アフリカンスノー
白洲尚哉
アフリカンスノー
午後四時。終業のチャイムが鳴って、解放された生徒たちは皆それぞれの放課後を過ごす。ある者は級友と教室でお喋りしたり、またある者は半年後に迫る高校受験に備えて勉強したりと様々だ。
八月が過ぎて、三年生の僕は生徒会を引退。それからすることが全くなくなって、毎日ぶらぶらしていた。生徒会として学校行事に東奔西走した三年間はとても充実していた。充実していただけに、引退した後の空虚感は相当なものだった。
そんな空虚な日々を過ごしていたある日の放課後。僕はいつものように商店街をぶらついていた。何か面白いものはないかな、と暇人特有の思考を巡らせ周囲を散策していた時のことだった。ふと、どこからか香ばしいコーヒーの香りがした。しかしこの辺りに、喫茶店やカフェの類いはない。首を傾げつつも、することのなかった僕は香りの出所を探ることにした。
それはどうやら、近くの路地から漂っているらしい。四時過ぎにも関わらず、路地は暗くじめっとしていて、どこか不気味な雰囲気。もしかしたら、僕が知らないだけで隠れ家的な喫茶店があるのかもしれない。冒険心にも似た気持ちで、僕は路地に入った。
「…………」
暗い暗い路地裏の、雑居ビルの非常階段。その踊り場で、セーラー服の少女がコーヒーを淹れていた。階段を椅子代わりに、踊り場にポットや紙コップ、豆の袋やミルなどを置いている。少々異様な光景に、しばし絶句。
「……何してんの?」
問いかけると、少女がこちらを向いた。
「うーん……コーヒーブレイク?」
「ここで?」
「うん、ここで」
少女は短く答えると、紙コップにコーヒーを注ぎ、美味しそうに啜った。そして「ふぅ」と安堵の息を漏らす。どうやら本当にコーヒーブレイクのようだ。路地裏だけれど。
「コーヒー、飲む?」
少女が聞いてきた。初対面だし、少し迷ったが貰うことにした。
少女から紙コップを受け取り、口元に運ぶ。口に含むと、柔らかい酸味とほのかな甘味が口に広がった。口当たりは軽く、すっきりしていてそこまで苦くない。ほどよく冷めていたのもあり、とても飲みやすかった。
「美味しい……」
「そう。なら良かった」
「いつもここでコーヒーを?」
「うん。薄暗くて静かだから」
確かに、ここは薄暗くて静かだ。環境的には人の少ない喫茶店とかと同じで、コーヒーを楽しむのには最適かもしれない。路地裏だけれど。
まったりコーヒーを飲んでいるうちに、夜が近づいてきた。
「そろそろ帰るよ。コーヒーごちそうさま」
「ん」
少女に礼を言って、路地裏から表通りへ出た。紺色に染まった路地の中腹から、少女が手だけ出して、それを振っているのが朧に見えた。
表通りから家に帰る途中、手に紙コップを握っていることに気が付いた。そのまま持ってきたらしい。まぁいいか。紙コップだし。ぽっかり空いた虚ろな心は、しばらくの間、美味しいコーヒーで満たされていた。
「……やぁ」
昨日と同じ場所に、少女は座っていた。紙コップに口をつけながら、こちらを一瞥する。僕は手土産を見せながら言った。
「お茶菓子、持ってきたんだ。チョコクッキー。コーヒーに合うと思ってさ」
少女は無言のまま、新しい紙コップにコーヒーを注いでこちらに渡した。どうやら同席を了承されたらしい。
「ありがと」
僕は非常階段の手すりにもたれかけて、コーヒーを一口飲んだ。昨日と同じ、優しい酸味のすっきりした口当たりのコーヒー。
「そういえば、これって何の豆?」
「アフリカンスノー。ウガンダのルウェンゾリ山近辺で作られてる豆」
全く知らない名前ばかりだ。そもそもウガンダがどこなのかすら分からない。
「へぇ、詳しいね」
「そうでもないよ」
そう言って彼女は、僕が持ってきたチョコクッキーをかじる。不愛想な感じだけれど、つっけんどんな感じはしない。同じくらいの年の、しかも少女だというのに、雰囲気は昭和の硬派な男。今にも「自分、不器用ですから」とか言いそうだ。
