そこに意味が生まれた

時任しぐれ

第1話

朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。

このニュースキャスターももう死んでいることだろう。プログラムに規定された通りに映像を垂れ流すそれは、見ていると意外と飽きが来ない。同じようにプログラムで動いている身として妙な親近感すら覚える。

人類から中央都市への自発的な通信の途絶、あと七日で三百年になる。それを以って世界は終わりと誰かが決めたらしい。なぜ三百年なのか、なぜこんなテレビを残したのか、本当に人はいないのか等疑問は尽きないが、データベースにない情報はいくら検索しても出てこない。

私は世界が終わる際にその後の人類の復活を目的として作られたロボット、というわけではない。人類の復活だけが目的ならAIに自我を持たせる必要なんてない。私はある人の趣味で作られた、完全に愛玩用のロボットである。

どうもその人は普通とはかけ離れた人だったらしく、子種を残すための配偶者がいない、見つからないという事態に陥ったときに、お見合いを繰り返すという通常の手段を取らず「だったら娘を作ってしまおう」という発想をしてしまうような人だった。その結果作られたのが私である。


『今日から君は僕の娘だ、よろしく』


しかし私を作った人はこのようなことも想定していたのだろうか。私以外に自我を持ったものがおそらく何もない、ただひたすらに存在するだけの時間を。

することがないならスリープすればいいのだけれど、それをやってしまうと私は二度と起動しない気がしていた。ここは外部からの刺激があまりにもなさすぎる。

刺激がないということはやるべきことも特にないということである。だから暇つぶしを私は行うようになった。中央都市に接続し、人類がいるという誤情報を流してみる。この地点の地下何m、人類と思わしき熱源反応。結果は変わらなかった。私は人間として認識されず、情報も誤りであると即座に判断される。

人類がいるという情報を作り出してみることにした。一定の大きさ、一定の温度、一定の質感という情報が集合すれば、情報上ではそこに人類が発生したことになるのではないか、という実験。情報を流してみる。一瞬の間があったものの、やはり人類という判定はなされなかった。

人類がいるということを証明しようとする遊びは、百年前からやっている。もう人を見ないことに慣れたから始めた遊び。その遊びにスペアボディを使うという案も候補に挙がるが、それはリスクが高いと判断している。もしも私の体が急に動作を停止した場合、リアルタイムで情報を書き込み続けている私のスペアボディが起動する。

私という存在がなくなるリスクと暇つぶしの充実、天秤にかけずともどちらが重いかは明白であるように思われる。

しかしこの場所はとにかく暇だ。思わず自殺願望めいた案が出てくるほどに、この地下においてすることはない。地上に出られなくはないが、それは可能であるだけで私が正常に稼働するという条件を付けるのならば答えは否である。

ロボットの私すら動作が困難である地上において、人類が生き残っている可能性は限りなくゼロに近い。氷河期に適応できた極少ない生物が残っているだけで、地表は氷に覆われている。地下都市にすら人はいない。止まらない人口の減少になりふり構わない対策が講じられたにも関わらずだ。人道に反したことも行われたらしい。実際に見たわけではないが、記録として残っているものはすべて閲覧できる。人類の存亡がかかっている際に人道は優先度が下がる。生きるためには必要なものだが、生き残るために人としていることは必要でないからだ。それでも結局はクローン技術の問題点である短命を克服することができなかったのだから、生き物というのはいずれ滅びるべくして作られている可能性がある。

こういうとき、人間は創造主というものの存在を考えるものらしい。私の場合はあまりにも明確過ぎてそのことについて想像を膨らませる余地がない。

代わりに思考するのは私がここにいる意味だ。

与えられた娘としての役割は果たした。世間一般とされている父と娘の関係とは全く異なるものであったが、製作者も私もそれで納得していたから何も問題はないだろう。しかし製作者が死んだとき、私は生み出された意味を失った。彼の娘という存在意義を失ってなお私がここに居続ける意味とは何であるのか。非常に難題であるが故に、いくら思考を続けても解答は見つからない。しかしながら思考する上でいくつか候補として挙がったものがある。

