強い匂いが鼻をついた。


 タバコだ。


 久しぶりにかいだ気がする。


 私自身はタバコの匂いが嫌いではないが、チカは好きではない。


 消してもらわなくては、とぼんやり思う。



 しかし、今自分はどこにいるのだろう。職場だろうか。外? ここ数年で、喫煙できるスペースはほとんどなくなったけれど。


 氷の音がすぐ近くで聞こえて、私は目を開けた。


 自宅のリビングだった。


 眠っていたのだろうか?


 私は椅子に座っている。向かいにあるソファには、見知らぬ人物が座っていた。



「やっとこちらを見てくれましたね」



 見た瞬間に女性だと思ったが、声は男性のものだった。

 色が白く線が細い。真っ直ぐな黒髪を肩口て切りそろえている。

 夏だというのに袖の長い黒のシャツを着ているが、汗をかいているようには見えなかった。



 そうか、今は夏か。



 天井の隅を見ればエアコンが動いている。窓から見える空も、夏のもののように思えた。


「あの、うちは禁煙なんです。すみませんが、タバコを消してもらえませんか」


 私がそういうと、彼は「失礼」と一言いい、特にためらいもなく、懐から出した携帯灰皿にタバコを落とした。

 テーブルにはアイスティーの入ったグラスが三つおいてある。グラスの周りには水滴がついていて、時折、氷が動いて涼やかな音がした。


 アイスティーを出したのは誰だろうか。

 覚えていないが自分かもしれない。それに、彼を招き入れたのも。


 途端に不安になった。


「お母様は買い物に出られてますよ」



 そんな私の様子を見て、彼はそういった。

 何ということもない一言だったが、私の不安は霧散していった。

 彼を部屋に入れたのも、飲み物を用意したのも母なのだろう。


「あの、あなたは」


 私がそう尋ねると、名刺を渡してくれた。名前だけが印字されていて、会社名や肩書きなどは記されていない。

 私は名刺を持っていなかったので、名乗るだけにした。


 沈黙がしばらく続いた。


 母の客かもしれないから、母の帰宅を待とうと思った。もし彼が私の客だったとしたら、なんらかの話が始まるはずだが、それもない。

 初対面の相手と、無言で顔を付き合わせるというのは、どことなく気まずい。ちらちらと時計を見ながら黙って座っていると、視線の端で扉が開いた。


 寝室から女性が一人出てきた。


 あまりにも静かだったので気がつかなかったが、テーブルにグラスは三つあるのだから、客がもう一人いるのは予想できたはずだ。


 女性は私の顔を見ると会釈をしてから、こちらきた。

 男女は小声で何かやりとりをしているが、はっきりとは聞き取れなかった。


 なぜ女性は寝室から出てきたのだろう。


 そもそも、なぜ二人はここにいるのだろう。


 二人は本当に母の客なのだろうか。


 それらの疑問を尋ねようと、タイミングを見計らっていたが、二人は会話を終えると、神妙な顔つきで居住まいを正した。


「我々はあなたのご家族に依頼されてきました」


 男性はそう言って、一呼吸おいた。


「チカさんに会いたいですか?」


 チカに会いたい? そんな当たり前のことを聞かれるなんて。


「会いたいに決まっているじゃないですか」


 一瞬だけでも会いたかった。触れられなくても、会話ができなくても。


 男性は女性の顔を見た。女性は軽く首をかしげる。男性は少し思案すると、私の顔を見て頷いた。


「姿は見えないかもしれません」


 男性はそう言って小瓶を取り出した。実験室にでもありそうな形で透明。中には何も入っていないように見えた。


 彼はその瓶の蓋を開ける。


 すんと鼻を鳴らしたように聞こえた。中の香りを確かめたのかもしれない。そして手にした扇子でゆっくりと扇ぐ。


 何の香りもしなかった。


 何も起こらなかった。


 私が口を開こうとしたのを見て、男性は人差し指を唇に当てた。


 すると、玄関の扉が開く音がした。


 母だろうか。


 シューズボックスの上に鍵を置く音がした。


 静かな足音がして、目の前の扉が開く音がした。だが、音がしただけで実際には扉は閉じたままだ。


 足音は私たちを通り過ぎ、ベランダの前で止まる。カーテンを開ける音、掃き出し窓を開ける音がした。


「チカ?」


 これはチカが家に帰ってきたときの音だ。帰宅するといつも真っ先に窓を開けるのだ。

 私は立ち上がった。けれど声を探すために動くこともできず、息を潜めた。

 耳を澄まし懸命にチカの音を探すが、換気扇とエアコンの室外機の音が、やけに大きく聞こえるだけだった。


