第6話



 明治二十七年六月三日

 中井弘の死より遡る事四ヶ月前

 京都・御幸橋端横山邸──


 有明行灯の灯が部屋の様相を映し出す──。橙色に染まった間には布団・文机・箪笥に本棚と一通りの生活用品が並び、壁に掛けられた曼荼羅図が其処だけ異様な存在感を放っていた。文机へ向かい乍ら、青年・詠太郎が兄の蔵書を熱心に読み耽っている。──すると突然部屋の障子戸が開き、廊下から人が現れた。

「……兄上!洛へ戻られたのですね」

「ウン、戻ったよ。もう何日か帝国ホテルへ泊まろうとも思ったが、煩い連中が来るからヤメた」

 来訪者は帝都帰りの兄・桜州だった。古びたトランクケースをぞんざいに床へ置くと、帽子を放り外套を脱ぎ捨て、襦袢一枚の姿になる。──桜州は粋人らしからぬ頓着の無さで、流行りの洋服へ目を光らせる一方で私服には拘りが無かった。ボロの長着や人の服を平気で着、海獺(註 ラッコ)の外套を好む余り伊藤総理のコートを盗み愛用したりもした。海獺には強い愛着があるようで井上侯爵の海獺の敷物を盗んだり娘婿の原へ特注の海獺コートを注文したりと謂った幾つかのこぼれ話もある。

「会議は如何でしたか?」

「ン……、どうって事は無いさ。爵位持ちの官吏共が何時迄もくだらぬ事で問答するのだから堪らない。鼻糞を投げ付けると石の様に押し黙るがな」

 白髪混じりの髪を撫で、桜州が不敵に笑う。然し如何にも覇気が無い。──実は中井の死に先立つ明治二十三年八月九日、桜州の後妻・竹子が鬼籍に入っている。齢三十五で早逝した妻の死は悔恨を遺し桜州の人格を豹変させた。錦鶏間祗候へ任じられ、寡黙を貫き妻の墓守に徹する日々──そこへ加えて伊藤総理から押し付けられた激務である。此の頃は生来貧相な体躯が更に痩せ、白髪も随分増えていた。其れでも仕事へ熱心に打ち込む姿は、地獄道の針山へ自ら攀じ登るかの様な悲壮感が漂った。

「ごほっ、ごほっ、ごほっ……」

 ふいに桜州が激しく咳込む。背中を弓なりに丸め顔は林檎の様に赤い。──持病の喘息の病態である。其の症状は夜半にかけ特に重く、横山邸の門前に居ても咳嗽が聞こえる程だった。詠太郎は脇の唐櫃から薬瓶を取り出すとグラスへ注ぎ分け兄の口へ直に押し当てる。そして嚥下音と共に喉仏が上下する様をじっと見守った。

 行灯の灯が桜州の顔に深い陰影を刻む。苦し気に寄せられた眉、額へ残る鉤爪状の創傷──健康だった頃の見る陰も無く頬は痩け、死にゆく者の危うさみたような色香がある。

「……有難う。ぢゃあ俺はもう寝るから、おまえは部屋へ戻りなさい」

 ごほごほと小さい咳を繰り返しながら、煎餅布団へ横になる桜州──其の肩口まで掛け布団を被せて、詠太郎は側に控える。

「兄上の入眠を見届けます」

 殆ど半目の状態で桜州が返す──

「そおかい……誰に似たのやら。龍太郎や與一へ爪の垢を煎じて飲ませたいくらいだ……。俺は素行が悪いから良い嫡子に恵まれなかった。おまえだけが心身共々健康に育ってくれて嬉しいよ……」


 此の頃中井の嫡子、横山の庶子、詠太郎の実弟に到るまで皆放蕩者に育ち、中井の最たる悩みの種となっていた。多忙を極めた桜州は娘婿の原に家長を代行させるが、此の作戦も敢えなく失敗に終わる。子の中で唯一詠太郎だけは品行方正で、中井は特に目を掛けていた。甥や兄弟の勝手気儘な振舞いには詠太郎も随分悩まされ、原へ苦言を呈した程である。


