そして透明は鼓動をはじめる。

七屋 糸

第1話 


 それなりに格好の付きそうな言い訳を並べたところで、反則的に漏れた本心を上回りはしない。

 瞬間的に弾き出された答えがすべてであり、あとに何を塗り重ねても必要以上に湿り気を帯びるばかりで、根腐れさえ起こしそうな気配に思わず溜息を吐いていた。




 二階へ続く階段の中腹で足を踏み外したとき、咄嗟に「辞めよう」と決めた。それは脈絡もなく、だが妙にくっきりと私の中に居座り、見ないふりもできそうになかったから病院の帰り道に簡素な便箋と封筒を買った。

 何度か書き損じてもいいように、二セット。


 翌月、利き足に軽い捻挫を携えたまま退職の挨拶をすると、二、三人の同僚に引き止められた。私が辞めれば受け持ちの仕事は誰かしらに分配されるし、現時点ですでに慢性的な人手不足だった。

 罪悪感も自責の念もあったが、それでも春の終わりには三年務めた会社を去った。




 問われれば答えはいくつでも用意できた。


 評価を盾にサービス残業を強いられることや、得意先へ配る販促物の費用が天引きされていたこと。今どき嘘みたいな、しかし給与明細に記載されたあざ笑うような数字のこと。同僚と訪れた安い居酒屋で「あのクソ会社、絶対労基に訴えてやる」とくだを巻いたことが何度もあった。


 しかしどれひとつとして、あの強烈な気持ちとイコールで結ばれることはなかった。




 急激な芽生えだった。


 真っ更な論証問題にたった一言だけ書くみたいに、それは産まれてきたのだから仕方がなかった。余計な言葉は並べるほどに陳腐さを増していくし、同情を向けられるのは気持ちが良いものでもないと知った。


 二ヶ月ほど経った頃、私は東京から故郷の小さな町へ帰った。



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