第3話
どこにでも咲いている花に名前が付いただけ。たったそれだけなのに、知ってからというもの白く細長い花弁が風に揺れるのを一層良く見かけるようになった。
アベリアは東京で務めていた会社の雑居ビルの屋上に植わっていて、隣でダルそうに電子タバコを咥えた先輩が気まぐれにその名前を教えてくれた。社会人になって唯一できた気安い相手だったが、私が辞めるより二年も前にいなくなり、それ以来連絡を取っていない。
間壁さんのことも以前よりはいくらか詳しくなった。出来損ないだった塗り絵に明確な線が走り、淡いながらも全体に薄っすらと色が入って人間らしくなっていた。
まず、彼は思っていたほど無愛想な人ではなかった。
言葉数は少ないが話し方が丁寧で、何かを説明するときには新入りの私にもわかるように言葉を選んでくれる。仕事のミスやトラブルには厳しいが、不機嫌さを引きずらない。煙草を美味しそうに吸うが、甘いものも同じくらい美味しそうに食べる。作業着に油染みや汚れが目立つが、靴だけはいつも綺麗にしている。
一度意識に昇れば存外些細なことまで見えるものだった。
だが載せられる色はそれが全てで、それ以上は濃くも薄くもならず、気がついた事柄を話題に親しくなるようなこともなかった。
間壁さんの寡黙さ以上にそもそも顔を合わせる時間が少なかったし、何よりきっかけもなく一回りは歳の違う男性に気安くなれるほど、私は陽気な人間ではなかった。
「真野ちゃん」
暗がりから名前を呼ばれ、すぐに言葉が出てこなかった。間壁さんの方も、定時をとうに過ぎたはずの私が事務所の裏口に現れたことに驚いたのか、すぐに二の句を継がなかった。
代わりに彼の足にまとわりついた一匹の猫が「にゃあ」と行儀よく鳴き、黙りこくった夜にささやかな明かりを灯した。
「珍しいね、忘れ物?」
「あ、はい。ちょっとお財布を」
「この辺、夜は暗いから気をつけなね」
「ありがとうございます。で、えっと、間壁さん、その子、」
「うん、猫だね」
「さすがに見ればわかりますよ」
だよね、とつぶやいた困り顔が面白くて思わず笑ってしまった。
これはあれだ、今年から幼稚園に通っている甥っ子が両親から怒られると察したときの、あの顔に似ている。
尻尾をくにゃりと揺らす子猫の頭を撫でながら、一ヶ月くらい前からかな、と間壁さんは言った。
「持ってた煮干しやったらすっかり懐いちゃって。住み着いたらどうしようかと思ったんだけど、案外賢いやつでさ、俺がひとりのときに限って遊びに来るんだよ」
いつもよりほんの少し早口で説明しながら、間壁さんは持っていた猫用のおやつの袋の口を丁寧に折りたたんだ。確かによく懐いているようで、間壁さんの靴にぴったりと身を寄せて離れず、よく磨かれた革には白い毛が張り付いていた。
もしかして、このために彼はいつも靴を綺麗にしていたんだろうか。
「私も好きです、猫」
そう言うと彼はほっと息をつき、わずかに色づいた笑みで子猫の顎を撫でた。
「間壁さんの名前って、どこの国の名前なんですか」
事務所へ戻りながら聞くと、間壁さんはまた困った顔で首を傾げた。
付けっぱなしになっていたテレビから平坦なニュースキャスターの声が流れてきて、隣県の山の火山活動が活発化しているとしきりに繰り返す。
「たぶん、ピンとこないと思うよ」
「そんなに珍しいところなんですか」
「うん、自分でも時々忘れるくらい」
そう言って笑いながら間壁さんは続ける。
「母親は日本人だし親父も日系だから、昔からよく驚かれる。この顔で、あの名前だからね」
そう話す彼の声は柔らかく、しかしどこか他人事のような空気を含んでいた。ただ事実だけを話しているという口調が遠くもなく近くもなく、これ以上ない距離感で線引きされているように思えた。
「だから“間壁さん”にしたんですか」
「うーん、どうだろうなぁ。単純にあれこれ言われなくなるならいいなと思ってたのもあるけど、」