「……。兄上は横山家の誇りです」

──後継問題に関しては兄の苦悩を十二分理解出来るが故に、上手い返しが思い付かない。

 詠太郎の戸惑いを敏感に察知したらしい。桜州が布団からそっと腕を出し弟の手を握る──

「詠太郎、おまえの容貌は父上のお若い頃に瓜二つだ……。俺は故あって早くに親と引き離され、婆様や猿渡家(註 詠介の姉の家)に育てられた……。父は父で猿渡に疎まれ島流しにされたりとお辛い目に合っていたから、上手く甘えられた記憶が無い……。姉弟同士で争うなどは愚の骨頂だ。同じ血を分けながら何故憎しみ合うのか……。兎角父上似のおまえを見ていると時折、郷愁の念に駆られるのだ。父を捨て故郷を去ったあの日の事を、何時迄も俺は悔やんでいる……。彼の世では家族と共にありたいと願うが、俺は武士でも無い癖に人を殺めているから屹度地獄へ堕ちるだろう……。おまえは恵まれているな。只一度しか無い幼年期を父上と共に過ごせたのだから。父上はもう御歳八十の爺様だ。老い先長くはあるまい……。もう足腰も弱いから余り遠くへは連れ出せないが、あの人がまだ元気のある内に孝行してやるんだよ……」

「………はい」

──実父の話を不得手とした詠太郎は又も反応に窮する。そうして居る内に行灯の灯も消え、辺りは静寂へ包まれていった。


◆◆◆


 明治二十七年六月四日──


 洛中の横山邸は京都御所の直ぐ傍、鴨川の手前荒神橋付近に位置していた。横山邸を中心に川向こう、御所と真向かいの位置にはもう一つ、洛の心臓とも言える要処・平安神宮がある。同宮は平安遷都千百年紀念祭に際し桓武天皇を祭神に創祀された官幣大社で、後に桜州の手掛けた琵琶湖疏水を引く名勝・平安神宮神苑を宮内へ組み込む。更に敷地内には観光都市・京都の地位を磐石せしめた祭典、内国勧業博覧会会場がある。──ある、というのは僅かに語弊があるかもしれない。明治二十七年六月当時には平安神宮・内国勧業博覧会会場共に未だ建設の途にあり、其の落成を待たずして此の年の十月に桜州は急死した。兎角琵琶湖疏水、平安神宮、内国勧業博覧会、其して今日我々が利用する市内電車に舞鶴線、更には豊公以来の淀川大改修工事に到るまで皆滋賀県令、京都府知事を歴任した桜州が深く携わっている。外交官として欧米諸国を見聞し、殖産興業の知見ある桜州は課題の募る京都府知事に最適解とされた。此れら晩年の激務が桜州の寿命を縮めた要因であったと言っても過言では無いだろう。


「詠太郎、出掛けよう」

 朝食の最中、庭先から桜州が現れ詠太郎を手招く。浴衣にカンカン帽、高下駄にステッキと私服姿の出立ちだった。詠太郎は汁で飯を掻き込み直ぐに食器を片す。自室へ戻り上物の長着へ着替えてから外へ出ると、待ち草臥れた様子の桜州が門の傍へ座り込み何やら砂地を弄っていた。覗き込めば、七言絶句の佳作が其処へ掘り込まれている。

「……『酔生夢死……』?即興で詠まれたのですか?」

「あぁ、今作った詩だ。どうだね出来栄えは」

「流石は兄上、傑作です」

「ふふっ、おまえは何時もそれだねぇ……」

 さっと立ち上がり、袂の砂埃を手で叩く桜州──然し陽光の下でも其の顔色は優れない。

「兄上、良いのですか。寝ていなくても」

「平気さ。其れに此れは性分の様なものだから……」


 兄弟は連れ立って御幸橋を越え、鴨川のほとりを南へ歩いた。通行人と擦れ違う度に雅号の桜州山人で呼び止められる。世の中に官吏は数多いれど、雅号で名の通る者はそう居ない。中井は官吏としてよりも寧ろ、風流人として広く其の名を知られていた。政治的醜聞とは無縁の世界に居た為、清廉潔白な人物と目され府民からの信頼も厚い。──詠太郎は兄・桜州の人気を見るにつけ言い知れぬ喜びを感じる。兄と其の隣に立つ自分までもが何だか誇らしく、高潔な人間であるように思えた。


