第5話


 横山邸へ戻ると龍太郎は再び一人で何処かへ出掛けていった。──桜州が生きて居た頃の龍太郎は勘当同然の扱いで、金の無心以外には滅多に実家へ戻らなかった。其の頃の癖が未だに抜けず、親族が集まる横山邸よりも馴染みの女の家の方が心地が良いのだろう、と詠太郎は考えた。桜州も桜州で馬鹿の一つ覚えに放蕩を繰り返す龍太郎を生前苦々しく感じていたが、家に居られる方が寧ろ苦になるので国外へやったり田舎へやったりと好きな様に放逐していた。


 屋敷の門前で詠太郎は大きく嘆息する──時刻は零時を回っているが、先の遣り取りが如何しても気に掛かり直ぐに寝付けそうに無い。勝手口から屋敷へ入り瓶の水を柄杓で掬う。気付け代わりに一口飲めば、冷や水が沁み渡りすっかり目が覚めた。そっと框を上がり寝室へ向かうと、奥座敷から何やら話し声がする──

「……?」

 声の主は父・詠介のようだった。其れが一人で何事か問答している。一抹の興味が湧き聞き耳を立てるが、老父は気付く気配が無い。煌々と廊下を照らす行灯の灯、障子越しに人影が揺めき巨大な影を創り出す──。


「『敦盛の印しの旗を須磨寺に……憐れを残す、南無阿弥陀佛……』」

「……!」

 詠太郎は不意の落涙を堪える事が出来なかった。先の歌には聞き覚えがある。息子・桜州の行方を尋ね諸国を放浪した時分、播州須磨寺へ流れ着いた詠介が平敦盛の死を悼み残した歌であると記憶している。平家物語に伝わる一ノ谷の戦いで、潔く散った若武者敦盛。最愛の息子・桜州を敦盛に重ね、阿弥陀如来へ称名を唱えているのか──

「休之進、休之進……。親不孝者め、おいより先に死にやがって。おめが薩摩を出た後も、おめを思わん日は一日たりとて無かった。おめを探して江戸と大阪を何度も往復したんじゃぞ。三度海難に遭い那智山へも登った。命懸けでおめん無事を権現様へ祈願したんじゃ。それなんに、それなんに……ないごて親んおいよりもはよけ死んど?親より先に死ぬは地獄道も免れん罪業だぞ、親不孝者め……。死んだ先まで苦労すっ事は無か。はよ帰って来やんせ、休之進……」

 やがて空咳混じりの嗚咽が漏れ始め詠太郎は掛ける言葉を失う。其の場を立ち去ろうと踵を返すが、不意に床が軋み耳障りな音が鳴った。

「!誰だ、」

 直ぐに詠介が気付き、障子を開け放つ──

「……詠太郎!ようやっと帰ったんか、休之進ん満中陰にどこをほっつき歩いちょったッ!横山ん次期当主じゃちゅうとに皆へ挨拶もせんと、休之進の遺した御縁をおめは無下にすっ気かッ!」

 詠太郎の姿を認めた途端、迅雷の如く捲し立て酒器を投げつける詠介。猪口や徳利から溢れた酒が各々見事な弧を描き出す──酔っ払いの飛び道具を右へ左へと避け乍ら、詠太郎は心中口惜しさを感じた。父・詠介に桜州の死を悼む先程までの殊勝さは無く、少しでも同情した自分が急に馬鹿らしく思えた。

「親に向かってなんじゃそん目は……馬鹿にしちょっとか、おいはおめん父親だぞッ!」

「うっ、」

 此の時急に、詠太郎は猛烈な目眩に襲われた。

 伏見の屋台酒が尾を引いているのか将又別の理由か、今が明治何年で何月何日なのかも判別がつかない。父の怒号は徐々に遠ざかり、行灯の灯も次々と消えてゆく──

「……?」

 見渡せば辺り一面黒、黒、黒──まるで無限地獄の闇へ一人取り残される様な感覚を覚えた。幾ら注意を払っても父どころか壁も障子も行灯に至るまで、目視出来る物は一つも無い。