小さく唸ってから、彼はすんなりと言った。
「普通になってみたかったのかもしれない」
子猫のおやつをロッカーの上の棚に仕舞い、間壁さんは雑然と散らばったパイプ椅子のひとつに腰掛ける。つられて私も別の椅子に座ると、背後の窓を夜風が弱々しく叩いた。
「誰にだって自分とは違うものに憧れる時期があるでしょ。もし金持ちだったらとか、スポーツ選手だったらとか。それと同じで、自分が想像していたものが一体どんなふうなのか知りたかったんだ。思ってもみないところで他人の口から自分の名前が出てきたりしないような、失敗したり間違ったときに辻褄が合ったって顔をされないような、そういうのってどんな感じだろうって。なんて、相手にとっちゃいい迷惑だろうけどな」
間壁さんは喋りながら胸ポケットに手をかけ、あまりに自然な動作ですぐに下ろした。吸ってもいいですよ、と言うタイミングを見つけられないまま、私は擦ったような傷の目立つ床を見つめていた。
人は生まれ落ちた瞬間から、すでに同じではいられない。他人とは違うものを持たされて急速に流れ始める時間を止めることもできず、必死で両手を伸ばしてもがき続ける。どす黒い波間に溺れそうになりながら、あるかもわからない光を「確かに見た」と言い聞かせながらもがき続けている。
たとえ光る桟橋の端を掴んだって、私達を他愛もない波がさらっていく。
そうして流れ着いた先で咲けと言うのなら、まったくもって神様は悪趣味だ。
「もう、平気なんですか」
「ん、なにが?」
「えっと、その、」
言葉にするのを躊躇ったのは、それがどう言っても彼を貶めるものになりそうだったからだった。
ごく最近まで関わり合いのなかった他人が彼のアイデンティティについて口にするなど、ましてやその心の内側を知ろうとするなど。彼の傷を心配する権利がないとわかってもいるし、土足で立ち入るような真似をしたいわけでもなかった。
しかしあまりに間近に感じた気配に、私の唇は酷く曖昧に言い淀んだ。
ふ、と溜めた息を吐く音が聞こえた。空気の塊が鞠のように床を弾んで転がり、私のそばへ落ちる。付けっぱなしだったテレビはニュース番組が終わり、人気のバラエティに変わっていた。
「はじめて真野ちゃんが歳相応に見えた」
「なんですか、それ」
「ほら、普段は周りの年齢層に合わせて落ち着いた感じに振る舞ってるでしょ。だからそんな顔、見たことなかったから」
「私、どんな顔してました?」
「近所の幼稚園児が家から三十秒のところで迷子になってるみたいな顔」
近くに座ってたら殴ってました、と言うと間壁さんはおかしそうに肩を震わせた。
これから夜間の配達に出るという間壁さんについて事務所をあとにすると、頭上に瞬く星がくっきりと夜を縁取って空にはめ込まれていた。まだ真夜中でもないのにこの町は暗く、そして美しかった。
「間壁さんって夜勤多いですよね」
「他のやつは家族がいる人も多いし。まぁ、俺は特になんもないから」
間壁さんの言葉はまた、どこか他人事のように平坦な調子で闇に溶け込んでいく。夜が似合う、というのは果たして褒め言葉になるのだろうか。
この人は、優しい人だ。通り過ぎてきた急流を懐かしく思うような眼差しが、一回りという年齢以上に感じられる余白が、間壁という人を取り囲んで離さない。
それだけに、胸が騒いだ。
駐車場までの道は言われた通り街灯が少なく、時々ぬかるみに足を取られながら歩く。
縫い糸の始末のようにそれは巧妙に、素知らぬ顔をして隠されていた。しかし隠すということは"ある"ことの証明だ。はぐらかすのは、そこに痛みがあるからだ。
彼の傷はまだ、痛むのだろうか。
田舎道はすらすらと月へ向かって進み、自然と家路を急がせる。バッグから車のキーを取り出したところで、咆哮のようなトラックのエンジン音が聞こえた。
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