 桜州の手引きで復元最中の平安神宮へ立ち入り、あれやこれやと講釈を受ける。当時は大内裏の一部を復元中で、博覧会の跡地へ神宮を完成させる予定なのだと云う。大極殿は勿論の事、就中神苑に期待を寄せているらしく、自身の完成させた琵琶湖疏水の妙と殖産興業の重要性などを切々と語ってみせた。土木関係者に睨まれる前に神宮を後にし、内国勧業博覧会予定地を見て回る。凡そ十八万平方メートルと謂う広大な敷地に大理石の人口池が造られ、幾つかの建物が未だ建設中だった。会場の外には琵琶湖疏水まで延びる市街電車を新設し、電力も疏水の水力発電で賄われると謂う。二人で其の予定地を眺め乍ら、比叡山を超えた先にある琵琶湖湖水にまで思いを馳せた。


 博覧会予定地を見物し終えると、兄弟二人は鴨川の沿道へ戻り更に南へ向かった。岸には天ぷら屋、うどん屋、団子屋、飴屋等幾つかの屋台が並んでいる。その内団子屋に目を付けた桜州が新粉細工を注文する。新粉細工とは甘く練った新粉餅を用いて動物や花を模った餅菓子で、外観は飴細工にごく近い。──桜州の注文した新粉細工は一対の桜の花だった。其れを手のひらに載せて横から下から眺めている。中井弘は故郷鹿児島の桜島に因み号を桜州と定めたが、散り際の美しさから桜の花其れ自体にも愛着があるのだと云う。詠太郎へ片方の桜花を与え、そっちの小さいのはおまえのだ、と微笑する。

 洛の鴨川沿道は聞きしに勝る桜の名所である。翌年の四月、桜州が音頭を取る平安遷都千百年紀念祭が敢行される。其の時又二人で本物の桜を見たい、屹度見事な景色だろう──詠太郎はそう遠くない先の未来へ想いを馳せる。

 尤も、年を跨がずに桜州は薨去するのだが。平安遷都千百年紀念祭は本来四月であった物が繰り下がり、桜州の喪中明け、桓武天皇の遷都日にあたる十月二十二日に敢行された。此の祭は平安神宮例大祭、通称を時代祭と呼ばれ今日にも親しまれている。


 兄弟二人が買い食いを愉しんで居ると、反対方向から西洋の婦女子が数人連れ立って来るのが見えた。其の内の一人に詠太郎が恭しく会釈を始め、其れを見た桜州が弟を揶揄い始める──

「何だ、想い人か?」

「えっ?あの方は只の顔見知り……今お世話になっている英語教師の姉妹にあたる方です」

 桜州は尚もニヤニヤと下卑た笑みを浮かべ、扇子の下でそっと耳打ちする──

「でもおまえ歳頃だろう。さてはあの娘に気があるな」

「……素敵な方だと思いますが。僕は学生の身ですし、それに高嶺の花です。あの方のお兄さんにはとてもお世話になっておりますので、ご家族の皆さんを会食へお誘いしました。懐石など日本の文化を紹介したいと……」

 話を切り上げたい一心で足早に西洋人の一群から遠ざかる詠太郎──桜州は其の後をぴったり付け、其のまま二人は八坂の門前町へ入って行った。


「さっきの話だが。良い縁談じゃないか?夫人が英国人なら箔がつく」

「だからそんな関係では……!」

 一体何をどうすればそんな解釈になるのか。詠太郎の狼狽振りを意に介さず、桜州は尚も続ける──

「冗談で言っているのではないぞ。和人が西洋の女を娶るなどは一流の紳士たる証拠だ。随分胸がすく話じゃないか」

 八坂の門前は多くの参拝客で賑わい、つげ櫛屋や菓子屋の前は特に若い女が屯していた。化粧を落としているが各々仕草に何処か艶がある。祇園の娼妓の昼の姿なのだろう、桜州の姿を認めては矢庭に黄色い声を上げる。桜州は気前が良く話上手なので祇園の様な花街では特に人気があった。


