第8話

──明治二十八年三月十五日

  中井弘の死より五ヶ月後──



 中井家の家督は後事談義を経て第一子である龍太郎へ継承された。原に連れられ挨拶回りを終えた龍太郎は、喪明けを待たずして朝鮮へ渡る事になる。──要衝・仁川港をはじめ、当時の朝鮮は日清戦争の一大軍事拠点であった。龍太郎の渡韓は父桜州の生前の意向も働いたと謂うが、実際の所は定かでは無い。帰朝後龍太郎は義兄・原敬の元へ身を預けるも、放浪癖が再発し勝手気侭に行方を眩ます。──其の内に縁談が履行された。洛の横山方で祝言をあげると謂うのである。此の縁談は生前桜州が心を砕いていたもので、新妻の名は伊集院幸子といった。──幸子の実父は旧薩摩藩出身の元技術官僚、後実業家、伊集院兼常である。ジョサイア・コンドルの設計図を元に鹿鳴館を建築した俊英で、風流人の間では今遠州との呼び声も高い。造庭を趣味とする桜州の道楽仲間で、遺産の共同管財人にも名を連ねる粋人だった。



「……無論不服さ、勝手に進められた縁談だ。僕の意思によるものじゃあない。然し家長命令だから」

「家長命令?」

 詠太郎の質問に対して龍太郎は何も答えない。只人差し指でツイ、と床の羽二重を指し示してみせる。

「皺になる」

「……すまない、注意する」

 龍太郎の言う世話役とは下男下女の仕事も含まれるらしい。宗家の次期当主に衣類を手渡し暗に着せろ、と命令しているのだ。詠太郎にとって中井龍太郎とは兄の仇にも等しく、其の放蕩が兄の寿命を縮めた要因の一つだと考えていた。──にも関わらず後見人は皆中井家第一子である龍太郎へ気を配って居る。詠太郎にとっては文字通り『面白くない』後事となった。

 是等複雑な事情がある上で先の命令である。龍太郎の不遜極まりない態度が鼻についたが、とはいえ中井家の晴れの日に水を差すわけにもいかない。詠太郎は不精不精羽二重を拾い花婿の肩に掛けてやった。──龍太郎は婉然たる所作で其れに腕を通し、後ろを振り向く。

「着丈は合っているか?此れは父上の遺品だから、何も手直しして居ないのだ」

──言い乍ら詠太郎の手を掴み、自身の羽二重の上前に添えさせる。

「……あぁ、丁度良いと思うよ。君は背格好が兄上に良く似ているから」

 礼装など色も形も殆ど別が無く見分けがつかない。併し生前兄が着ていた物と思うと詠太郎の心は浮き足立った。長着の肩山へ鼻を寄せると、兄の体臭が其の儘其処へ取り残されている様な気配さえした。

「馬子にも衣装とはこの事か、などと考えているな?」

「いや、……」

 事実羽二重は横山邸の法要を経て沈香やら白檀やらの薫りを纏っていたかもしれない。併し香木に紛れ僅かに甘美な香りがある。麝香にも似た其の匂いに青年は覚えが無い──だが併し、嗅ぐ程に沸々と悲愁の情が湧き、亡き兄のぬくもりを側へ感じるのだった。

「何か……懐かしい匂いだ。兄上が未だ此処に、居る様な気がして……」

 肩山から襟足へ鼻を寄せると、くだんの香りがより鮮明になっていく。──実際の所、詠太郎の感じる香りとは龍太郎自身の放つ色香であったかもしれない。併し其の香りは生前兄桜州から嗅ぎ取っていた物と遜色が無い様にも思う。妙な違和感を覚え青年は龍太郎をまじまじと眺めた。──此れより先に、向こうも詠太郎を眺めている。無表情に程近い、けれども何処か艶のある面様で──

「……」

──青年二人は何方も引かない。静寂の中へ互いの心音が響き、詠太郎には其れが妙に耳障りに思えた。

「詠太郎……此れを、」

 先に沈黙を破ったのは龍太郎で、角帯を掲げ締めて呉れ、と言い添える。普段の詠太郎なら先ず反感を覚えた所を、此の時は何故か微塵の怒りも湧かなかった。其れよりも問題は、白昼夢の最中であるかの様に前後覚束無い事である──