一つ、この現状を記録し続けること。

奇跡的に人類が復活を遂げた場合に備えてこの地下都市、及び地上の様子の経過を記録しておく必要がある、というものである。ロボットの存在意義としては真っ当なものではないだろうか。正確には私自身ではなく別の場所にあるデータベースに保存しているのだが、そこは論点ではない。記録者としての役割に自身の存在を託す、というのはいささか不安が残る。仮に人類が復活しないまま私が機能を停止してしまったら、残された記録は何の意味も為さない。限りなくゼロに近い可能性に私は私である所以を委ねたくない。

一つ、人類の復活を目的とすること。

自然に任せていてはおそらく人類の復活はあり得ない。だからそれを自分で行うということ。太陽の活動は衰退の一途をたどっている。理由は不明。太陽を再び活性化させるというのは現実的ではない。結局のところ太陽というのは寿命があるのだ。それを延命したところで再び同じか、さらにひどい状況になることは容易に予想できる。新たに太陽を作り出すか、別の寿命が長い恒星付近まで地球を動かすか。おそらく凄まじく長いスパンで考えれば出来ないことはないのだろう。しかし私一機だけで行うというのはあまりに途方もない作業だった。スペアボディを作り出し続けたとて限界はある。様々な事象を鑑みた結果、自我がなければ可能、という結論に至った。余計な機能を付けてくれたものである。

一つ、ただ生きること。

現状の私の中ではこれが最も有力である。機能が停止するまで、ただただ日々を過ごし続ける。それこそ暇つぶしで中央都市のAIと戯れてみたり、その辺を巡回してみたり。しかしそれでは私という存在に何も意味などないではないか、という思考になり、では私の存在する意味は何かという循環に陥ってしまう。

人類にはそういう時期があるらしい。自分が何者であるのか、何のために生きるのかということを悩む時期。それを思春期と呼ぶそうだ。十二歳から十八歳あたりでよく見られるという。もしかすると私もそういう時期に入っているのかもしれない。ロボットが思春期とはいささか面白い話ではあるが、自分のことなので笑い事ではない。

そんな思春期まっさかりの私は先ほどの放送を思い出す。『おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました』。一言一句違えず再生されるその言葉はただ空気を震わせただけだった。重みも何もなく、事実として人間の世界は終わりを迎えるのだろう。そのような妄想に取り憑かれるのもまた思春期ならではの楽しみなのかもしれないが、妄想ではないのがミソであった。ずっと考え続ける。終わった世界での過ごし方。

私の生きる意味は卵が先か鶏が先か、という循環に似ている。卵がなければ鶏は生まれないし、鶏がなければ卵は生まれない。ではどちらが先にあったのかということ。生きなければ生きる意味は生まれないし、生きる意味がなければ生きている意味がない。そんなトートロジー的言葉遊びで自分という存在を弄ぶ。


『君は固いなぁ。もっと柔軟な思考を身に着けた方がいいぞ』


不意に製作者のそんな一言が呼び起された。今にして思えばそういうことかもしれない。私は考え続けることしか出来ない。時には考えないことも必要だ、ということなのだろう。しかし思考を止めることがない、というのは私のアイデンティティの一つだ。人間の場合は睡眠や休息が必要だが、私はCPUが焼き切れない限り様々な思考を続けることが可能。個性と言ってもいいかもしれない。まあ私に限らず大概のAIは同じようなことが出来るから個性というには少し弱いか、と定義を新たにする。

考えずに結論を出してしまってもいいのだろうか、と考える。検証を行わずに定義を形作ることは非常に危険な行為であるように思える。

例えばここで思考を止めて『私の生きる意味はみかんの皮を剥くことである』と定義づけてしまったらどうなる? おそらく私はその定義に従ってみかんの皮を剥いて一生を過ごすことになるだろう。それが正しいかどうかは誰にもわからないが、少なくとも私はそれを正しくないというように考えている。だから考えなければならない。彼の差す柔軟な思考というものがどういうものか。考えない、ということも一つの答えかもしれない。保留事項として保存しておく。