「……おまえに大事な事を教えよう。昔から西洋人は我々亜細亜人を下に見る向きがある。現に米国では十年も前から支那人の排斥が行われているだろう。支那人が駆逐されれば次は和人の番だ。対岸の火事などでは無い、危機感を持つべきだ……」

 桜州は此の頃流行りの紳士帽子屋の前へ詠太郎を手招き、此れは良い此れは良くないとこっそり品評して見せる。

「……西洋人には現人神を理解出来ぬ。では俺達は西洋の何を理解出来ている?毛唐夷狄と呼び忌み嫌うのだからお互い様だ。価値観や信仰、人種の壁は決して浅くはあるまい。……優生思想は危険だ。然し何処にでも必ず生まれる」

 兄弟は門前を見物がてらに歩いたが、其の内に的矢へ目を付けた桜州が得意気に袖を捲る──

「俺は有為の士の悲惨な末路を何度も此の目で見て来た。俺が仕留めた朱雀操も其の内の一人だ。官吏の俺は朱雀の如き暴漢を赦さないが、もう一人の俺はあの男への同情を禁じ得ない。人の命は決して対等には扱われず、西洋人が怪我をすれば和人が腹を切らされる。……許し難い屈辱だ。俺達は欧米列強から言われなき差別を受けている。これは明白だろう」

 弓を構え、的へ狙いを定める。キリキリと弦のしなる音が響き、次いで風切り音が聞こえた。

「……だから俺達は俺達のやり方で戦うのさ」

 矢尻は正確に的の中心を射抜いている。武芸の類は不得手の割に、何事にも要領良く成功させるのが桜州だった。感心した詠太郎が手を叩くと、桜州がエッヘン、と胸を張る。

「……だが然し。国や思想を跨ぎ生まれた愛は本物だ。おまえがあの娘を娶りたいと言うのであれば、俺は協力を惜しまんよ」


 八坂の南には桜州の妻・竹子が眠る西大谷がある。其処へ散歩がてらふらふらと参るのが隠居時代の桜州の日課だった。桜州と竹子とは親子程歳が離れ、滋賀県令時代の夫を陽となり陰となり支える賢妻だった。二人の間に子は無かったが桜州は竹子を心より愛し、竹子の死を境に洛へ隠遁した。桜州の心の傷は深く、其の意味では妻の死は桜州の寿命を縮めた遠因とも呼べるかもしれなかった。


「……お竹、おまえの好きな新粉細工だ。此処へ置いておくよ……」

 鴨川で買った桜花の餅は大事に懐へ仕舞っていたらしい。妻の墓前へそっと備えて手を合わせる。詠太郎も此れに続いたが、密かに盗み見ると桜州は声を殺して泣いている。此んな時、詠太郎は無性に所在の無さを感じた。兄を慰めるべきか、其れとも気付かぬ振りを続けるべきか──

「ン、……?」

 此の日は勇気を出して手巾を差し出した。桜州は鳩が豆鉄砲を喰らった様な顔で詠太郎を見上げる。

「差し出がましい様でしたら、面目ありません」

「……うん、お節介だねぇ。兄の面目も丸潰れだ」

 其のまま兄弟で顔を見合わせ、居心地悪そうに笑う。桜州の落涙もすっかり止んだ様だった。


 西大谷を出て北へ向かうと、桜州の足取りが急に重くなる。詠太郎は空を見上げた。──まだ日は高く、病状の悪化する夕刻には遠い。然し高下駄で初夏の洛を半日中歩き詰めと謂うのは、中年親爺には流石に応える様だった。