「……、」

 朦朧とする頭を騙し騙し腰へ触れると、龍太郎が一寸息を詰める。桜州譲りで線の細い身体はお世辞にも頑健たる日本男児、とは言い難い。寧ろ力を込めれば簡単に手折れ兼ねない儚さがあった。

「きつくして呉れ……」

 吐息交じりの囁きに詠太郎は頬を赤らめる。肝心の龍太郎は所在無さげに俯いているので、益々青年を狼狽させた。──龍太郎の目鼻立ちは兄桜州とは大分異なる。寧ろ相貌の因子は庶子へ良く継がれたくらいだった。併し背格好や纏う雰囲気に於いては龍太郎へ比肩する者は居ない。

「……、」

 今は亡き兄の面影が龍太郎の其れと重なる──急な眩暈を覚え青年は訝しく頭を振った。詠太郎は俄かに疑心へ陥る。龍太郎の身体へ触れる事、其れ自体が兄桜州への背信行為に當るのではないか?──其の様な考えが降って湧いた。早く着付けを済ませたい──其の一心で性急に帯を締めていく。

「詠太郎……、そう急くな。祝言まで時間はまだ有る……」

「悠長な事を言うな。早く終わらせたいのだ」

「ふふっ、如何にも初物の言う台詞だねぇ……」

「何、」

──馬鹿にしているのか、と食って掛かろうとした所、詠太郎は直ぐに言葉を飲み込む事になる。


◆◆◆


 青年は我が目を疑った。五ヶ月前に死んだはずの兄・桜州が目の前に居る。まさか、と思い正面へ向き直るが、矢張り見間違い様も無く兄である。

「あ、兄上……?」

 矢庭に身震いをはじめ、詠太郎は二、三歩後退る。次いで双眸涙が伝い青年の頬を濡らした。

「……良かった、生きていてくだすった……!やはい貴方は何者にも穢されん……。死ぬ事も老いる事も無か、永久に不滅たる、おいだけの神様ぢゃ……!」

 情動の儘に兄の身体を掻き抱くと、其の肩口が俄に震える。詠太郎はワアワアと滂沱の涙を溢して居たが、不意に落涙が止み兄の顔を不躾に覗き込んだ。

「……なァ、兄上。言いたもんせ。僕を貴方ん子にすっと。兄上の後継者がこん僕であると。僕が一番に貴方を愛しているのだから、貴方はそいに応ゆるべきだ。はよ、時間が無かど。何時常世へ戻られるかも分からん、はよう言いたもんせ、……兄上!」


◆◆◆


「はっ、」

 頬へひりつく痛みを感じ、詠太郎は漸く正気を取り戻した。目の前に居るのは桜州では無く甥の龍太郎である。其の甥が、羽二重の乱れも気にせず大きく腕を振り被っている──

「……中井桜州は死んだ。詠太郎、君は現実を受け入れられず、今も苦しんでいるのだな……」

 龍太郎の腕が伸び青年の頬を優しく撫でる。其の仕草は慈母が愛し子へ愛撫するかの如くたおやかだった。亡き兄を苦しめた仇敵から思い掛けず憐れみを受け、詠太郎は一寸いたたまれない気分になる。

「……兄上は僕の全てだ。暗闇の底から僕を救い、正道を示して呉れる光だった……。今の僕の姿は、宛ら現世を彷徨い歩く亡者の様だろう……。昼夜問わず兄を幻視し、其の度に無情なる現実を突き付けられるのだから……。人の死とは本来、一度きりのはずだ……然れども、僕は幾度となく兄を目の前で失っている……。否、実の所期待していた。『今までの出来事は全て夢で、現実の兄は未だ生きている。夢から醒めた僕を、一番に笑い飛ばしてくれるのでは』……可笑しな話だが、かの如く甘い考えが未だ頭の片隅にあるのだ……」

