第7話

──明治二十九年九月某日

  中井弘逝去から遡る事一ヶ月前──


 此の秋、京の都は往年と比べ人の往来が少なかった。人通りの少ない事が却って静謐を好む公家や墨客達を歓ばせたが、殆どの洛の人間にとっては面白くない。古都をかの如く閑地へ至らしめた第一の要因は日清開戦にある。朝鮮の内乱鎮圧に端を発した日清の確執は修復不能にまで陥り、遂に八月一日、日清両国から戦線布告を行い戦争の火蓋が切って落とされる。九月には軍艦の乗り入れが可能な宇品港を擁する広島へ大本営が造営され、明治天皇も其の行宮を広島へ移す。つまりは此の時分、日清戦争の収束する明治二十九年まで首都は東京では無く広島であった。──青天の霹靂、臨時首都広島は嘗てない程の活気に満ち溢れ、政府要人に軍人役人、更には商人職人、野次馬根性を出した道楽人に到るまで皆広島へ移り日清戦争を盛り立てた。

──最早日本は清国の如く経済的文明的蹂躙を甘受する三等国では無い。開国から僅かに三十年、開明に開明を重ねた日本の勃興は西洋諸国も目を見張った。然し時代は黄金時代の序に過ぎ無い。此こから僅か数十年の間に清国を降し露国を降し、果てに東洋随一の先進国、大日本帝国の様相を成すとは一体誰が想像し得ただろう。

──中井桜州は此の頃、平安遷都千百年紀念祭勧進の裏で軍事公債を助勢していた。金策は桜州の十八番の一つで、御一新後の奥羽列藩征討に於いては政商を抱き込み後方支援にあたり、滋賀県令になると今度は曲者揃いの近江商人を手玉に取り日本一の県庁を構えたのである。──兎角桜州は先の数十年が動乱期である事を予見し富国強兵を支えた。日清開戦に際しては今回は相手が清国で良かった、西洋諸国であったなら攻略は容易にはいかないだろう、と周囲に洩らして居た程である。


◆◆◆



「『仁者は天地萬物を以て一体と為し、己に非ざる貴し──』」



──何れの場所からか朗々とした声が聞こえる。読本から顔を上げ、詠太郎は障子戸を僅かに開いた。

「……」

 声の主が桜州である事は独特の抑揚で直ぐに分かる。かなりの上調子である事も──桜州はどうやら聴講者を相手に漢学を教えているようだった。洛の横山邸は土曜日に門戸を開き清談高論を行う。知識人の集まりや教育といった向きがあるが、中井自身が談話を行う事もあれば論客や学生が好き勝手に議論する場合もある。演説の類いを不得手とする中井は思いのほか人が集まると論客の陰に隠れる様にしていた。中井の世話する書生は勿論、近所の学生や趣味人、名だたる漢学者等も集まるので横山邸は時に宴会場宛らの喧騒となる事があった。


(良かった、今日はお元気そうだ……。)

 兄の声に耳を傾けながら、詠太郎は手元の読本へ意識を戻す。読本は兄・桜州への贈り物として洛東で購入した物だが、渡しそびれて今に至る。家人に対しても雲の様に淡白でいる桜州だが、最晩年は特に其のきらいがあった。持病を拗らせ寝込む事が多くなり、次第に家の事からも離れていく──併し清談だけは話が別で、殊に学生と交わった日は往年の生彩を取り戻す様だった。詠太郎も洛に居る間は清談を共にする事があったが、この日は近隣の大学生が多く居るようで、表に出るのも億劫になり読書に耽る事にした。詠太郎は一度東京での学業に失敗しており、洛へ帰る事を兄に拒まれた経験がある。其の為に桜州が目を掛ける大学生に対して、ある種の鬱屈した思いを抱えていた。

──蛇足になるが、当時の最高学府は今より余程狭き門で帝都には選りすぐりの英才が集った。藩閥に漏れた者の立身出世は学無しでは話に無らない。是等の理由により明治期の大学受験の厳しさは筆舌に尽くし難い物があった。世に名だたる名士の中にも落第者退学者は多く居たのである。


「ん……?」

 洋書は一見して英字の読本の類だったが、よくよく読むば見慣れぬラテン語が要所へ記されている。ギリシャ神話を題材にした戯曲であると気付いたのは、ラテン語辞書と睨み合いを始めて暫く経ってからの事であった。

