていたことにレイは驚きを示す。思わずレイの方から確認をしていた。


「今さら嘘ついたってしょうがないでしょ。それに断ったところでしつこいあんたが諦めるわけないんだから、断り続けるだけ時間の無駄ってものよ」

「なんだかそれはそれでバカにされてる気もするんだけど」

「当たり前でしょ。全く、私も何回も同じことやってる暇なんてないの」

「今の時間なら暇なのに……」


 腑に落ちないと不満げな表情を露わにするレイを尻目に口の端を上げるとリリィは列を進んだ。


 話をしているうちに待ち行列はすでに角を曲がり、もうすぐで先頭というところまで来ていた。


「リィちゃん、もう何食べるのか決めたの……っていつもの、だよね」

「まあ、折角だし」

「リィちゃんならそう言うと思ってた」


 注文後しばらくして出された料理を盆に乗せると、二人は並んでティア達のいるテーブルへと向かった。


 相変わらず行列は続いたままだったが、気のせいだろうか幾分かは短くなったようにも見える。しかし、壁掛けの時計曰くまだまだ人が増えていくようだった。


 レイ達が戻ると、気付いたティアが手を振って二人を呼んでいた。


「お待たせ。結構時間かかっちゃった」

「ううん、別にいいよ。あれだけ人が並んでるんだもん」


 ティアが行列の方に目をやる。少し前まで自分もそこに並んでいたはずだったが、あれにもう一度並ぼうとは思えなかった。


「レイはどうせいつもの……ってお前もかよ」


 レイとリリィの盆の上に乗った同じ料理に、ルクスがまるでゲテモノでも見るかのような視線を送った。匂いで気付くべきだったが、度重なる激臭に晒された結果ルクスの嗅覚は既に使い物にならなくなっていた。


「レイ一人だけでも十分すぎるってのに何でここにきてもう一人同じやつが増えるんだよ」


「別に何食べようが人の勝手じゃない……好きなんだから」


 口では不服を示す抗議をしながらリリィは恥ずかしそうに視線を逸らした。


 山のようにネギが乗った真っ赤なカレーは、その数も周囲から集める視線もいつもの倍になっていた。


「そうだよ。ルクスったらいつも人が好んで食べてるものにケチ付けるんだから」

「この反応するのが俺だけじゃないって前にも言っただろ」


 レイ達のテーブルを一瞥して去っていく生徒らの視線が気になるのか、ルクスは落ち着きなく周囲を見回している。対するレイとリリィはそんなどうでもいいことは後にしろ、と目で訴えていた。


「でも、レイちゃんだけじゃなくてリリィちゃんまで辛いものが好きだとは思わなかったよ」

「元は私がリィちゃんに教えてもらったんだ。これが食堂のメニューの中で一番美味しいんだって」


 自慢げにレイが高々と鼻を伸ばす。


「でも、やっぱり気になっちゃうから、二人とも卒業するまでには医務室でちゃんと診てもらおうね」

「気になるって何が?」

「ああ、そういうところも似てるのね」


 ピンと来ていないリリィに思わずティアはぎこちない笑顔を作った。


 そんなティアを見ても何のことなのかさっぱり理解しないリリィにレイが耳打ちをする。ティアとルクスが食事の度に体調を気にしてくること、おそらく冗談半分であるからあまり気にしないこと。レイのどれもが常識から逸脱している言葉は対面に座る二人には伝わらなかった。


 レイの話を聞き終わると今度はリリィがティア達を相手取って、如何に辛いものが素晴らしいものなのかを力説し始めた。レイが以前二人に言ったものと同じようなものだったが、相変わらず二人の反応は芳しくなかった。レイの時と同じようにあしらわれてもリリィの勢いは衰えるところを知らない。


 目の前で交わされている会話をレイは少し離れて聞いていた。少し前までは、レイの他にティアとルクスがいた光景に、今はリリィが混ざっている。それはまさしくレイが望んでやまないものに違いなかった。


 過去、二人が仲違いすることがなければこれが今までずっと続いていたかもしれない。リリィとの仲もずっと深く強固なものになっていたかもしれない。考える度にレイは自分のあの時した行為を悔やんだが、どれだけ抗っても過去を変えることはついぞ叶わなかった。


 代わりに今こうしてティアとルクスとリリィその三人と一つの机を囲んで談笑している。あれだけ望んで止まなかったものが今目の前にあった。努力こそ苦手だったレイが少しでも願いに近づこうとした、その結果がささやかだがそこにはあった。それは抱きしめるほどに温かく、愛しさが止めどなく溢れてくるようで、いつの間にか目頭が熱くなっていた。


「ねえ、レイってば。話聞いてたの?」

「え?」


 不意にかけられた声にレイは困惑を示した。見渡すとリリィ達がレイの顔を覗き込んでいた。


「だから、レイからも二人に言ってやって————ってどうしたのよ」

「な、何でもないよ。ごめんね、ちょっとだけボーッとしてた」


 あまりに上の空だったレイを気にしてリリィが声をかけた瞬間、レイの瞳から雫が溢れた。


「レイちゃん、どこか痛かったりするの?」

「やっぱり、こいつが原因か……」

「ふざけたこと言わないで。でも、本当にどうしたのよ。何かあったの?」


ルクス以外は口々にレイを心配したが、一番驚いていたのはレイだった。


「あれ? お、おかしいな。どこも痛くなんてないのに」


 自身の意思とは関係無しに、止めどなく溢れる涙はこれまで溜め込んでいたレイの感情そのものだった。しかし、複雑に混ぜ入った感情は、もはや悲しみなのか喜びなのかすらも判別が付かない。


「どうしてだろう。さっきまで何ともなかったのに。嬉しくて、幸せだなって思ったら止まらなくって……」


 涙を拭う度に、レイの瞼の裏には今までのことが思い出されていた。もう一度だけ頑張ろうと決意したあの日、転んでも諦めずに立ち上がれたあの時、願いに手が届いたあの瞬間。そのどれもがレイにとっては大切な時間で、今こうしていられるキッカケともなったことだらけだった。それらが透明な雫に溶けて外へ流れ出ていく。しかし、それをレイも他三人も知らない。


 鼻声になってもレイは困惑した様子を誤魔化そうとしていた。嬉しくて幸せなはずだと、もはや同じ言葉を繰り返すばかりだったが、ティアやリリィは急かすこともなく包み込むような雰囲気で聞く。


「レイちゃん、頑張ったもんね」

「ほんと、頑固でわがままで。呆れるぐらい諦めないんだもの」


 努力が苦手で嫌いで。今まで目を背けて逃げていた。しかし、それでも諦めきれない願いのためにレイは手を伸ばした。その結果が今この瞬間であるのだと、そう実感して初めてレイは今の自分の気持ちが理解できた。


 魔法が使えないレイでも願いに手が届いた。だから、この涙は止まらない。それでも傷付き倒れ、ボロボロになったから、この涙は溢れている。


 だからこそ、今レイは小さな幸せを噛み締めていた。


 もう誰もレイの涙を止めることはできなかった。しかしその場の誰もがそれでいいと思っていた。溢れるままでいることが良いのだと。それがレイにとって一番の労いで、この先波乱に満ちるレイの人生の中で最も尊いものになるはずだから。


 リリィと一緒に注文した大好きなカレーは、いつもの様に辛く、そして今日だけは少し涙の味がした。

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