雪の華

増田朋美

雪の華

どうしてこの仕事を選んでしまったのかな。角田舞は、後悔していた。

もちろん、自分でやりたかった仕事だし、それに、人の役に立つのだから、常に周りの人から、ありがとうと言ってもらえる。それは確かに嬉しいなと思う。だけど。

舞と一緒に仕事をしている、江島、いや、今は結婚して米山になっているんだっけ、その人が、本当に嫌だった。自分だって、一生懸命仕事をしているつもりだけど、米山さんは、自分のことが気に入らないみたいなのだ。上司が、新人介護士の舞に仕事を覚えるために、米山さんとペアを組んで仕事をしてもらいたいといったのであるが、今になっては、なんでこんな人とペアを組まされたのだろうと思う。

江島さん、いや、米山さんは、よく太った人だった。あんこ体型といわれる、絶対キレイと言われる人ではなかった。それなのに、介助をする利用者さんたちの顔つきは、とてもうれしそうである。みんなから、あんこさんと呼ばれて、利用者さんたちから、声をかけられ、入浴介助、食事介助などをしている米山さんは、なんだか、日常生活が、とても充実しているようで、すごく楽しそうなのだ。それを、利用者さんたちは、みんな感じ取っているのだろう。彼らも、世の中から、弾き飛ばされた、精神疾患患者と呼ばれる人たちだから。米山さんは、舞の目から見たら、舞から仕事を取り上げてしまっているような、そんな存在に見えてしまうのであった。

だから今、舞は、気合を入れてこの施設で働き始めたあの日々が懐かしかった。そんな気持ちがあったなんて、随分昔に、忘れてしまったような気がした。

その日も、舞は、いつもどおりに出勤した。施設長と言っても、雇われの施設長だから、大して偉くもないんだけど、その施設長は、舞に、米山さんの事を見習って、一生懸命仕事をするように言った。施設長というのは、現場と接触がないものだから、舞の気持ちなんて、わかってはいないのだ。今日も米山みどりさんと一緒に、利用者さんたちの世話をする。利用者さんたちの殆どは、意識はしっかりあるけれど、精神疾患があって、ご飯を食べなかったり、風呂に入れなかったりなど、日常的なことができない人が多い。でも、その中には、優れた芸術的才能を持っている人も多く、中には、作曲したりとか、小説を書いている人も多い。そういう事をしているからって、生活に代わり映えのある人はいないのだが、何故か、そういうものをしないと何もできなくなってしまうという、利用者さんは多いのだった。その日も、一生懸命作文を書いている人に、舞は、食事をしましょうと言ったのであるが、その女性は今言いところだからだめだといった。それでは、ご飯を食べられなくなりますよ、と舞はわざと言ったが、そうすると、女性は、私を、何もできないから馬鹿にしてるのねと言って泣き出す。精神障害者の施設というのは、非日常と日常が、かけ離れてしまった人ばかりなので、こういう事も、頻繁に起こる。泣かせるのは、いけないことだから、舞は施設長に叱られてしまう。それを見て憤慨していると、米山みどりさんが、その利用者に、大丈夫よ、ご飯は、書物が終わってからで大丈夫よ、と、小さな声で優しく言う。利用者は、にこやかに笑って小説の続きを書き始める。米山さんがそうやって、にこやかに言ってくれるから良いとでも思っているのだろうか。そして私は、いくら利用者さんに声をかけても、何もいわれないで終わってしまうのか。なんか、米山さんが私の良いところを取ってしまうような、そんな事を、舞は思ってしまうのだった。

その翌日も、舞は嫌々ながら、この施設に出勤した。その日は、雪だった。静岡県で雪が降るのは、珍しいと言われるが、山間部であるこの施設では珍しいことではない。施設の利用者さんたちは、雪が降って、喜んでいる人も居るが、舞は喜ぶ気にはなれなかった。

「この時期に、雪が降るなんて素敵ね。」

と、一人の女性利用者が、舞に話しかける。舞は、利用者を泣かせてはいけないなと思って、

「ええ、そうね。」

とだけ言った。

「ねえ、ちょっと散歩しない?私、静岡市の生まれだから、雪なんて、あんまり見かけないし、ちょっと間近で雪を見てみたい。」

そういうお願いごとはちゃんとするのが利用者たちであった。

「ちょっと外へ出てもいいでしょうか?」

と舞が施設長に聞くと、

「ええ。でも、雪が降っているので、二人以上の職員で行ってください。米山さんと二人でいって。」

雇われ施設長は、どうでも良さげな顔で言った。施設長なんて、何も起こらなければそれで良いのだ。この施設で何をやっているのかなんて、関係ない。自分たち、職員が、障害者たちを、静かにさせておけばそれでいい。