「『父を殺し、母と契る』……?」

 本の内容はオイディプス王の悲劇──実父を其れと知らずに殺害し、未亡人の実母を娶る物語をアテナイの劇作家ソポクレスが舞台用へ仕立てた物だった。現実とは凡そかけ離れた設定に勿体ぶった台詞回し──典型的なトラゴーディア、ギリシャ悲劇の一幕であるが、余りに倫理を欠いている。オイディプスの悲惨な末路に詠太郎が眉を顰めた時、俄に屋敷が騒がしくなった。次いで幾つもの足音がドタドタと重なる──

「?」

 不審に思った詠太郎が戸を開け放つと中庭を挟んで大向こう、客間の前に人集りが出来ている。目を凝らせば中心に居るのが兄・桜州だと分かった。併し其の身体は床へ臥し、苦しげに呻いている──

「……兄上!」

 ただごとではない、そう直感した詠太郎は読本を放り桜州の元へ駆け付けた──


◆◆◆


 清談の最中病に倒れた桜州は丸一日の間昏々と眠り続けた。医者から中風の恐れありと聞かされていた詠太郎は、寝る間も惜しみ桜州の傍へ控える。詠介翁も又息子の一大事を心配そうに見守っていたが、寝ずの番は老体に堪えるらしく早々に根負けして自室へ戻って行った。日が落ちてからは使用人も離れへ行き、寄宿している書生達は桜州の容体を気遣い静かにしている様だった。

「……」

 角行灯に火を灯し揺らめく炎を眺めていると、一寸世界から断絶した様な気分になる。此の世は実は、自分と兄のたった二人しか存在していないのではないか──狂人めいた考えだと頭を振り、青年は兄の胸へ耳を押しあてる。ドクドクと波打つ鼓動は宛ら母の胎内に居る様で、詠太郎は無意識の内に其れを心地良いものだと感じた。

「う……」

 不意に聞こえた呻き声に、詠太郎は目を見張った。漸く兄が意識を取り戻したのだと思った。何か言いたげにはくはくと動く唇、そして土気色の顔をじっと見守る──

「……お、おやっどん……?」

 息も絶え絶えに絞り出された言葉は、弟詠太郎に対する物では無かった。『おやっどん』とは薩摩弁で『お父さん』の意、つまり実父詠介への呼び掛けを表す。病床とはいえ老父と見間違われた事に詠太郎が辟易して居ると、桜州が布団の中で芋虫みたように身体を捩るのが分かった。

「……んん……。な、なァ、おやっどん、身体が動けん……。目も良う見えんのじゃ……。手を握りたもんせ……」

 桜州は幾度となく目を瞬き良く視えはしないかと奮闘している様だった。詠太郎は掛け布団の隙間からそっと腕を差し入れ兄の手を強く握りしめる。生来貧弱な五尺の短軀であるが、ぼこぼこと骨が浮き白磁みたように冷え切った手のひらは桜州の翳りを否が応でも思い知らされる。──在りし日、筋骨隆々に逞しく思えた中井桜州の姿は、矢張り幼心が視せた幻だったのだ──そう理解した詠太郎は無性に遣る瀬無い気分になった。

「あいがとお……、おやっどん……温けぇなぁ……」

「……」

 桜州の思い違いに併せて父親の如く振る舞う強かさを詠太郎は持ち合わせていない。どうしたものかと考えあぐねていると、桜州の方から腕を引き払っていく──

「……おいは親不孝者ぢゃ。人より負けん気が強うて身体は弱かで、いつも貴方に要らん心配をかけちょっね……」

──兄の目尻へじわりと涙が滲む。やがて一滴の雫となり枕を濡らすのを、詠太郎はじっと見守った。

「うぅ……、身体が動かん……こんまま生きた屍になってしまうやもしれん……嫌ぢゃ……そげんなって、老いた貴方に迷惑を掛くっなんてまっぴらごめんぢゃ……。いっそ殺したもんせ、貴方に殺さるっなら本望……惨めな姿で生き恥をかきとう無か……一度は貴方に生かされた命ぢゃ、潔く引導を渡して呉れろ……。御役目を果たせんなら、おいはもう終わりぢゃ……。書も書けん、本も読めん、家族に疎まれ世間から忘れ去られ、阿呆になってん生き長らえる……そげんなるなど願い下げぢゃ……。実ん親とようやっと一緒になったんじゃで、こげんつまらん事で憎まれとう無か……こん世にもはや未練など無か、……たった一つ、おいが為に流刑となった貴方を除いては……」