 青年は悄悄と首を垂れ、其の儘口を引き結んだ。

「酔生夢死……か」

 気落ちした詠太郎を前に、龍太郎は何事か逡巡をはじめる。其して不意に口を開くと、聞き取れ無い程の小声で此う呟くのだった──

「死して尚、中井桜州は僕等の足枷となって居る……。此れが咎……逃れられぬ罪か……」

「……?」

 龍太郎の真意を図り兼ね、青年は訝しく眉を顰める。龍太郎は其れきり口を噤み遠くを見ている様だった。


◆◆◆



──明治二十七年十一月二十七日

  中井弘の四十九日法要明け 夜半──


「……原を追い落とす?どうやって」

 辻馬車を買い荒神橋へ向かう最中、詠太郎は甥龍太郎から思わぬ提案を受けた。──くだんの提案とは桜州の娘婿である原を陥れんとするもので、穏やかならざる気配を察した詠太郎は一寸息を呑む。提案者・中井龍太郎は何時に無く得意調子で、瞳を爛々と輝かせ乍ら言葉を紡いでいった。

「官界での出世が肝要だ。出来るさ、君なら。薩摩の出で兄は正三位、井上後藤とも面識がある。対する原は賊軍盛岡藩の出身、其れも無爵の平民だ。普通であれば二十もそこそこで領事の如く要職には就けまい。普通であれば、な。原の人より勝る点は其の熾烈なる復仇心、此れに尽きる。原は本来薩人が嫌いらしい。或る筋……花柳界の何某から聞いた話だが、奴は戊辰の役を何時迄も根に持っていた。名門士族の跡取りが生まれてはじめて経験した負け戦だ。其れで生活に困窮したのだから薩長への恨みも募ると謂うもの。学生の時分は兵児帯を断固拒否し角帯を締め、生意気な態度が薩人校長の鼻につき放校処分となったらしい。原の前半生は成程薩人に狂わされた様なものだな。門閥が幅を利かせる此の御時世に、『白河以北一山百文』と蔑まれた東北人が大成するなど夢の又夢……。原は其れを解っていたから、王道を逸した。仇敵を討ち取るべく記者の道を選んだのだ……」

 辻馬車の御者が訝しげに客車を振り返る。龍太郎は軽く舌打ちし、扇子で口元を覆い乍ら講釈を続けた。

「……皮肉な事に、原へ仕事を斡旋したのは原の知人から相談を受けた怨敵薩摩の高級官吏──然う、父上だった。中井桜州は門閥の拘り無く面倒見も良い。平身低頭して於けば先ず悪い様にはされまい──市井には然う思われて居た。父上は原を気に入り希望通りに新聞社へ入れた。此の新聞社と謂うのが政府の御用新聞で或るから堪らない。原はさぞ辟易しただろう、……併し見事に応化した。父上は政財界に顔が効く上一度目を掛ければ死んだ後の墓まで世話してやる様な人だ。原も直ぐに気が付いた、黙っていても向こうから引き合いが来る。其れから原の身上は父上と懇意の外務省総元締め、井上馨へ預けられ、推挙を受け外務省御用掛と成る。……過ぎたる栄転だろう。誰もが原を妬んだに違いない。然し背後に居るのが長閥の井上馨に薩閥の中井桜州だ。随分気を遣っただろうねぇ、其の心情は察するに余りある……。其して井上中井の娘・お貞を娶り、原は薩長子飼いの犬へ成り下がった。其れは奇しくも、東北人故に一度は諦めた『王道』の道筋……。成り行きで憎き薩人の娘婿となったが、旨味は確かにあった訳だ」


──外で馬車ウマのいななきが聞こえる。悪路を嫌った為だろう、客車の中も大いに揺れたが、両者の間の空気は張り詰めていた。


「詠太郎叔父さん、率直に言うよ。どうしても官吏になると言うのなら原になれ。君には其の資質が有る。図らずとも父上の幇間業が君に良縁を遺していった。長閥の井上、伊藤に山縣、薩閥の松方に本田、民権家の後藤まで、取り入る相手はごまんと居る。第一に君は官軍薩摩藩の家老奥書役の家柄である横山家、其れも次期当主なのだぞ。血統は充分だ。原の様に小賢しく大胆に、人脈を上手く使い給え。奴を出し抜いて平伏させろ。あの様な男に何時迄も家長気取りをされては困る。……原兄の身辺なら僕が探りを入れて報告するさ。其の方が君も動きやすいだろう。何、訳は無い。僕は保護観察対象だ。あの男の家には自由に寝泊まり出来るから、君の知りたい情報を聞き出すくらい難なく出来る……。僕らは表向きは仲違いをしたままが良いだろう、原の鼻を明かしてやるのさ」