「わかりました。行ってきます。じゃあ、島崎さん、行きましょう。」

と、米山さんは、にこやかに笑って、島崎さんと呼ばれた女性利用者と一緒に、外へ出た。舞も施設長には逆らえないので、米山さんと島崎さんと一緒に、外へ出る。外は、ちらりほらりと雪が振っている程度だった。とりあえず、施設近くにある公園へ連れて行くことにした。公園に着いて、島崎さんは、降ってくる雪を見つめていた。なんで、そんなにこれくらいの事で感動したりするんだろうかと思われるほど、島崎さんは、雪を見つめていた。やがて、雪は更に降ってきて、いわゆる、吹雪と呼ばれるような、そんな天気になった。舞が、寒いのでそろそろ帰りましょうかと言いかけたが、島崎さんは、この景色をうまれて初めて見たと言って、感動している。米山さんは、良いわよ、吹雪で死ぬような事はないんだから、飽きるまでずっと見て、なんて間延びしたセリフを言っている。そんな事を言えるなんて、米山さんは、よほど寒さに強いなあと思いながら、寒さで足の指が千切れそうになるのを我慢しながら、島崎さんが飽きるのを待った。

「ねえ!ここに足跡がある!これ、誰の足跡かな!」

と、彼女が、そういう事を言った。舞は、そんな事どうでも良いと思うのであるが、米山さんが、ちゃんと聞いてやらなければだめだと言った。確かに、公園の自動販売機の前から、人間の足跡と思われる足跡が、見えるのであった。同時に、犬の足跡と思われる足跡もある。島崎さんは、急いでその後をつけていく。米山さんも、急いで、彼女のあとを追いかけているのだった。舞も仕方なく付いていくが、

「犬が吠えてる!」

と、島崎さんが言っているのが聞こえてきた。舞にも確かに、その声は聞こえてきたのであるが、犬がなんで、こんな時に吠えているんだろうと思う。こんな大吹雪で、犬を連れて外へ出る人がいるのだろうか?それにしても、雪はすごいもので、うっすら前が見える程度の吹雪になった。それでも犬が、吠えている声がする。やがて、三人が足跡を辿ってみると、物体と思われる大きな物があったが、よく見ると、物体と思われるものは人で、しかも男性であった。雪の上に座り込んだまま、えらく咳き込んで居るようだ。その人は、とてもきれいな人で、げっそりと痩せて居るが、どこかの俳優さんみたいにきれいだった。

「あら、水穂さんじゃない!どうしたのこんなところで。」

と、米山さんが言う。何だ、この人まで米山さんの知り合いだったのか!と、舞は憤慨するが、それと同時に甲高い声で、

「この人、病気よ!」

と島崎さんが言ったのがきこえてきてハッとした。と同時に、座り込んでいた水穂さんが更に激しく咳き込んで、赤い液体が、雪の上に落ちた。米山さんは、すぐに彼の体を持ち上げて、背中に背負った。確か、製鉄所はこっちの方だったわねと言いながら、急いであるき出した。それと同時に、真っ黒なグレーハウンドが、米山さんについていくのだった。その犬はたまだった。舞は、急いで米山さんについていく。そのきれいな人が、果たしてたどり着くかどうか、心配で仕方なかったのである。

米山さんは、吹雪の中をしばらく歩いて、大規模な日本旅館のような建物に到着した。そして、インターフォンのついていない、玄関の引き戸をがらっと開けて、

「すみません!誰かいませんか!水穂さんが、自動販売機の前に座り込んでいました!」

と、大きな声で言った。それと同時に、真っ黒なグレーハウンドのたまが、足を拭くまもないまま建物に飛び込んだ。それと同時に、建物の中から、何人か人が出てきて、米山さんの背負っていたきれいな人をまた背負い直して、すぐに中へ連れて行ってしまった。あーあ、あの人、最後まで見たかったなと思ったけど、舞にはそれができなかった。

「本当にありがとうございました。水穂さん、ジュースを買いに行くだけだと言っていたけど、こんな吹雪になるとは、予想もしてなくて。」

と、中の人たちはそう言っている。あの水穂さんという人は、どういう人なんだろうか、と舞は思ったが、なんだか、それは聞いてはいけないような気がした。

「いえ、大丈夫ですよ。それに発見したのは私ではなくて、この島崎さんです。彼女にお礼を言ってください。」

米山さんは、にこやかに笑って、隣で泣いている島崎さんを示した。中の人達は、

「大丈夫ですよ。水穂さんは、無事です。」

と、にこやかに笑って、彼女に礼を言った。

「ありがとうございます!」

という、島崎さんに、中の人達も、米山さんも彼女を称えるようにありがとうといった。

「ありがとうございます!ありがとうございます!ありがとうございます!」

その言葉を繰り返すしかできない島崎さんを、放置しておける米山さん。もう何も言わないのとも言わないで、彼女をそう見ることができるということこそ、究極の介助かもしれなかった。

舞は、そんな思いで、彼女を見つめていた。

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雪の華 増田朋美 @masubuchi4996

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