 病態に因るものか桜州の悲観は止まず、しくしくと涙を溢し続ける。詠太郎は掛ける言葉を見失い、布団の上から病人の身体を撫で摩った。

 桜州の一度目の脱藩は一家離散に因る物だが、二度目の脱藩は其の罪が詠介へ及び老父は再び流刑の憂き目にあった。詠介・桜州親子は数十年という時を離れて過ごしながら、其の運命は鏡合わせの様に表裏一体となっていたのである。御一新の後に無事親子は再会出来たものの、精悍だった父の身体は島暮らしに因り痩躯へと変わり果て、桜州は深い悲しみに暮れる。同居後は忠孝の教えを守り父を立て、大いに厳父を歓ばせた。平素反権威主義で何者にも媚びない態度の桜州だが、君主・明治天皇と実の親だけは話が別なのである。生き別れた母は帰藩に際し再会、後に東京へ呼び寄せ、父も又離島から引き取り豪華な御殿を建てた。『両親と共に暮らしたい』──少年・横山休之進の慎まやかな願いは実に三十年の時を経て実現したのである。公務に追われながらも愛する父の願いとあれば如何なる道楽へも付きあった。桜州にとって一番に愛すべき肉親は詠介──其れは誰の目にも明らかで、家の子供達には実子の別なく厳しく教育するので余計にそう思われた。──併し実際の所は少し違う。子に対する態度は、桜州の生真面目かつ心配性な質が表出しているのであり、子の行く末を案じるが故の親心であった。如何せん自身の事には無頓着で素直では無い性格である。中々肉親であっても真意を図り兼ねるというのが実情であった。


(……兄上は、弱かお人ぢゃ。剣豪朱雀操を降した事で洛では猛者扱いされては居る。併しどうだろう、兄上は漢学に傾倒する余り武士の子であるのに剣術も真面目にやらなかったと謂うじゃないか。朱雀操は多勢に無勢で偶々運が良く首級をあげられただけ……。兄上は剛健などではない、見るからに非力だ。だからこそ馬鹿にされぬ様身の丈に合わぬ大言壮語を吐く。周りの顔色を伺い乍ら、極めて冷静に奇人の如く振る舞って見せる。幼い頃両親と引き離され、十六で路頭に迷い、志は強くありながら寄る辺も無く、泥水を啜って生き永らえてきた。其の内、本当に泥が染み付いてしまったのだ。奇行は謂わば兄上の虚勢、奇人の振りをし乍ら虎視眈々と回天の機を狙って居る……。幇間の道を選んだのも弱者たる知恵だろう、正攻法では人を降す事容易ならず、王道を逸した……。)


「……」


(然れども、僕は兄上の弱さが愛おしい。此の弱かお人は、御役目とはいえ人を殺めた事を、いつまでもいつまでも悔いて居る。兄上を真に理解する人間は多くはあるまい。数少ない理解者の一人であり、最も近しい親族は僕だ。兄上の病態は芳しくない……此れからは庇護される側では無く、僕が兄上を護り、其の手足となるべきなのだ。)


「おやっどん、……原は良うやってくれるが、與一は手ん施しようもなく我儘に育ってしもて……。お貞ももう、おいが死んだら離縁さるかもしれん……。……不安ぢゃ……、原をないとか引き止められんか、お貞にも良う言い含めたもんせ……」

 いつしか落涙も止み、桜州の放談は際たる悩みの種──子供達へまで及ぶ。

「龍太郎……、龍太郎に謝りたか……。あん子は出来が悪かが性根はどん子よりも優しか子ぢゃ……。朱雀操ん法要へ助力してくれると云うとぢゃ、おいを気遣うて……。ただ脳ん病を抱えちょっだけじゃ、それだけなんに、おいは長男ん癖に人並みに出来んあん子を落第者と決めつけてしもた……。嫡男らしゅうせんかと叱り付けて……。おいが厳しくしたせいで、あん子ん人生を狂わせてしもたんかもしれん……。中井家は殆ど終わりぢゃ……。皆何処かへ養子に出す事も、あん子達にとっては良か事なんかもしれもはん……」

