パラダイス行きのバスに乗って

Jack Torrance

待ち時間

バスターミナル。


希望に満ちた表情で夢を抱いて新天地に向かう者。


憂鬱な面持ちで夢に破れて郷里に帰る者。


今と未来と過去とを繋ぐタイムマシーンのような始発地であり終着地のような場所。


運否天賦のグレイハウンドに乗り込む乗客達の運命は?


そんなバスターミナルに一際目を引く老人がいた。


モップの柄でも丸呑みしたかのように直立不動で胸を張って両腕を組んで立っていた。


大地に根を下ろした大木のように悠然たる面構えだ。


白いカウボーイハットに上下純白なスーツ。


足元は白蛇の皮で特注されたウエスタンブーツ。


ノーネクタイでYシャツの首元はラフに開(はだ)けていた。


アルビノのように透き通った純白な肌の顔には深い皺が刻まれており老人が歩んできた人生の年輪を感じさせた。


カウボーイハットから覗かせる短く刈り込まれた頭髪も顎に蓄えた長い顎髭も白馬の鬣のように真っ白だった。


ヒップでダンディと呼ぶに相応しい毅然とした出で立ちだ。


老人は灰色の瞳を右へ左へと動かしながら何処(いずこ)行きのバスかをチェックしていた。


あたしはニュージャージー行きのバスまで待ち時間があった。


ただ単に自分を気遣いの出来る女に見せたかったのかも知れない。


もしかしたら、誰とでもいいから喋りたかったのかも知れない。


あたしは老人に声を掛けた。


22年務めた広告代理店をリストラされ、母が一人で暮らしているニュージャージーに帰る途中だったから。


「おじいさん、後ろにベンチがあるから少しお掛けになりませんか?バスが来たらあたしがお教えして差し上げますわよ」


老人は白い歯を覗かせてにこりと笑って言った。


「おお、それはかたじけない。それでは、お言葉に甘えて少し座らせてもらうとしようかのう」


老人の右足の横に置かれていた手荷物は籐で編まれた褐色の小型トランクだけだった。


「どちらまでお出でになられますの?」


老人は子どものように無邪気な笑顔で答えた。


「パラダイスじゃよ」


パラダイス?


あたしは、カリフォルニア州シエラネバダ山脈の麓のパラダイスだと思った。


老人が尋ね返してきた。


「あんたは何処まで行くんじゃね」


あたしは返答に些か戸惑ったが素直に答えた。


「あたしは行くってよりも帰るって言った方が正解なんです。22年務めていた会社をリストラされちゃって母が一人で暮らしているニュージャージーに帰るとこなんですよ」


老人はあたしの返答にどう答えるべきかと少し思案し静かに声を漏らした。


「それは災難じゃったな。でもな、物の見方を変えればそれも満更捨てたもんじゃなかろうて。あんたは幸い元気そうじゃしあんたには帰る家もある。あんたくらいの年齢ならばお母さんももう高齢じゃろうて。あんたが側に居てくれたらお母さんも心強かろうし助かるじゃろうからな。再起するもせんも己のやる気次第じゃ。あんたにはそれが出来るとわしは思うがね」