次第に辺りが暗くなって、帰る時刻が近づいた。「じゃあ」と帰ろうとすると、
「チョコクッキー、美味しかった」
彼女が言ったのはそれだけだったけれど、僕には「また持ってきて」という意味が含まれているように思えて、次の日も同じクッキーを持って行った。
それからというもの、僕たちは放課後、そこで会うようになった。僕がお茶菓子を用意して、彼女がコーヒーを淹れる。二人でコーヒーとお菓子を楽しみながら、午後のひと時を過ごした。彼女は多くを語らなかったけれど、二人でコーヒーを飲む分にはかえってその静けさが心地よかった。
月日が経つにつれて、互いに少しずつ話すようになっていった。
「へぇ、生徒会なんだ」
「うん」
「生徒会ってなにするの?」
「基本は学校行事の裏方かな」
「例えば?」
「例えば……学校行事の企画とか、ボランティア関係の仕事、色んな部活との調整とかかな」
「すごいね。私はそういうの苦手だな」
「大和さんは、何の部活だったの?」
話すようになってから一番発展したことは、お互いの名前を知ったことだ。僕は山川湊、彼女は大和春香。僕は大和さんと呼び、大和は湊くんと呼んだ。
「私は……うーん、一年生の時はバレー部にいたんだけど、ノリに疲れて辞めちゃった」
「バレー部だったんだ」
「うん。コーヒーにハマったのもその頃」
学校帰りに二人、路地裏で会って話をするのが、二人の日課になった。その頃には生徒会を引退した空虚感はなくなって、大和と過ごすほんの数十分で日々が充実していった。
ある日のこと。その日は日曜日で、いつもの場所で会う約束はしていなかった。家に籠ってもゲームしかすることが無かったので、気晴らしに外へ出かけた時のことだった。
その日は商店街の、いつもはいかないエリアに足を伸ばしていた。ここの商店街はそこそこの距離はあるが、北と南で栄え具合が全く違う。北上すればするほど洗練されて人通りが多くなり、若いカップルが増えていくが、南下すればするほどシャッターが増えて人通りが少なくなり、高齢者率が高くなっていく。普段はその中間の、ほどほどに栄えている辺りで時間を潰すのだが、この日は少し北上して栄えている辺りをうろちょろしていた。
大型書店を冷やかして出た時、見覚えのある顔と目が合った。
「あ」「あっ」
大和だった。休日だったため、その日はセーラー服ではなく地味なよもぎ色のワンピースを着ていた。
「大和さんどこか行くの?」
「あ、うん。コーヒー屋さんに」
「そうなんだ」
「湊くんは?」
「僕は暇だからぶらぶらしてるだけ」
「ふぅん」
大和はその場に立ち止まって、何かを考えている様子だった。
「じゃあ、一緒に行く?」
「え?」
突然の、それもかなり自然なお誘いに、一瞬硬直した。今までそういう経験が無かったせいか、どうしたらいいか戸惑う。
「どうかした?」
「い、いや! 行く、行きます」
「そう。じゃあついてきて」
「う、うん」
大和に連れられて、僕は栄えている方のさらに北、地域の老舗百貨店がある辺りに向かった。道行く人はみんなお洒落で、自分の野暮ったい服装が恥ずかしく感じる。
「ここ」
大和が指し示したのは、これまたお洒落な雰囲気の喫茶店だった。
入店して席に着くと、テーブルの上にポットやろうとなど、ドリップ用のセットが置いてあった。
「お、春香ちゃんいらっしゃい」
従業員らしき女性が、大和に話しかけた。
「どうも」
「今日は彼氏くんと一緒?」
彼氏という言葉に、大和の顔がうっすら赤くなるのが分かった。
「ち、違いますッ、友達です」
「あらそう。ご注文は?」
「とりあえず、いつものを二人前」
「承知しました。砂糖とミルクは?」
「なしで」
「はい、かしこまりました。少々お待ちください」