 不敵に笑う龍太郎を眺め、青年は一人瞠目する──桜州や原は龍太郎を脳病扱いし酷く持て余していたが、少なくとも此の時、詠太郎の目には龍太郎が脳病患者であるとは思えなかった。

「原、あいつには裏の顔がある。人へ取り憑く狐狸の類いだ。あいつが僕やお貞を病人扱いし父上を焚き付けた。與一や詠二も其んな所か?皆一様にしょうもない理由で父上に疎まれている。其うして、父上が子に失望を覚える度、傍へ寄り添い甘言を吐くのだ。父上は如何も迂闊な所があるから、すっかり原の手管に拐かされてしまった。君にも覚えがあるだろう」

「……」

 詠太郎はぼんやりと過去の出来事を思い起こす。安酒と馬車の揺れとに酔った頭ではまともに思考する事も適わない。──が、朧げ乍ら脳裏へ蘇る記憶があった。

「……思い出したくも無い。不快だ」

 車窓から外を眺めると顰め面の自分が硝子面へ映り込んでいる。酷い形相に驚き眉間の皺を伸ばしていると、そっと背中に触れる手がある──

「……?」

「君には耳の痛い話だったな……。僕らはどうも昔から反りが合わない。初めて会った日の事を覚えているか?君は僕を毛嫌いし、蛇の様な目で睨んでいたんだぞ。薩摩の子とは斯くも野蛮か、と震え上がったものだ……」

 思い起こせば確かに其んな事があったかもしれない。詠太郎は静かに目を閉じ過去を振り返る。

──東京へ呼ばれて直ぐ、龍太郎ら中井家の嫡子と引き合わされた事があった。兄に子が居る事は知識としてあったが、実際に会してみると、嫡子に比べ自分は所謂『他所の子』の扱いだったのだと思い知らされる。──其れは幼い詠太郎にとって受け入れ難い事実だった。嫡男である龍太郎の存在が如何しても許せず、『おまえは歳上とはいえ庶家の甥なのだから本家の嫡男である叔父を立てろ』と迫った様な記憶もある。其の時龍太郎はどんな表情で居たか──急に心苦しさを覚えた詠太郎は、ビロード張りの椅子へ居住まいを正した。

「……すまない。思い起こせばあの頃は、君個人にではなく、兄上の寵愛を一心に受けられぬ事に苛立ちを覚えたのだ。僕は兄を心底敬愛していたから……」

「ふふっ、別段構わぬさ。君の気持ちも分かるのだ。僕は嫡男だから当然父上の大事な子なのだと、思い違いをしていたから」

「……思い違い?」

「あぁ。お貞を嫁にやって以来、父上は血も繋がらぬあの東北人──原を、嫡子と同じ……否其れ以上に扱った。原が高官でいられるのも父上の周旋があればこそ……。嫡子の面目は丸潰れだ。島流しも同然に閑地へ追いやられ、代わりに縁もゆかりも無い男を後見人と仰ぎ、財布の紐まで握られているのだから。父上は死ぬ迄理解しようとはしなかった。我ら子の切実なる思いを……」

 客車の窓から古都を眺め、龍太郎は其の表情に複雑な色を浮かべる。

「僕ら中井の子は父上を憎んでいるが、同時に愛執をも抱いている……。人の心とは実に複雑怪奇だな、相反する思いを同時に抱えてしまうのだから……」

「ん……、」

 此の時詠太郎は、強烈な眠気に襲われ何度も目を擦っていた。辻馬車の適度な揺れは酔った身体に心地良い。更には龍太郎の囁く様な声と相まって、ある種の催眠状態へと詠太郎を導いていた──

「……狐は福を齎すそうだが、其れは一時の夢だ。宿主の精を吸い尽くし死を招くと謂う。原を迎えたが為、中井家は離散した……。奴が来るまでは、我らは其れなりに幸せな家庭だったのだ。……原は文士、文筆家だ。ブン屋の独善的強圧的出歯亀気質と本性は変わりあるまい。あいつがせっせと書き溜めている日記、君は見た事があるか。中身はまるで詰まらぬ三面記事だ。併し何処ぞへ見せる事が前提かの様に整然と書かれている。……はて、あの日記。一体何処までが真実なのやら……。屹度恨みを持った人間の寝首を搔く気でいるぞ。小賢しい……」

