第2話


 見慣れない横文字に目が止まる。


 それは浅瀬を泳ぐ熱帯魚のように鮮やかだったが、同時に触れることを躊躇うような未知でもあった。ひらひらと軽やかそうなのに、口に出してみればどう発音して良いのかわからず、首を傾げたところに正解が降ってきた。



「それ、間壁さんのことよ」


 後ろを通りかかった同僚が開いていた名簿を覗き込む。これでしょ、と指差されたのは今まさに声にし損ねたカタカナだった。


「本名はそっちなんだけど、みんな元の名前で呼んでるの」

「あぁ、なるほど。ご結婚されたんですね」


 そう言うと、同僚は首を振り、覗き込んだ顔をさらに近づけてきた。


「逆よ、逆。離婚したの。間壁は元奥さんの苗字」


 潜められた声に、今度は「なるほど」と言えなかった。



 産まれ故郷の町で見つけた新しい職場は、地名を冠した小さな運送会社だった。人手不足による事務職の募集らしかったが、土地柄なのか大抵は定時で帰れるし、殺伐とするほどの仕事量もない。代わりに給料も安かったが、実家から通えば貯金もできるくらいの額があった。


 間壁さんといえば、入社して間もない私にとってそれほど印象深い人ではない。そもそも内勤者とトラックドライバーとでは仕事の抑揚が違い、あえて腰を据えて話すような機会もまだなかった。


 頭の中に描いた彼は、出来の悪い塗り絵のように拙い。ろくに色が乗っていない上、肝心の輪郭も迷い線が荒く目立っていた。


 唯一特徴らしいところを挙げるなら、見上げるように高いトラックの運転席で煙草を吹かす横顔や、フォークリフトを操作するときの険しい目つき。


 仕事場での彼は決してとっつきやすい人ではなかった。


 その彼が、という気持ちが大きかった。顔や身体つきだって日本人らしさの範疇で、猫背気味にカーブを描いた背中は錆びた田舎の景色に溶け込んでいる。

 名前がその国の顔を作るわけでもないとわかってはいたが、鍛えた金属のような佇まいに、カタカナ表記の苗字だけが酷く浮いて見えた。



「意外よねえ」

「あ、えぇ、そうですね」


 こっくりと頷くと、同僚の指がすっと紙の表面を撫でた。


「普段は硬派な感じなのに、案外女の人の尻に敷かれるタイプなのかしら」

「え?」

「だから苗字の話よ。いくら日本の姓じゃないとはいえ、婿入りなんて、ね」


 言い終えると同時に背後の気配は離れ、床を踏む硬質な音ともに消えた。残された私は指の下の文字をもう一度発音しようと試みたが、やはりうまくはいかなかった。



 そうだった、ここはこういう場所だった。足元に迫る濁った水で自分の居る場所を認識するみたいに、故郷へ帰るということがどういうことなのかを、私はようやく理解しつつあった。


 くるくると風見鶏が踊っているような町でもあり、カラコロと閑古鳥が鳴いているような街でもあった。時間は花びらが零れるように過ぎ、山のような落ち葉が折り重なったまま朽ちていく。


 人が歩くところには必ずレールが敷かれている。それも使い古され、擦り切れて赤黒く光るレールが。この町に限らず、未だにそう信じている人は多いのだろう。


 そういう意味では間壁さんだけでなく、私だってきっと良い放談の種だ。東京でそれなりの大学を出て就職したはずの娘が、持つものも持たずに田舎へ戻ってきたなど、いくらだって想像の膨らみようがある。


 それでもさほど居心地が悪くないのは、単純に歳のせいだった。どこへ行っても若者の少ないこの土地では「話が合わない」というポーズが不躾な視線や質問の盾になる。


 そのせいで軽んじられようが、今はどうでもよかった。ただ静かに淡々と、過ぎていく時間を歩く感覚が心地よかった。



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