「兄上、休みますか」

「ウム……少し疲れたな。最近は体力が無くていけないねぇ……。井上のように寒中水泳でもやれば強くなるのかな」

「寒中水泳?鴨川で、ですか?水泳以前に凍死すると思いますが」

「其処は真面目に答えなくて良いのだぞ……」

 此の問答にも疲れたらしい桜州が深く嘆息する。ふと思いついた詠太郎が矢庭にしゃがみ、背を向けた。

「兄上、僕の背に乗りますか?」

「え?それは嫌だな。皆が俺の顔を知っているのにそんな恥ずかしい姿を見られたら、又珍奇な噂が広まってしまうよ。閣僚会議で前後不覚に陥り芳川に抱かれて一夜を明かした事があるんだ。其れは直ぐに噂になった……」

「それは、懇ろに慰められたと云うわけですか?」

「馬鹿な事を言うな。……何にも無い、恐らくは」


 兄弟は連れ立って三条大橋のふもとへ降り、橋下の納涼床を借りる。──此の頃夏になると鴨川の岸辺や橋の下には高床形式の涼み処が出店し、京都人を大いに愉しませた。納涼床の文化は鴨川沿道に於いて今日にも引き継がれている。


「京の都は良い街だが、兎に角異常に暑いな……平安時代の連中は直垂や十二単衣なる厚着をして一体どうして此の地で生き長らえて来たのか……」

「……はぁ」

 納涼床へごろ寝をし文句を垂れる桜州。然し眠気が勝る様で、一寸後にはうつらうつらと舟を漕ぎ出す。そんな兄の気ままな姿を眺めて、詠太郎は一人感慨に耽る──


──兄上。洛は確かに夏は暑く冬は寒く、非合理の極み……住むには適していません。ですがそんな事は僕には如何でも良いのです。貴方の居る場所へ僕は共にありたい。


 ふと思い立ち兄の顔を覗き込む詠太郎──然し直ぐに肝を冷やす。寝ている桜州の顔色が紙の様に白い。息継ぎに胸が上下している事を除けば死人の様にも見て取れた。幼い日、地獄の日々から救ってくれた兄・桜州──然しあれ程逞しく感じた腕も良く見れば枯れ木の様に痩せている。詠太郎は涙を堪え切れず、眠る兄の傍へそっと寄り添う。


──……兄上、僕を置いて逝かないで下さい。妻帯なども今は考えられません。僕にとって何より大切なのは貴方です。貴方さえ居て下さればそれで……。


 鴨川の流れが視界の中でぐにゃりと歪む。生き急ぐ兄の身を心より案じ、その波乱万丈とも謂える運命を恨めしく思った。


◆◆◆


 納涼床で想定外に時間を潰してしまい、兄弟が横山邸へ帰宅した頃には既に日が傾いていた。炊事場では飯炊が食事の準備をしている。桜州は父・詠介と談話を楽しみ、詠太郎は向かいの席で黙々と夕餉を摂った。湯浴みの後は早々に自室へ篭もり英語の勉強を始める。


「くそッ、」

「……」

 ふいに兄の自室から怒鳴り声が聞こえる。其の原因に思い至り詠太郎は小さな溜息を吐いた。

「くそったれッ!どいつもこいつも、出来損ないばかり……!」

 床を殴る打音に加え怒号は激しさを増してゆく。然し半刻も経てば声も途絶え、横山邸は水を打った様に静まった。──屹度薬を飲んで眠りについたのだな、と詠太郎は一人合点する。

 桜州は此の頃、府知事の仕事に忙殺されて家長の仕事を娘婿の原へ一任していた。家長の仕事とは無論子供達の監督業も含まれる。晩年の桜州は放蕩息子を酷く持て余し、直接の遣り取りを努めて避けていた、と謂うのも多分にある。文や電報で事細やかに原へ指示を出し、原は桜州へ現状報告を怠らなかった。まめな性格の二人だから出来た話だが、他の家庭で此れを行えば岳父と婿の衝突はまず避けられないであろう。桜州最期の数年間は子供達に兎に角振り回された。原からの報告に毎度の如く癇癪を起こし、怒り狂うか叫ぶかしているが、次の朝にはケロッとしているので詠太郎も横山の血とは矢張りそういうものか、と一人で納得していた。 



