最終話


 食器棚でもいい。本棚でもいい。薄型の液晶テレビでもいいのだけど、なにか大きなものが倒れかかってくる時、咄嗟に考えるのは「支えなくては」ということだ。

 内側から湧き上がる地鳴りと揺れの予感にシンクに重ねた皿を押さえた経験が私にもある。


 だが、倒れかかってくるのが古い石垣や大木ならどうだろう。とても支えきれるはずもないから、出しかけた両手を引っ込めて素早く身を交わす。当然そうすると思っていた。

 それは無知などではなく、幸いにもいざという瞬間に立ち会わなかっただけであり、支えられるはずのないものを「支えなくては」と考えてしまう愚かさが人にはあるとまだ知らないだけ。




 テレビを消すと静けさが痛くて、ろくに見てもいない深夜番組の音量をあげる。若いアイドルの女の子が手を叩いて笑っている姿が映ると、ほんの少しだけ落ち着かなかった気持ちが紛れた。


 間壁さんが戻ってきたのは、午前二時を過ぎた頃だった。


「真野ちゃん、どうしたの」


 普段は眠たげな目が縦に開かれ、間壁さんは忍び込む北風を遮るようにして扉を閉めた。


「もしかして、待っててくれたの?」

「違います。待ってません、断じて、待ってないです」


 そう言ってはみるものの、ぽかんとした顔がいたたまれなかった。下瞼に張り付いたまどろみを擦っても、自分ですら飲み込めないような言い訳しか出てこなくて、つい少し前まで持て余していたはずの時間が恨めしかった。


「待ってないけど、お腹が空いたので間壁さんが冷蔵庫で冷やしてたプリン、食べました」


 間壁さんの上着を脱ぐ手が止まった。ぶつかった視線に耐えられそうにないのに、つけたままのテレビの音がどこか遠くて役に立たなかった。


 実のところ、どうしてこんなことをしているのか自分でもよくわからなかった。とても難解なことを考えていたような気がするのに、振り返ってみれば酷く簡単なことのようで、うまく言葉にはならなかった。


 ただ間壁さんという人を見ていると、彼はきっと押し潰されるとわかっていても支える側の人だろうと思った。「俺は特になんもないから」と平然と言ってのけたことが、何度も頭の中を巡って離れないのだった。


「いいよ、買ったことも忘れてたし」


 間壁さんは上着をハンガーに掛け、応接用のソファに浅く腰掛けた。

 寒そうに赤らんだ顔は緩み、呆気にとられたような沈黙の糸は知らぬ間に千切れていた。かすかにほころんだ唇だけが薄っすらと白く掠れている。


「あとおやつも。子猫が来たので勝手にあげちゃいました」

「はは、食べ物くれる人がわかるなんて、あいつも現金なやつだな」

「怒らないんですか」

「どうして。怒らないよ」


 怒るわけないよ、と繰り返した声はとても優しかった。その優しさの分だけ、私の中の何かが激しく動いた気がした。


 はじめに思い出したのは子猫のことだった。そんな馬鹿なことを、と思うのに、間壁さんがいなくなったらあの子に誰がおやつをやるんだ、とも思う。


 こんなことを考えるのはあの夜のせいだ。絶対に、彼のまとう夜のせいだ。


「私は、怒ってます」

「え?」


 また、その顔。間壁さんの表情の幼さに喉の奥がぐるりと籠もる。しかしそれでも声は力任せにぎこちなく歩みを止めない。


「知り合いがいるって、あれ、本当ですか」


 間壁さんの目がはっきりと私を見た。目を逸らさないように気をつけながら唇を引き結ぶと、間壁さんは困ったように少し笑った。


「急な飛び込みの依頼なんて、懇意でもないうちみたいな小さい会社には普通来ないから。よっぽど困ってるんだろうと思って。俺、そんなにわかりやすかった?」


「そういうわけじゃないですけど、」


 あの時、本当は誰もがわかっていた。受話器越しに漏れる掠れた声を、泣きそうに震える手を、みんなわかっていた。わかっていたけど応えようはとはしなかった。

 それは誰に咎められることでもない。


 だから間壁さんの笑顔に安堵した。問題が解決したわけでもないのに、与えられる言葉を水のように飲み干した。

 みんな安心して気づかずにいられたのだ。


 わかりやすくなんてない。

 あの瞬間、凍りつきそうな部屋を満たしたものは確かに温かく、間壁さんはあの場所で誰よりも巧妙に大人だった。


 ただ私だけがあの平らかな言葉の連なりを、隠すのは“ある”ことの証明であることを、誰にも知られないままでいたかもしれない湿った痛みの在り処を。

 ただ私があなたを、見ていただけ。


 ふっと両手の力が抜けた。空回っていたものが自然とほぐれていくように、緊張がずるりと落ちて灰になった。

 間壁さんに向かって「はい、わかりやすかったです」と口角をあげると、照れたように眉根を寄せるのがおかしかった。


 急激な芽生えだった。

 答えははじめから用意されていたようにも思えるが、この瞬間が訪れるまではあまりの透明さで息を潜めていた。それが今では呼吸に合わせてゆっくりと上下し、鼓動すら感じられる。


 夜が明度を下げていくのと裏腹に、部屋の温度はひたりと上がる。テレビから流行りの音楽が聞こえてきて、二人の間をいたずらに埋めていく。


「聞いてもいいですか」

「どうぞ」

「なんて呼ばれたら嬉しいですか」

「そんなことはじめて聞かれたなぁ」

「誤魔化さないでください」

「誤魔化してないよ」

「本当の名前で呼ばれるのは、嫌ですか」


 間壁さんの視線が宙に浮く。

 何かを考えるように低く唸った声は万年筆で引いた線のように柔らかく、そして唐突に途切れた。


 間壁さんの目尻が笑って、


「どうだろうね」


 と、はぐらかした。隠していることを隠そうともしないその仕草で。


 「飯でも食いに行こう」と言う間壁さんと連れ立って外へ出ると、寝静まった町の景色に雪を撒いたような光が乗っていた。遠くの空が白み始めている。風は吹くのをやめ、ぬくもりが差し込もうとしていた。


 私達は近くのファミレスの明かりを目指して歩く。冷たい指先に心臓の音が鳴る。白い息を吐くたび、それはゆっくりと呼吸する。



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そして透明は鼓動をはじめる。 七屋 糸 @stringsichiya

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