 急に体温が上がった気がした。


 私はソファに座りなおすと、あらためて来訪者の顔を見た。


「これは、あの、チカの・・・・・・幽霊ですか?」


 幽霊と言葉にした瞬間に、ありえないことだと思った。そんなはずはない。幽霊なんて存在しない。今のだって何かのトリックに決まっている。


「幽霊だとおっしゃる方もおられますが……そうですね、私にとってあれは人の記憶です」



 記憶というのは常に人体から漏れ出ている。


 普通なら誰にも気づかれず、すぐに消えてしまうものだが、何かしら強い感情をともなった際、その場や物に焼きつく。それが時として、人の目に映ったり音が聞こえたりすることがある。


 さっきの現象は、この家に残っていた記憶を集めて、私にもわかるようにしてくれたのだそうだ。


 動悸がなかなか治まらない。


 私は胸を押さえた。


「すみません」


 二人が私を見る。


「もっと記憶を集めれば、チカの姿を見ることはできますか?」


 


 次の日の朝、駅で待ち合わせて、新幹線に乗った。私たちの母校に向かうためだ。記憶が多く残っているとしたらそこ以外考えられない。


 私たちの母校はあの頃と変わらずそこにあった。


 タクシーを降りて正面玄関から中に入ると、作業服姿の男性が近づいてきた。二言三言話し、その男性の先導で歩きだす。

 どうやら先に話を通しておいてくれたらしい。どんな説明をしたのだろうか。


 私たちはまっすぐサッカー部の倉庫へと向かった。サッカー部は私たちが卒業して間もなく廃部になったのだ。使われなくなった用具はすべてそこに入っていると聞いていた。


 案内された倉庫は、家庭用の物置小屋のようだった。

 長年開けられていなかったせいか、引き戸は重かった。中から埃とカビの匂いが流れ出てきた。


 扉の隙間ぶんだけ光が入り中が見える。ビブスが落ちていた。

 照明はないようなので、扉を大きく開ける。二人はためらいなく中に入っていった。

 かごいっぱいのサッカーボール。ストップウォッチ。ホワイトボードには、最後の部員たちが書いたであろう寄せ書きが残っていた。

 女性はボールを一つ手にとり、目を閉じた。

 


 微かにボールの音が聞こえた。


 乾いた砂が風でまいあがる。


 私は目を閉じて、その小さな音に耳をすませる。


 ボールを蹴る音。そして、ゴールネットの音。

 私はその音が消えてしまわないように、慎重に目を開けた。


 チカがいた。


 あの頃のチカだった。


 身体は透け、向こうの景色が見えていた。


 それでもそこにいた。


 鋭い眼差しで前を見据え、一球一球、丁寧にボールを蹴る。足元のボールを蹴り尽くすと、今はもうないゴールへと走りより、透き通ったボールを回収すると、また別の角度からシュート練習を始める。


 私はただ見ていた。


 まばたきをすることすら厭わしかった。


 涙が流れたが、拭うこともしなかった。


 その時間がもったいない。


 そのうちチカの身体は、輪郭すらも、ゆっくりとぼやけていっていた。

 もうそろそろか、と私が思ったときだった。背後から足音が聞こえてきた。


 あの二人だろうか。


 私は振り返らなかった。


 チカはまだそこにいるのだ。


 すると足音は、私を追い越していってしまった。


 透明な背中。


 まっすぐにチカのもとへ向かっている。


 腰まで伸びた髪が揺れていた。

 あれは高校生のときの私だ。


 そうわかると、私は走り出していた。


 これはあの日の記憶だとわかった。


 あの秋の日。

 記憶の中の私は、途中で立ち止まり、チカに大きく手を振る。


 私は私に追いついた。


 チカの名前を呼ぶ。


文親ふみちかくん!」


 声が重なった。

 まだチカとは呼んでいなかった頃。


 チカが私に気づき、こちらを見る。


 視線があった。


 私は照れて笑い。でも、すぐに真面目な顔をつくる。真剣だと伝わるように。


 そして大きな声で愛の言葉を叫ぶ。


 するとチカは記憶の通りに、少し驚いた顔をして、珍しく大声で笑い、そして手招きをした。

 記憶のなかの私が、私から離れてチカのもとへ歩いていく。


 強い風が吹き抜けた。



 私の姿も、チカの姿も、もう見えなくなっていた。

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それでもそこに 秋月カナリア @AM_KANALia

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