そう言って従業員の女性は厨房の奥へ消えていった。
しばらくして、お盆に豆とミル、カップが運ばれてきた。
「お待たせしました、アフリカンスノー中煎り豆そのまま、二人前です。豆はそのままなのでミルで好みの粗さに挽いて、備え付けのドリップセットにて淹れてください」
「はーい」
大和はさっそく、手慣れた手つきで豆を挽き始めた。毎日見ているから知っているけれど、この時の大和の顔はとても穏やかで、つい見とれてしまう。
「そうだ、湊くんもやってみる?」
「僕が?」
「うん。やってみると面白いよ」
言われるがままに手動ミルのハンドルを握らされた。見よう見まねでやってみる。
「あぁ、ちょっと待ってちょっと待って」
「ん?」
「コーヒーミルはゆっくり、丁寧に回すの。湊くん速すぎ」
「え、そう?」
「こうやるの」
大和は席を立って、僕の後ろから両手を包むようにして、ミルのハンドルを握った。高い密着度に、心臓の鼓動スピードが上昇する。
「ゆっくり、丁寧に。優しく、慈しむように」
「う、うん」
「そうそうその調子。粉を挽く速さで粗さが変わって、速く挽くと渋くなるから、できるだけ優しく、ゆっくり回す」
解説を加えながら、大和が指導する。ミルで挽くと、豆の香りがダイレクトに鼻腔をくすぐる。大和がミルで挽くのが好きなのは、ミルのこういうところなのかもしれない。
体験で淹れたアフリカンスノーは、大和のと比べると拙さが前面に出て、飲めなくはないが美味しくはなかった。
それ以降、この喫茶店は第二の居場所になった。通ううちにマスターや店員さんにも顔と名前を覚えられた。月に二回、大和にドリップを教わりながら、コーヒーを飲んだ。大和はきまってアフリカンスノーを頼み、僕も同じものを飲んだ。
二人の会話は、他愛ないものばかりだった。最近起きた出来事、面白い先生の話、そしておすすめの喫茶店の話など。
秋が過ぎ、冬が来て、冬休みを迎えた。いつもの場所で僕たちは、その日もコーヒーを飲んでいた。
「もう来月は試験か……」
「湊くんも私立なんだ」
「うん。大和さんも?」
「……一応、うん」
その時の大和の表情は、いつもと何ら変わらず無表情だった。けれど、どこか思い詰めたような、寂しそうな顔にも見えた。
「そ、そっか。受かるといいね」
返事をせずに、大和はコーヒーを啜る。少し気まずくて、ただ苦笑いしか出来なかった。
「湊くん」
長い沈黙の後、大和がふいに名前を呼んだ。
「私、県外なんだ。高校」
「……え?」
たった一言の事実に、思わず紙コップを落としそうになった。
「お父さんが、この春から大阪の支局に転勤になるから、大阪の高校受けるの。だから、高校に受かったら、もう会えない」
僕は、己の言葉を猛烈に恥じた。何が「受かるといいね」だ。今、この場で一番言ってはいけない言葉だ。自分に対する怒りが、恥ずかしさと後悔とごちゃまぜになってふつふつと湧き上がる。
「……だから、」
彼女が継いだ言葉で我に返った。怒りが鎮まっていく。
「引っ越すまでは、いつも通りいよう。特別じゃなくていいから」
「そうだね」
お別れまでのカウントダウンが、音を立てて始まった。
三月の中頃に引っ越すと知ったのは、つい先日のことだった。大和がぼそぼそ喋る中に、ポロっとこぼれたものだった。
僕はその日から、毎月のお小遣いを貯め始めた。お別れの日に、大和にプレゼントを渡すためだ。女子にプレゼントなんてあげたことが無い僕は、考えに考え抜いて、缶に入った高いチョコクッキーを渡すことにした。
お別れの日が近づいても、大和の様子はさして変わらなかった。いつも通り物静かで、マイペース。変に気を遣わないよう、僕は僕でいつも通りでいるよう努めた。
冬休みが明け、一月、二月と過ぎてとうとう三月が来た。日を追うごとに緊張が高まっていくのを感じた。
そして、春休みに入った頃。