「初対面の方にそんな事を言われて励みになりますわ。おじいさんはご旅行かしら」


「ああ、そうじゃよ。まあ、旅行と言うよりも移住と言った方が正しいのかも知れんがね」


老人は右手を上着のポケットに突っ込み葉巻とマッチ、シガーカッターを取り出した。


「やってもいいかね?」


あたしは「ええ、どうぞ。お構いなさらないでください」とにっこり微笑んで言った。


老人はシガーカッターで吸い口をカットし銜えるとマッチでじっくり炙って火を点けた。


シガーカッターとマッチをポケットに滑り込ませると気持ち良く葉巻を燻らせながら語り出した。


「去年に55年連れ添ったかあちゃんもわしより先に旅立ちよってな。気立ての良いかあちゃんじゃった。愚痴の一つも零さずにわしの好きなように何でもさせてくれた。何でわしみたいな自由気儘な偏屈じいさんと一緒になったんじゃと尋ねたらの『そんな自由で何事にも縛られないあなたに魅力を感じたからですよ。それに、あなたはあたしの事を何よりも大事にしてくれたし、娘達にも掛け替えのない愛情を降り注いでくれたからじゃないの』と言ってくれてな。わしは嬉しかったよ。わしは、バーを経営しておったんじゃが朝家に帰るとかあちゃんがいつも温かい飯を作ってくれておってな。マカロニチーズグラタンは絶品じゃったよ。娘が二人いるんじゃけどな。53と50になりおった。結婚もして孫も皆手の掛からんように大きくなりよった。もう立派な婆ちゃんにもなりよってな。曾孫も二人おってこれが可愛くってな。この前まで子供じゃと思っておった娘が母になり、今では婆ちゃんじゃからな。娘の運動会でかけっこで転んで足の骨を折った時には娘に後遺症が残るんじゃなかろうかと心配してな。夜に高熱が出たり食中毒になった時にも心配が耐えんかった。つい、この前のように感じてしまってな。かあちゃんと娘を養うのにわしもバーを経営しながら寝る時間とほんの僅かな時間以外はずっとバーに立っておってな。その勤めからももう放免じゃ」


老人は感慨深そうに過去の楽しかった記憶も苦労した記憶もフラッシュバックしているかのように切々と語った。


また大きく煙を燻らせると感慨深げに老人は独り言のように発した。


「79年間、長いようで早かった。短いようで色んな山や谷を苦労しながら突き進んだ長い道のりじゃった。今、思えば楽しい思い出も辛かった思い出もわしの財産じゃ」


その表情は享楽に興じた後の昂揚感と愛する人との別れを惜しんだ後の悲壮感が入り交じったような複雑な名状し難い表情だった。


あたしは老人の言葉に耳を傾けバスの行き先のプレートを同時進行で目で追いながら複雑な気持ちに捕らわれた。


すると、パラダイス行きのバスが100フィート右に見て取れた。


「おじいさん、バスが来たようですわ」


「おや、そうかい、ありがとう。ところで、あんた、結婚はしとらんのかね?」


「半年前までは付き合っていたパートナーがいたんですが残念ながら破局しちゃって」


「わしが、もう20ばかし若けりゃあんたみたいな上品で気立ての良い女性にアプローチするんじゃがな」


「もう、嫌だわ、おじいさんたら」


あたしは老人の左の上腕部をポンと叩いた。


「あんたもまだ若いんじゃからお母さんと元気で達者に暮らすんじゃよ。娘と話しとるようで楽しい時間じゃった。ありがとう、こんなじいさんの世話を焼いてくれて」


「いいえ、こちらこそ、亡くなった祖父のようで心が和みましたわ。どうぞ、お元気でいてくださいね」


あたしは老人の右手を両手で握った。


節榑立ったゴツゴツとした手までもが老人の人生を物語っていた。


老人も両手であたしの手を握り返してくれた。


バスが乗降口に来た。


乗っていた先客は6人ほどで皆が楽しそうな笑顔を浮かべていた。


乗降口の所で老人はカウボーイハットを手に取りこちらを振り返って大きく手を振った。


バスの後部座席に移動してから腰を下ろすとウインクして親指を突き立て何か言っていた。


多分、唇の動きから「グッドラック」と言っているに違いない。


バスが動き出した。


あたしも右手を頭上に翳してバスが見えなくなるまで手を振った。


一期一会。


やはり、人との別れは寂しい気持ちになる。


先程、老人と座っていたベンチに腰を掛けて老人が座っていた座面を見た。


パスポートみたいな物がベンチの上に忘れられていた。


あっ、あの時、葉巻を取り出していた時にポケットから落としたんだわ。


あたしは中身を改めた。


老人の氏名はエディ ワイズマン。


よく見ると生年月日が記されているのは当然だが、このパスポートには没年月日も記されていた。


1998年10月16日。


今日から2日前の日付だった。


幽霊?


でも、老人の手の温もりがまだ両手に残っている。


もう、ドジなおじいさんね。


あたしはクスっと微笑んでパスポートをハンドバッグに仕舞った。


おじいさん、天国の入り口で困るだろうけど、奥さんがちゃんと迎えに来てくれるだろうから大丈夫よね。


おじいさん、79年間お疲れ様でした。


奥さんとゆっくり黄泉の世界で過ごしてくださいね。


暫くするとニュージャージー行きのバスが来た。


何だか、無性に母の手料理の味を欲しているあたしがいた。


老人との会話で私は自分の進む道を示してくれたような気がした。


ここからが再出発。


あたしは老人の言葉を胸に刻んで母が待つニュージャージー行きのバスに乗った…

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