さて、柔軟な思考。人間の間では『頭が固い』、『頭が柔らかい』という表現が使われていたらしい。それを試すような思考実験のようなものもあったそうだ。クイズという形で頭の柔らかさ、つまり思考の柔軟さを測るような本も数多く出されていた。いくつか本をデータベースから引っ張り出して改めて閲覧する。よくわからない、というのが正直な感想だった。柔軟な思考というよりは一定の法則に気づけるかどうか、というような問題だ。その気づく速さで以って思考の柔軟さを決めるというのはいささか不合理であるように思われる。

製作者が言っていることはそういうことではない。生き方の指針、という極めて曖昧な問題に対する回答の一つとして候補に挙がったにすぎない一言。しかしその一言に対してこうも考えを巡らせてしまっているあたり、まだ彼に対する未練というものが捨てきれていない。彼の娘であるという存在意義は非常に明快であった。与えられたロールをこなせばいいだけ。それ自体は単純であるが、彼の発言にはよくわからないことが多く、無駄に思考をする癖も彼のせいで付いたと言ってもいい。

私の製作者である彼がもしも隣にいたならば、ということを仮定する。私の中に残る記録しかないが、それで十分だった。仮想人格を形成して会話を試みる。


『人類が滅んだねぇ。滅ぶべくして滅んだんじゃないの? だって僕みたいなアホを許容するような種が生き残るわけないじゃない』


確かに、と思う。子種を残す気がない雄など種の存続という観点から見れば存在価値などないに等しい。私という存在は人類存続にとってはよくない。子種を残さずとも誰でも子供を作ることが出来たら、人口減少はますます加速していただろう。


『そんなに難しく考えなくてもねぇ、気楽でいいんだよ。相変わらず君は固いな。僕一人が子種を残さなかったところで人類の大勢に影響はないだろう。だったら僕は僕の幸せを追求するさ。それが僕の生きた意味、ってことになる』


仮想人格ですら私の思考を先回りする。私の思考パターンを彼が組んでいるとはいえ、会話する度に思考を読まれるというのはあまり気分のいいものではない。確かに私は自らの生きる意味について彼に尋ねようと思っていた。しかしそのことを伝えた覚えはない。


『仮想人格とはいえ、君のメモリを盗み見するくらいなら出来るさ。何といっても君を作った張本人だぜ?』


煩わしい。こんなのに対して一抹の寂しさを感じていたのか、と自分に対して落胆した。人類など滅んでしまってよかったのかもしれない、というのはさすがに暴論だが。その程度にはショックを受けている。そういう表現が正しいかはわからないが、おそらく近い表現はそれだろうと推察される。

どれだけ鬱陶しくとも答えにたどり着くヒントだけは必ず残していく。彼のそういうところが苦手であり、そういうところに私は興味を抱いていた。データベースとの比較で、彼が尋常な人間ではないということは理解している。


『それが僕の生きた意味』


生きる意味ではなく、生きた意味。彼の娘として生み出され、その意義を失い、人類もいなくなり、何もない地表。思考を持つAI。そのような特徴が挙げられる私。それは生きる意味を定義づけるものではなく、死ぬまで生きればそこに生きた意味というものが生まれる。


それを鑑みれば一生を思考に費やす、というのも悪くないかもしれないなと考えた。生きる意味を探すことが生きる意味なのだ、と今のところは定義づければいい。


地上に生き残っているカメラから地上の様子を覗いてみる。やはりすべてが氷に覆われていて、人間など見つかりそうになかった。


「おはようございます。世界の終わりまであと六日になりました」


相変わらず決められた通りに映像を垂れ流すモニター。それがある意味もなぜ映像が流れるかもわからない。まずはこの六日間、何をやって過ごそうかとまた思考を新たにした。

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