君の中で終わった出来事になっただけ
さて、なぜこのようなことを書こうと思い至ったか。
つい先日、私がフォローしていたある書き手さんがカクヨムを退会されました。
何の予兆もなく、その方の作品が突然読めなくなるという事実にただただ衝撃を受け、「物事の終わり」とはこんな簡単に訪れるのだと気付かされ、筆を走らせたわけです。
もちろん今までも全く無いわけではありませんが、まだカクヨムを手探り状態で使っていた時に辿り着いた方だったのでさらに衝撃が大きかったのです。
だって、消えてしまったらそれでおしまいです。
物語の続きはもう読めない。
私の基本的な信条に「物語は終わらせることに意味がある」というものがあります。
極端に言えば、生まれた物語は終わるまで作品とは呼べないという責任論でもあります。
ただし、終わらせるのが作者であるとは限りません。
例えばドラえもんだってクレヨンしんちゃんだって、作者の死語も物語は続いています。
これはその作品に感銘を受けた誰かが物語を紡いでいるからです。
直接その作品の続きを書かなくたって、影響を受けたその人が後の世に伝えることで未完の作品を誰かが終わらせてくれるかもしれない。
そして物語が終わることによって、新たな物語が生まれるのです。
その一区切りを「作品」と呼んでいるに過ぎません。
「本能寺の変」も「徳川幕府」も「大政奉還」も同じようなものです。
この事件が、出来事が、それを起こした人々の信念が、多くの人の心に響いたから後世まで伝わっているのです。
つまり、誰かの心に何か響くものを与えることが出来たなら、その物語は例え終わっていなくとも続いている、誰かが終わらせてくれる可能性が残されている、と言えるのではないでしょうか。
私がこれまでに挙げてきた「侍魂」や「ろじっくぱらだいす」というテキストサイトはまだ残されています。
一方で「みんなきてKOIKOI」というテキストサイトは残っていませんが、ネットで調べればどのようなサイトだったのか、という情報は出てきます。
ちなみに一言で言えば元祖YouTuberみたいな人です。
たとえ更新が途絶えていても、後世へ語り伝えるものがいる限りはそのサイトは真の意味では終わってはいないのです。
むしろ「みんなきてKOIKOI」を見てYouTuberになりました、なんて人もいるかもしれない。
彼にとって、ひいては彼の視聴者にとっては「みんなきてKOIKOI」は続いているのです。
また「しるぅwind」は今や検索しても出てこないようなネットの歴史に埋もれていった遺物となってしまいましたが、私が今ここで取り上げたことで何かが変わるかもしれません。
そしてそれはたとえ私がこのエッセイを削除したとしても、カクヨムを退会したとしても、もしも誰かの心にほんの少しでも爪痕を残せたのなら、紡がれていくのです。
インターネットは不滅かもしれないし、そうではないかもしれない。
でも、終わりを迎える瞬間はいつ起きてもおかしくないわけで、いつでもどこでもそこにあって当たり前のもの、という幻想は抱かない方が良いかもしれません。
インターネットは不滅などという幻想 いずも @tizumo
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