「っ!……っ、」

 事態に気付き詠太郎は頗る当惑した。叫ぶにも口は開かず手足の感覚も消えている。

──此処は現世か、其れとも幽世か。五感を失くした世界で唯一人、詠太郎は未曾有の恐慌に襲われる。

「……、」

 其の時、遥か彼方で幽かに人の声が聞こえた気がした。意識を研ぎ澄まし声のする方へ耳を傾ける──


〽しづやしづ──


 よくよく目を凝らしてみれば、暗がりの中ぼんやりと浮かぶ影がある。奈落の底に只一点、右へ左へと揺めき乍ら人の形を為していく──


「……」

 影は小紋姿の人のようだった。今様と共に神楽みたような舞を舞い、徐々にこちらへ近付いてくる──

 

〽しづのをだまき

 繰りかへし──


 人である事は確かだが、肝心な所で顔が見えない。殆ど背後を見せているが、くるりと振り向けば袂や扇が邪魔をする。詠太郎は訝しく目を細めた。


〽昔を今に

 なすよしもがな──


「……!」

 詠太郎はゴクリと息を呑む。遂に件の影と目が合ったのだ。詠の終わりに舞扇子の下から覗いた顔、其の面立ちは──



◆◆◆


「ごほっ、ごほっ、ごほっ……、」

 部屋へ籠る湿性の咳嗽──其の音を端緒にして、漸く詠太郎は我に返った。正気に戻れば周りが良く視える。一面の闇は露の如く消え失せ、横山邸は平時の姿を取り戻していた。直ぐ先では老父が床へ伏せ、背骨が折れる程に激しく咳き込んでいる──

「ごほっ、ごほっ、……くそ、おい詠太郎。咳止め持ってきやんせ……」

 喘鳴に喘ぎながら納戸の方向を指す詠介──其処には薩摩時代から愛用している散薬、更にはベルツ博士の持ち込んだ渡来品等が収納された百味箪笥がある。納戸へ向かった詠太郎は箪笥から硝子瓶を取り出すと、中の液体物をグラスへ注ぎ分け父の元へ戻る。

「おいも喘息を患うたんじゃろうか。咳が止まらんで、こいがあっと良う寝れるど……」

 暗赤褐色の水薬を行灯の灯へ翳し、てらてら光る様を親子二人で眺める。──喘息は卒中に先じ桜州を悩ませた持病の一つで、発作が原因で度々寝込み、晩年は症状の悪化を恐れ当人自ら断酒断煙を決意させた程だった。症状は夜半から明け方にかけ特に重く、其んな時に桜州は件の薬を好んで飲んだ。酩酊したような気になり良く眠れるようで、酒が呑めない分水薬を舐めて居たというのだから本末転倒である。兎角件の飲み薬は詠太郎にとって、桜州の喘ぎ苦しむ姿を想起させる嫌な物だった。

「おいは寝る。おめは仏壇へ手を合わせてから寝やんせ。休之進は今頃閻魔天ん沙汰か……。詠太郎……おめを此処まで立派に育てたんな休之進ん力があってこそだ。休之進はおめを第一に思うちょったんじゃっで、感謝を忘るっなじゃ……」

──満中陰、所謂四十九日は地獄の法廷にて故人の罪が裁かれる日であると古くから信じられた。閻王の浄玻璃鏡へ罪をうつし、亡者の魂を浄土将又地獄へと導くのである。

 亡き桜州の魂の行方を案じ、老父がしくしくと涙を溢す。泣き乍ら水薬を飲み、直ぐ横になり目を閉じた。一寸後には眠りに落ちたようで如何にも苦し気な鼻鼾が聞こえる。

「……」

 老父は此の時齢八十を超えていた。筋骨隆々とした嘗ての面影は既に無く、痩躯を小さく丸め昏昏と眠る姿は名状し難い憐れみを誘う──詠太郎はやるせ無い気分になり思わず目頭を抑えた。幼い時分にあれ程憎んだ父であったが、此の頃は一度眠れば毒にもならない。次の朝には酒も薬もすっかり抜けて、風流にかぶれた好々爺へ戻るのだった。