 矢庭に向き直り、龍太郎は底意地の悪い表情を浮かべる。

「兎角君は縁故を以て台頭し、原に為れ。決して父上の後を継ぐなどと思うな。父上は奇人であり乍ら真実天才だった。君は確かに秀才だが、秀才と天才とでは天と地程の開きがある。世人が山人に成る事能わず……其れを肝に銘じておき給えよ。中央の官吏共は利用こそすれ決して気を許すな。連中は人を人とも思って居ない。屹度手酷く扱われ、詰まらぬ最期を遂げるだろう……君に父上と同じ轍を踏ませたくは無い。何かあれば僕を頼れ。年長者の僕が君を守ってみせるから……」


◆◆◆



「……其れで、家長命令とは?」

 細縞の平袴を広げながら、詠太郎が先の質問を蒸し返す。

「愚問なりや。此の縁談が故人への餞になるだろうと原兄は考えている。……更には其の後ろに控える本田の小父さんや松方小父さんの意向も強いのだろう。如何にも体裁を重んじる前時代の遣り口だ。伊集院の娘は言うなれば墓前の仏花か?自分事で無ければ不憫な娘と同情も寄せるが……。君、呉々も気を付け給えよ。松方はじめ薩摩の古武士は兎角面倒な連中だ。父上同様官憲と裏で繋がっている」

「官憲?」

「……知らぬのか?父上は風来坊を気取っていたが骨の髄まで薩閥に与している。あの人の手下は警視総監だから、僕は執拗に官憲から追い回されていたのさ。父上が何処ぞの若僧を擁護するのも上辺だけ、先の選挙干渉もあの人の事だ。嬉々として手助けしたのであろうよ……」

 龍太郎の背格好は桜州に良く似ているが、晩年の桜州よりも一回り腰が細く袴の口が妙に余って見えた。袴帯を巻こうと腰へ腕を回すと龍太郎の口から艶かしく吐息が漏れ出す。

「……おい、妙な声を出さないでくれ。新婦に聞かれたら事だろう」

「ふふっ、僕は別段構わぬさ。……君、薩摩の出だろう。然ういう経験もあるんじゃないのか……」

 クツクツと喉を鳴らして龍太郎が笑う。揶揄われていたのだと知り、詠太郎は如何にも不機嫌に眉間へ皺を寄せた。

「……後見人の問題だけでは無い。僕には厄介な約定があるのだ……相続を容易にさせぬ為の」

 詠太郎の口から約定の二文字が出た事で詠太郎はハッとする。其の存在は聞かされてたが、内容は秘されたままだった。

「例の約定とは、行状修まらぬ様であれば第一子を廃嫡し家督が與一へ渡ると謂う物だ。諸々面倒な書き添えも有る。僕は成人して居ながら小僧の様に扱われる。父上の遺産の正当な後継者であり乍ら、己が意思では其の金さえ手に入らぬ。我ら中井の子は全く不幸な境遇だ。後見人を気取る松方に本田、伊集院。こいつらは要は、僕らが何かとんでもない悪さをし、父上ひいては薩人の顔に泥を塗るのを恐れているのさ……。無駄な足掻きだと言うんだよ、例え僕が当主の座を退こうと、後には更なる問題児……與一が控えているというのに。……まぁ、君は余り気にするな。此れは中井家の問題だから。……そもそも僕が縁談を受け入れた最たる理由は、孝行なのだ。伊集院家との縁組は父上たっての希望だったから……。あの人は僕の放蕩が妻帯で治ると考えたのさ。……馬鹿なお人だ。ご自身の乱淫を鑑みれば放蕩は横山家累代の因果と分かるはずなのに。全く愚かで不器用で、可哀想なお人……」

「……」

 感傷に浸る龍太郎を前に、詠太郎は二の句が告げなくなっていた。龍太郎は兄の仇敵には違いないが、素直な性格では無いだけで、父を想う子の愛に間違いは無いのだと薄ら考え始めていた。

