隣音

和団子

「……聞いてください、聞いてください、聞いてくださいよ。私の友人、いえ、ルームメイトの身の上に起こった恐ろしい出来事を。


 学生の頃ーーおよそ10年前のことなのですがーー私は大学近くのアパートでその友人とルームシェアをして2人で暮らしていたのです。2階建てのワンフロア2世帯、合計4世帯、うち1階の1室はオーナーの仮宿でして、正方形に近い小さな建物でした。

 鉄骨でしたが築30年以上の古屋でしてね、外付けの階段の手すりもすっかり風化してしまって錆だらけ。トタンの軒もちらほら穴が空いていて、雨の日は部屋に入る直前まで傘を差していましたよ。

 しかし、上京して身寄りも金もない当日の私にとっては十分すぎる下宿先でした。友人も同じ境遇でしてね、里は違えど垢抜けない同士、また映画好きという共通の趣味もあって入学前からウマが合いました。学生宿なもんで、オーナーも慣れていたのでしょう。特別な許可もいらずに、8畳のワンルームに男2人の入居を快く許可してくださいました。


 今思えば、これが全ての間違いだったのです。私にとっても、友人にとっても。学生のキャンパスライフに東京の華やかさもあって入居当日はまったくは考えてませんでした。あんな恐ろしいことが起こるなんて!


 すみません、脱線しましたね。たとえ10年の月日が経ってもあの恐ろしい記憶は鮮明に残っているのです。思い出しただけで手は汗ばみ口が震えてしまう。

 はぁ、話を戻しましょう。ええと……アパートの説明は終わりましたね。そうそう、私と友人は同じ大学に通ってましたが学科が違ってましてね。私は史学科で歴史や考古学を、彼は美術や芸術の専攻でした。だから微妙にライフスタイルがズレていまして、生活費のためにお互いバイトもしていましたから、水曜日と金曜日は私の方が先に起きて大学に行き、帰りも私の方が遅かった。私は居酒屋でバイトをしていまして、書き入れ時の金曜日には日付が変わっての帰宅はよくありましたよ。だから彼と映画観賞をしたり考察をしたりする時間は、土日の休日か、どちからの講義がたまたま休講になって暇になった時くらいでした。

 それでも私も彼もルームシェアを楽しんでいましたよ。気持ち悪いかと思いますが、休みが重なった日には洒落た喫茶店へ行こうなんて、まるでカップルみたいな計画も立てたものです。


 はぁ、すみません、水を一杯だけ……。

 どうもありがとう。いやぁ、この話をすると気分が悪くなるのですよ。視線を感じると言うか、誰かに見られているような心地がしてーーえ? いやいや続けさせてくださいな。ええ、ぜひとも。


 ルームシェアをするとお互いの嫌なところに目が行って仲が険悪になると言うじゃありませんか。男女ならなおさらです。が、私と友人はそんなことはなく、忙しくても平々凡々な毎日を共に過ごしていました。

 夏休み前です。春期講義も概ね最終週になりましてね。レポートやテストも一通り片付けて、さぁ夏休みはどうするのか? 帰省するのかなんてコーヒーを飲みながら話してました。今でも覚えています。よぉく覚えていますとも! そのコーヒーはお互いのなけなしの銭を合わせて買ったインスタントの苦いコーヒーでした。週末に録画しておいた映画のビデオを見ている最中でしたよ。お互い楽しみにしていたのですが、これが思いのほか詰まらなくて。2人とも途中で飽きて、意識が夏休みに移ったのです。


 私は1週間ほどバイトをしてから里に帰ると言うと、友人も同じようにすると言いました。お互いのんびりしよう、土産は何が良い? 美味いものが良い、なんて話したことも覚えています。


 流していた映画もエンドロールに入って、愚痴の1つか2つ呟きながらコーヒーカップを片付けようとしたその時でした。

 ピンポーン、とチャイムが鳴りました。誰かしら? とドアを覗いてみるとですね、ニコニコと爽やかな笑顔をした男女のアベックが手に小さな包を提げて立っていたのですよ。面食らってますと、なんでも「隣に越してきました。どうぞよろしく」と男が言って、持っていた包を渡して来ました。

 引っ越しの挨拶でしてね、私はそれまで隣が空室なんて知りもしなかったもので「はぁ」と気の抜けた返事をしました。 


「それじゃ、片付けがあるので」とこれまた爽やかな笑顔でアベックはそそくさを隣室に帰りましたよ。精悍な青年に小柄で黒髪が綺麗な女性。まるで絵に描いたような青春真っ盛りのアベックでね、そんな間抜けな返事をしてしまった羞恥心よりも憧れと言うか、羨ましい気持ちになりました。


 友人に「誰?」と聞かれたので顛末を説明してやると、彼もまた隣が空いていたことは初耳だったらしく驚いていましたが、次には「耳をすませばが聞こえてくるかもしれないぜ」なんて笑ってましたよ。


 別に意識してた訳ではないんですがね……ああ、その時の友人の言葉を、ですよ。男女の営みだとか、私には遠い世界でしたから。ですがね、聞こえてきたのですよ。


 深夜の1時ごろでした。

 キィキィ……キィキィ……と。


 友人も気付いたみたいで、ついさっきまでいびきをかいていたのに、ほら見たことか! と目をひん剥いてました。


 キィキィ……キィキィ……。しかし、いくら耳を澄ましてもどれだけ待っても、期待していたような艶めかしい色声は無くて、ただただ何かを引っ掻いているようなその音ばかり聞こえてくるのです。辛抱強く隣室に耳を預けてましたけど、それから発展することもなく、結局は引っ越しの片付けの音だろうというとことで、友人と2人で落胆したのです。


 ですがね、その音は、それから毎晩決まって深夜1時ごろに聞こえてくるようになったのです。

 キィキィ……キィキィ……。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る