◆◆◆



明治二十七年六月五日


 此の日の朝、詠太郎は何時もより早く起き洛東へ向かった。疲労困憊する兄を如何にか元気付けようと、詠太郎なりに贈り物を考えたのである。新門前の書房へ赴き古今東西の本をあれこれ品定めする。──桜州は世に知らるる滑稽談の遥か真逆、勤勉家としての側面も併せ持っていた。愛用の鞄へ蔵書を詰め込み、暇さえ有れば勉強している。自身も文人として数多の著作物を持つ桜州である、書物に対する兄の偏愛具合を詠太郎も知っていたので、贈り物には何かしらの本が相応しいと考えた。


「桜州山人の息子はんやな。偶に一緒に散歩してるのを見かけんで」

 ふいに店番から声を掛けられ、詠太郎は物色中の棚から顔を上げる。

「え、はい?息子では無く弟ですが……」

「あぁそうなん?そら悪かったなぁ。余りに歳離れてるからてっきりねぇ。ほな横山はんが老齢になってから頑張って作りはった子なんやな。君らのおとんも良う此処へ来んで。もう八十になるのに勉強家で立派やなぁ。山人も詩家では大家やけど、漢籍の学はおとんには敵わへんのちゃうかな」

「……」

 詠太郎は煩わし気に眉を顰め本棚へ視線を戻す。専門書から艶本読本、和書に漢書に洋書と書房の品揃えは中々良い方だった。

「ほな、ひょっとして君は詠太郎君?おとんが良う自慢してんで。自慢の息子やと。君は特に品行方正で詩文の才があるそうやな。自身は人前に出るのも恥ずかしい身やから、嫡子達は真っ当に育ってくれて嬉しいと喜んどったで。子煩悩なおとんなんやな」

「……え?」

 煩い親爺だな、と話半分に聞いていた詠太郎だったが、父・詠介が自分を褒めていたと知り漸く顔を上げる。詠太郎の記憶の中の詠介は酔っているか風流に被れているかで子煩悩、と謂う印象はお世辞にも持てない。然し他人に対しては良父を演じているようだった。──其れが本心なら普段から我ら横山の子を素直に可愛がれば良いだろう、と詠太郎は僅かに苛立ちを募らせる。

「ほら、横山はんとこは爺様が薩摩の家老の何かでご立派な人らしいやないの。そやから横山はんはえらい苦労したんちゃうかな。嫡男は家格に見合う身の振りをしいひんと後ろ指を指されるから。山人のお子はんは勝手気儘にやってるらしいけど、そうでもしいひんと辛いやろうな。何せ父親は押しも押されへん時代の寵児・怪傑中井桜州や。中々あの身の振りは真似出来ひんよ」

 書房の主人が突如手を打ち、奥へ引っ込んだかと思えば何冊かの本を手に戻る。題目からして如何にも滑稽本の類であった。

「桜州山人の傑作選や。山人の詩歌や専門書は高尚なのを好む人らに人気があるけど、儂らのような学のあらへん者にはややこしゅうて良う分からん。滑稽本は読みやすいわおもろいわで昔から人気やで。府知事になってから余計に人気があるから自分用に取って置いとるんや。良かったら貸本にすんで」

「……滑稽本に書かれる兄上の逸話はでたらめが多い。流通させるな、とまでは言わない。せめて文筆家は本人に『これはでたらめではない』と言質を取るべきじゃないか……」

 詠太郎が嫌悪感も露わに物申す。主人は気にしてしない様子で秘蔵の本を奥へ仕舞った。

「……そやけどまぁ此れは只の娯楽やから。嘘か真かはさしたる問題ちゃうで。弟殿、三日前の朝に自分が何しとったかなんて詳細に覚えてへんやろ?其れとおんなじでどないなご立派な人でも、ほんまの過去なんぞ詳しくは分からん。活字になったら他人の曖昧な記憶やら気持ちの良し悪しで幾らでも好きに書かれる。此れは仕方ないやろ、神仏でも無い限り正確公平には出来へんのや。儂ら人やからなぁ。吾妻鏡が北条氏の手による物やと、儂ら知っとって尚物語へ夢中になる。好きに書かれた方がおもろいとわかりきっとるからや。そら、事実をそのまま知るのんは到底無理やで。要は本を本やと割り切って受け入れるか受け入れられへんか、嘘をママ信じてしまうんもそうで無いのんも、読み手の度量の問題や。君も文筆家になればその辺り分かるんやないの?」