◆◆◆


 明治十年九月某日──


 封建制が崩れる以前、人馬を揃える為に馬場と呼ばれた此処鹿児島の千石通りには、中井弘が明治のはじめに建てた父・横山詠介の邸宅があった。城下の一等地に相応しく豪壮な造りの武家屋敷で、詠介以下横山の親族が何人かで暮らしていた。


 此の日は平素とは様子が少し異なる。手習いから少年•詠太郎が帰宅すると、屋敷の中が如何にも騒がしい。銘品やら何やら、無造作に籠へ放られ家中を埋め尽くしている。

「……こんた一体どげん事じゃしか?お手伝いさんまで総出で屋敷をひっくり返して、まるで煤払いんようじゃ」

「詠太郎。丁度良か所へ帰ったな。休之進から急ぎん文があったど。我らを東京へ呼び寄せたいと」

 詠太郎の疑問へ応えるように、背後から襷掛け姿の父が現れ一片の便箋を手渡す。──差出人は中井弘とある。

「暫く洋行ん予定も無く、目星をつけちょった邸を漸く手に入れたで急ぎ上京されたし、とん事や」

「えっ、兄上がおい達を東京へ呼ぼごたっと?」

「そうじゃ」

「っ!」

 詠太郎は万感胸に迫る思いに堪えきれず涙を零した。手紙の一行一行を目で追えば、確かに父の言葉通りの説明が其処へ為されている。殊更『今直ぐに、』を強調しているようにも感じられた。崩し行書の文体は乱れに乱れ、何かの強迫観念に囚われている風でもある──

「……まぁ此ん話は去年からあったで、前ん文でもおめ宛に書いちょったち思うがな。荷物は後から運ばせっで纏め次第発つど。はよ支度をしやんせ……」

 籠を手に座敷奥へ引っ込んだ詠介が、一寸後おおい、と手を上げる。遠くから得意気に見せたのは青海波の布包みで、中から一枚の画仙紙を取り出してみせた。其処には達筆な字で『僥倖』とだけ書かれている──

「覚えちょっか、詠太郎。此れはおめが初めて手習いから持ち帰った物や。上手う書けちょっな、休之進も大概能書家だがおめは或いは大家になっかち思うたもんだ。いつも苦労を掛けてすまんね、おいはどうも酒乱ん癖に呑まんではおられん……これからは心を入れ替るで、おめも東京では休之進ん言う事を良う聞っど……詠太郎?」

 返事が無いのを訝しく思い、詠介は詠太郎のすぐ傍まで寄る。そして其の時初めて、一種異様なる息子の事態に気が付く──

「おい詠太郎、おめ平気か……」

 返事は依然として無い。詠太郎の意識は中井の文へ注がれ、一枚の便箋を何度も何度も読み返しては感涙に咽ぶ──


──やっぱい、兄上は僕ん神や!

  僕ん心願を聞き届け、迎えに来てくださった!

  嗚呼愛しか兄上、一日でもはよ貴方にお会いしたかっ!

  会うてそん逞しか腕に、僕を抱き止めては下さらんか……


◆◆◆


「詠太郎、おまえは一体何を言っているんだ?おぞましい……其の手で俺に触れるな」

「えっ、」

 詠太郎はハッとして顔を上げた。直ぐ先には兄・桜州が居る。其れが嫌悪感を露わに、蟲でも見るかの様な目で自分を眺めている──

「さてはおまえ、脳病か?あまり俺を幻滅させるな。龍太郎のように感化院へ送られたくなければな……」

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