 桜州は平素龍太郎に厳しくあたりながら、其の実誰よりも彼を愛していた──少なくとも此の時詠太郎にはそう感じられた。慈父宛らの姿は中井家を歯牙にもかけぬ普段の様子からは凡そかけ離れている。

「……」

 詠太郎の心中はまるで釈然としない。弱気に中てられているとはいえ、龍太郎の如く詐欺師まがいの小悪党を擁護するなど理解に苦しむ。──其してふいに、詠太郎の頭へ一つの疑念が湧いた。『龍太郎が兄の言う通り誰よりも優しい子ならば、自分という存在は一体、兄にとって何だと言うのか──』

「……詠太郎はどうか」

 思ったままの疑問を口に出した。声は出来る限り低くしてみせたが、兄を騙しおおせぬなら其れでも良い、と青年は考えた。詠太郎の物問いに桜州は二、三目を瞬き逡巡をはじめる──

「詠太郎……、詠太郎は……良か子や。いじらしく……従順で、良う尽くしてくる。じゃっどん其れだけぢゃ……出来は良かが困った子ぢゃ……。おいの真似ばかりして、自分の意思ちゅうもんがまるで無か……そん点では龍太郎には及ばんやろう……。いつまでもおいん後へついて回り、独り立ちせん……学業も真面目にすっ気が無う、すぐ洛へ逃げ帰ろうとすっし、外人女へうつつを抜かしちょ……悪戯に弄び、真面目に付き合う気が無かと抜かすぢゃ……。其ればっかいか……、否……、分からん……じゃっどん、末恐ろし……、妄執が酷かぢゃ……。実ん兄、神仏か何かと見誤っちょんのや……。あん子ん目は時折……おいを射殺す様に鋭か……ないか間違いが起こらんな良かとじゃが、心配ぢゃ……あや真面目な性格じゃっで、いつか暴発してしまうんじゃらせんかと……。おやっどん、おいん力ではあん子を御すっ事が出来ん……。くれぐれも言い含めちょいた、勉学に励み、貴方を大切にすっごつと……。おいへん拘りを……捨ててくれれば……、良かとじゃが……」


 桜州はそれきり言葉を噤み瞼を閉じた。喋り疲れて寝入った風でもある。

「……」

 行灯の灯が音を立てて揺らめき、部屋中の陰は意思を持つかの様に其の表情を変えてゆく。

 呼気の度に幽かな喘鳴を伴い、桜州は確かに生きている。必衰の翳りに深い陰影を刻む横顔──其の姿を、険しい表情で詠太郎は見詰めていた。


◆◆◆



「……叔父さん、詠太郎叔父さん」

「えっ?」


 ふいの呼び掛けに詠太郎は素っ頓狂な声を上げる。──併し如何にも、頭の中身が判然としない。まるで白昼夢から立ち返ったかの様である。怖々として周りを見渡せば見慣れた扁額に文机──間違いようも無く横山邸の奥座敷である。其して直ぐ目の前には中井龍太郎が居る。

「どうしたんです?ぼうっとして」

「え……、あ、いや……」

 詠太郎は慌てて自身の姿を顧みる。──紋付袴に白足袋を履き他所行きの正装をしている様だった。対する龍太郎は長襦袢姿で腕には黒の長着を抱いている。

「しっかりし給えよ、今日は一日介添をして呉れるのだろう?」

 龍太郎に手渡された長着は見事な五つ紋の羽二重だった。丸の内に二つ引きは兄桜州が中井姓を名乗り始めた頃からの家紋である。

「……介添?何を、」

 訝しく手元の長着と龍太郎とを交互に眺める──

「何って、今から伊集院家との祝言で、世話役を頼まれたのが君、横山詠太郎じゃないか」

──と、仰々しく肩を竦めてみせる龍太郎。対する詠太郎は訳がわからない、とでも言いたげに首を傾げる。

「待て、聞いていない。……祝言?何故そんな話になっているんだ?兄上は知っているのか、この事を」

 龍太郎は吃驚し詠太郎の顔を穴が空く程見詰める。

「……父上は、死んだだろう。五ヶ月も前に……」

「えっ」

 詠太郎の腕から羽二重が滑り落ち、螺旋状に足元へ折り重なった。

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