「とうとうお別れか」
「そうだね」
「二人でコーヒーを飲むのも、もうないのか」
「……そうだね」
「出発はいつ?」
「あさって」
「飛行機で行くんだっけ?」
「うん」
「じゃあ、空港まで見送るよ。お別れも言いたいしね」
「そ、そう。ありがとう……」
――ポツ
「ん?」
路地裏の狭い空から、雫が落ちてきた。まもなくそれは群れとなって、雨となった。
「雨だっ! 帰らなきゃ」
「じゃあ、また明日ね」
「うん、また明日」
彼女は無言で手を振って、僕も手を振って路地裏を駆けていく。
そしてその翌日、僕は高熱を出した。
「ちっ……」
布団の中、天井を睨みながら、いきなり降ってきたゲリラ豪雨を恨んだ。
結局熱は引かなくて、お別れの当日に空港へは行けなかった。お別れは言えなかった。彼女はどんな気持ちで、僕を待ったのだろう。連絡先、せめて学校名だけでも聞けば良かった。今となってはもう遅いのに、後悔と自責の念が僕を襲った。
高校生になって一年ほど経ったある日。午前授業で暇を持て余して、なんとなく商店街を北上していた。
栄えている方の最北部に近づく頃、一軒のお店が目に留まった。見覚えのある、お洒落な雰囲気のある喫茶店。
入店すると、コーヒーの香りで充満していた。どこか懐かしさを感じる。きょろきょろしていると、マスターらしき男性と目が合った。男性は何か思い出した様子で言った。
「山川湊くんですか?」
「は、はい……」
男性は拭いていたお皿を置くと、こちらを向いて言った。
「お渡ししたいものがあります。少々お持ちください」
「は、はぁ」
そう言うと男性は、奥から小包を持ってきた。
「春香ちゃんからあなた宛てに荷物を預かっていました」
「えっ」
その名前に、忘れかけていた記憶が蘇った。春香、春香……大和春香。コーヒーが大好きな、あの子の名前。
男性は小包を渡した。僕はそれを受け取ると、近くの席に座って開けた。
「……!」
見慣れた年季の入ったレトロなコーヒーミル、こちらの顔が映りそうな銀色のコーヒーポット、無機質な黒いろうと、きれいに磨かれたコーヒーサーバーに、ところどころ錆びたアウトドア用のガスコンロ。そして、二つに折られた手紙が入っていた。おそるおそる手紙を取って、それを開いてみる。
――湊くんへ
新しいセットを貰ったから、私のおさがりをあげる。私は引っ越すけど、これで練習してね。 春香より
いきなり視界がぼやけて、手紙のペン字が雫でにじんだ。
喫茶店で僕が唯一知っているコーヒー豆を買って、店を出た。久しぶりにあの路地裏の、あの階段に座って、豆を挽いた。ゆっくり、優しく、丁寧に。そして湯を注いで、円を描きながら淹れる。たちまち香ばしい香りが、辺りに漂う。
コーヒーカップではなく、あえて紙コップに入れて飲んだ。ずいぶんと懐かしい酸味と甘み、軽やかですっきりとした口当たり。けれどもそこに、彼女の面影は見当たらない。
薄暗い路地裏。たった一人の階段。コーヒーを淹れて、彼女を想った。元気にしているだろうか、向こうでもコーヒーは飲んでいるのだろうか。中三の秋から、空虚な日々を満たしてくれた思い出の味。一口飲んでみるけれど、やはりどこか、何かが違う。
「ふぅ」
安堵の息を漏らして、ふと空を見上げた。路地の狭い空から、薄い白の月が覗いていた。彼女も同じ月を見て、同じコーヒーを飲んでいるのだろうか。
くっと飲み干して、セットを片づけて路地を出た。
僕と、彼女と、アフリカンスノー。この香りが紡いだ思い出は、写真には一枚にも残っていないけれど、心にしっかり残っている。家に帰ったら、チョコクッキーも食べようかな。そう思いながら、足取り軽く、家路についた。
アフリカンスノー 白洲尚哉 @funatuki
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