「……君は兄上と、何処か似ている」

「皆が然う云う。屹度血が濃いのだろうよ」

「……願わくば、僕も中井の子に生まれたかった」

「詠太郎。おまえは人より恵まれているのだから、どうか己が身を悲観しないでお呉れ……」

「……」

 憂いを帯びた龍太郎の相貌が記憶の中の兄・桜州と重なる。──此の儘また妙な白昼夢を見てしまうのではないか──そう危惧した青年は、一切の煩悩を断ち切ろうと目の前の仕事へ意識を傾ける事にした。

「ふふっ、馬鹿力だな……。君、父上にも其の調子で按摩してたのかい……」

 図らずとも力が篭っていたらしい。着付けた袴帯は綺麗な横一文字に結ばれてはいるが、腰回りは妙にきつく絞られている。

「……兄上は半身不随となり苦しんでおられた。按摩も試みたが、手応えは無かった様に思える。曰く触れられている事は分かるのだと」

「其の方が良い。痛覚があればギャアギャアと喚いただろうから」

 最晩年の桜州は中風が悪化し身体の自由を失っていた。治療の一貫として按摩を呼ぶ事もあったが、西京の按摩師は夕方から客をとる。其の為日中手が空いた時は詠太郎自ら按摩を行う事があった。通いの盲按摩を見様見真似で其の技を会得したが、中々さまになっているだろう、との矜持もあった。按摩に限らず下の世話から食事の介助まで献身的に看護にあたったが、桜州自身は其の間酷く居心地が悪そうにしていた。



「……君も遂に年貢の納め時か」

 紋付羽織に切房の羽織紐を留めた龍太郎は、格好だけなら何処ぞの名士にも見えた。

「然しもの放蕩息子も父親の御遺言には逆らえない、と謂う訳だな」

 白扇をあおぎ乍ら、他人事の様に呟く龍太郎──併し直ぐに瞳の奥へ怒気を宿す。

「……併し其れは其れ、此れは此れ、如何にも気に入らぬ。父上は正三位、昔であれば大納言、今なら伯爵だ。将軍家ですら真面に叙されぬ位階をたった一代で、然も薨去後では無く生前に得たのだ。此れがどれ程偉大な事か、中央で胡座をかく無能な官吏共には分かるまい。伊集院の如き無爵、本来なら中井家の足元にも及ばぬ。中井家は当主を差し出すのに対し向こうは二女だ。全く気に入らぬ。……全ては原の計略だ。父上が亡くなった事で一度は縁談も反故とされたはず。縁談の履行を松方本田らに進言したのは屹度原に違いない」

──パチン、と音を立て扇子を閉じると、先程までの剣幕が嘘の様に穏やかでいる。気分の乱高下は桜州も激しい方だが、龍太郎の其れとは又様子が異なっていた。

「まぁ見てろ、気に入らなければ好き勝手にやって直ぐに愛想を尽かせてみせるさ。行状修まらず離縁となれば父上と原の見込み違いだったと謂う訳だ。……後は然うだな、安寧の地を求め女護島へでも旅立つか」

 自身の境遇を好色一代男へ擬えて笑い飛ばすが、詠太郎の心中は複雑だった。

「……兄上の遺した御縁を、君は無下にする気か」

「或いは。……然う怖い顔をするな。今日は僕の晴れの日なのだから、心ならずとも祝ってお呉れ」

 詠太郎の手を取り、渡り廊下へと誘う──

「さぁ行きますよ、詠太郎叔父さん?」

「……あぁ」

 披露宴の間へ向かう最中も、龍太郎の饒舌は止まない。

「なぁ詠太郎、我ら子の運命など奴等の掌の上、轍を真っ直ぐに進む事を原兄は願っている。併し予め定められた運命など真っ平御免だ。我ら子は絡繰人形では無い。いつまでも子飼いの雛では無いのだと思い知らせてやるさ……」

 襖を開けると、花嫁が恭しく両手を付き花婿を待ち構えて居る。顔を上げれば名家の子女らしく、清楚な面立ちに色白の大和美人だった。黒引き振袖姿に正絹の角隠しが見目よく花嫁然としている。

 伊集院家の花嫁を前に、詠太郎は自身の胸の内へ熱い何かが込み上げるのを感じた。此の婚礼が兄桜州の切望した物と思えば喜びもひとしおだった。感動の儘に龍太郎を眺めれば、龍太郎も又詠太郎を眺めている。慈母にも似た穏やかな眼差しを向け乍ら──

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酔生夢死 日和見 @kakuyo-2022-b

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