「……」

──其れではまるで、『おまえは本如きに目くじらを立てる、狭量な小人物だ』──と言っている様なものではないか。詠太郎は喉まで出掛けた言葉をぐっと飲み込む。

「……此れを下さい、兄へ贈ります」

「はい毎度あり。四十五銭ね」

 一刻も早く書房を立ち去りたい気分に駆られ、適当に選んだ本を主人へ手渡す。──此の頃詠太郎は自分の身の回り品、嗜好品等を兄・桜州から貰う小遣いで遣り繰りしていた。


◆◆◆


 咄嗟に選んだ本は西洋の読本の様だった。兄の趣味に適うかは分からないが、少しは気分転換にはなるだろう、と詠太郎は考えた。──屋敷へ戻り、其の足で兄の自室へと赴く。

「兄上、詠太郎です。入っても宜しいですか」

「……詠太郎か、待っていたぞ」

──僅かに障子戸が開き、桜州が応える。

「はい、失礼します」

「……」

 桜州は机へ向かうでも無く部屋の隅へ座していた。平素鬢付けで撫でてある髪が、此の日は何の手入れも無く茫茫に乱れている。兄は黒の長着に白帯を締め、鬼気迫る表情で弟を見ていた。

「おまえ、英国の女へ迫ったらしいな」

「……え?」

 訳もわからず詠太郎が首を捻ると、矢庭に桜州が文机を指差す。そこには一片の手紙が読み捨てられており、筆記体の英文が長々と連なっていた。

「……僕の世話になっている英語教師からのものですね。でも宛先は兄上になっている。なんだろう……」

 筆記体と睨み合い、不明瞭な単語は飛ばし読み、何度も文面を目で追う──

「これは……」

「読めたか?勉強している素振りでおまえ、外人女を無理に外へ連れ出そうとしただろう。女は苦痛を受けた、甚だ迷惑、金輪際付き纏うな、今後同じ事が続けば金を要求すると書いてあるッ!」

 激しい打音に続き破砕音が聞こえる。──桜州が文机を強か打ち、其の衝撃で薬瓶が割れたのだ。

「そんな、誤解です……!信じて下さい兄上、誓って其の様な不義はしておりません!」

 詠太郎は顔を青くし乍ら桜州へ弁明する──

「おまえには幻滅した。父上の子だからと目を掛けてやったが、所詮は外女の子。真面目に勉強するつもりが無いのなら学費を止めるぞ」

「……!」

 最愛の兄から謂れの無い非難を受けて、挙句実の母を下女呼ばわりまでされ、詠太郎の狼狽は激しさを増してゆく──

「……違うッ、僕にほんのこてそんつもりは無かった!あげんおなごなどに興味は無か……。屹度僕が和人じゃっで馴れ馴れしゅうされて気に障ったど……。然しじゃっでと謂うて、余りに容赦が無か……。此れが西洋人のやり方か?酷か悪意や、酷か裏切りだ……!」

「此の後に及んでまだシラを切るか?素直に謝れば寛容にしてやったものを……」

 余りの悔しさに涙を流す詠太郎を、冷ややかな顔で桜州は眺める──

「……僕は、僕は西洋ん流儀に詳しゅうあいもはん。語学だってまだまだだ。あん人達ん言うちょっ事を本当ん意味ではまだ理解出来ん。じゃっどん、例え文化が違うたとしてん……人ん真心を悪意に変えてしまう様な人とは共存出来ん……。言葉が上手う通じちょらんのは僕ん落ち度じゃ。嫁入り前ん婦女子へ軽率に話し掛けたんもいけんかった。じゃっどんほんのこて、僕は誓うて無実じゃ!貴方に迷惑を掛けっ様な事は一切しちょらんッ!」

 床畳を叩き慟哭する詠太郎──然し桜州の目は依然冷めたままである。

「……詠太郎。おまえの自己弁護にはウンザリだ。例えおまえに其のつもりが無くても向こうがそう思えば其れで通るのだ。正義は常に被害を主張する側にある。外人であれば殊更だ。そんな事もおまえは分からないか……?」

 床へ散った硝子片を胡乱気に眺め、桜州が深い溜息を吐く。詠太郎はハッとして割れた瓶を凝視する。

──もし次に発作が起これば、薬を持たない桜州は一体どうなってしまうのか。まず平気ではあるまい──。

 兄の身の危険を感じ、漸く詠太郎は平常心を取り戻す。思考が纏まれば桜州の言葉の意味も理解が出来る。──然し如何しても、其の内容に賛同する事は出来ない。


──そうだ。僕は加害者なんかじゃない。貴方は本当は、相手が西洋人である事を酷く気にしているのでは?……其れは貴方が生粋の外交官だから。そして日本は西洋諸国へ勝てない、とも思っている。無意識の内に被差別を認めているのだ……。

──何故そのように和人を卑下するのです……?昨日の貴方は和人への差別に憤り、僕と彼女の縁組みを喜んでいたはずだ……。


「兄上、違うのです……」

 説得を試みようと桜州の傍へ寄るが、兄の憔悴振りに二の句が継げない。桜州は詠太郎の顔をぼんやりと眺め、矢庭に立ち上がる──

「詠太郎、最早おまえまでもか……?おまえら横山中井の子は、何故皆そうなんだ……?何時も何時も何時も何時もッ!人の恩を蔑ろに好き勝手ばかり……!龍太郎もお貞も人並みに生きられぬ神経病、與一は不良、松太郎詠ニも遂におかしくなってしまった!人に迷惑を掛け、金を湯水の様に使い、独り立ちしよう等とは少しも考えようとしないッ!もう、沢山だ……。貴様らの様な出来損ないが居るからッ!竹子は気を病み、若くして死んだのだッ!」

 拳を何度も壁に打ち付け、狂飆とも言える苛烈さで慟哭する桜州──其れは詠太郎の知る、平素飄々とした兄の姿とは大きくかけ離れていた。

「兄上……、」

 詠太郎は急に心許ない気分になり桜州の脚へ縋り付く──

「……悲しまないで下さい兄上……意図せず貴方を失望させたのは僕の罪です。貴方の納得のゆくように振る舞いますし、責任は取ります……。だからどうか、僕を見捨てないで下さい……。兄上、貴方は僕の神だ。貴方は僕を地獄の底からお救い下さった……。僕は此れ迄、貴方だけを大切に想い生きて来たのです……。貴方無しでは僕は、此の先も屹度生きられ無い……」

「……は、」

──桜州の落涙は止み、弟の顔を訝しく見詰める。

「詠太郎、おまえ……」

「兄上、どうか……どうか僕を貴方の子にして下さい。僕は貴方を裏切りません……。貴方の跡継ぎは、僕こそが相応しい……!」

 詠太郎は切迫した表情で兄の胸へ縋る。桜州の表情は死角となり見えないが、肩を抱かれる感覚は僅かにあった。遠い昔、我が子の様に慈しんでくれた優しい兄の面影が、ふと脳裏へ甦る──


「兄上……、」

「詠太郎、おまえは一体何を言っているんだ?おぞましい……其の手で俺に触れるな」

 詠太郎の腕を払い、矢庭に突き放す桜州──

「えっ、」

「さてはおまえ、脳病か?あまり俺を幻滅させるな。龍太郎のように感化院へ送られたくなければな……」

──捨て台詞を吐き、桜州は其のまま部屋を立ち去る。一人取り残された詠太郎は訳も分からず兄の言葉を反芻していた。


──『脳病』。……『脳病』?…………僕が?あの放蕩者と同じ『脳病』と云うのか……?


「兄上、僕は……」


 障子戸の隙間から射す光が部屋の様相を映し出す。暗がりの中鈍く光る硝子の破片を、茫然自失とした顔で、詠太郎は何時迄も何時迄も眺め続けた──。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る